24.蒼の笑顔
「蒼汰、起きて! おーきーてー!」
「う……ん、まだ、ねむ……い……」
「ダメだったら! アイス食べましょ!」
「…………寝起きにアイスとか、なんでぇ……?」
遠慮なしに身体を揺さぶられ、抵抗の無意味さに気づき、蒼汰はもぞもぞと身体を起こした。寝ぼけ顔で声の主を見ると、ハツラツな笑顔を浮かべた母が「おはよ」と声をかけてくる。
「はよー……、母さん。今日はやたらと元気だね……」
半分夢心地で、身体にかけられたタオルケットを脇によける。膜がかかったような目を手のひらで擦ると、ようやく朝日に照らされた自室がよく見えるようになった。
「私はいつも元気よ。当然今日も元気」
「そりゃよかった」
「さ、顔洗っておいで。アイス食べましょ」
「……んー……ま、いっか。顔洗ってきまーす」
何故朝からアイスなのか、という疑問への答えはないままだったけれど、蒼汰は大人しく洗面所へ向かった。
家の中はどこも暑くて、起き抜けから体力を奪われる。レバーを押し上げ水を出しても、なんとも言えないぬるい水が出てきて、ため息が出た。
「確かにアイス食べたいかも」
陽子がいるのだから、リビングは涼しいはずだ。
タオルでぽふぽふと濡れた顔を拭い、蒼汰はリビングに向かった。
「何味がいい?」
「何味があんの?」
リビングに入ると、キッチンの方から陽子が呼びかけてくる。陽子の他には誰もおらず、テレビだけが一人で喋っているようだ。
今ならアイス三個はいける。
思ったとおりリビングは涼しかったけれど、蒼汰はすっかり目が覚めていて、何故朝からアイスなのか、という疑問は溶けてなくなっていた。
「桃と、柚子と、ほうじ茶と、ワサビだね」
「……最後おかしくない?」
「おかしくないよー。だって美味しそうだったから」
「四つしかなかったら、全員分ないなぁ。みんなどれ食べるだろ……って……あれ?」
何かがひっかかる。
六人家族なのにアイスが四個。
ワサビ味だなんて攻めた味のアイスは、コンビニやスーパーで見かけたことはないのに、何故か味のイメージが出来た。
「あれー? オレ、ワサビ味食べたことあるかも?」
「ずるいー。じゃあ私がワサビ味もらうね」
「うん……いいけど……」
カップに盛られたアイスをパクリと口に運んで、「美味しー!」と陽子が笑う。
カップアイスではなく、アイス店で買うようなカップに盛られたアイスが、蒼汰の目の前に三つ置かれた。三つのアイスは少しずつ溶け始めている。
「小さい頃はみんなで作ったよねー」
「え? ……あぁ、そうだね。みんなでっていっても、ほとんど父さんか藍兄が用意してくれてたけど」
「そうそう、藍ったら透くんに似て昔っから料理上手なのよねー。あ、一口ちょうだい」
桃のアイスに陽子のスプーンが伸びる。ひとさじ掬われたアイスは、するりと陽子の口の中に消えていった。
「そういえば、八雲がいない……」
いつもは小さな身体でソファを占領しているはずなのに。リビングを見回しても姿が見えなかった。
「八雲って……あぁ、猫ちゃん?」
「そうそう……母さん達がいない間に飼うことになって…………」
「…………」
「なって……、母さんはまだ、八雲に会ったことなくて……」
「うん、そうだね」
「…………母さん?」
蒼汰が顔をあげると、陽子は困ったように微笑んでいる。三つのアイスのうち二つは、カップの中でドロドロに溶けていた。
「もしかして……オレ、死んだ?」
「…………」
蒼汰の問いには答えず、陽子は柚子アイスだったものをスプーンで掬った。すっかり溶けてしまったアイスは、カップの中で乳白色の液体になっている。
「大丈夫、生きてるよ。助かる」
「そ、そっか。よかった……」
蒼汰は自分の腰あたりに手をやった。ここに生まれた衝撃と熱。今はなんともないけれど、確かに銀の閃がここに吸い込まれたのを思い出した。
ぞわり、と肌が粟立つ。
手の先が小刻みに震え、それは次第に腕に、肩に、拡がっていく。
自身を抱え込むようにしても、震えは止まらなかった。
「おかしいな……、助かるって聞いてるのに、こんな……」
「怖かったね、蒼汰。大丈夫。もう大丈夫だよ」
震える身体を、陽子が抱きしめ優しく囁く。あやす様に撫でられた背中から、熱が身体の中に染み込むようだった。
「新はね、ひとりぼっちなんだよ」
「ひとりぼっち?」
「あれは世界の裏側にいるもの。誰の中にもいて、遠くて近い存在だけれど、決して交わらない。そこに在ってそこに無い、虚の存在」
「虚……」
「それなのにあの子は自我を持ってしまった。自分の願いを持ってしまったの」
「自分の願いって……持っちゃいけないの?」
蒼汰の疑問に、陽子は悲しそうにかぶりを振った。
「いけなくないね。でも虚は存在しないものだから、その願いが叶うことはないんだ」
「…………」
「それで新は、虚であるから願いが叶わないのなら、実に転じればいい、と考えたの。つまり、人の身体を手に入れようとした」
「人の……」
「それで目をつけられたのが、紫苑だった」
「姉ちゃん?」
蒼汰の素っ頓狂な声を合図にしたように、周囲の空間がゆらゆらと揺れる。陽炎の向こうにあるように見える部屋は、見慣れた家のリビングのはずなのに、どこか違和感があった。
「あ、姉ちゃんと燈李兄……が、ちっちゃい……」
紫苑がダイニングの椅子に座って、マグカップを傾けている。隣には燈李が憮然とした顔で座り、向かい側に透が座っていた。
紫苑と燈李は今より随分幼く、ランドセルを背負っていた頃だろうか。
「これは家の記憶。紫苑が新に攫われて、助け出されてきたあとの事だね」
「攫われたって……」
「この時は透くんが自分の中に新を封印した」
「封印……あいつが父さんのフリしてたのと、関係ある?」
陽子は無言で三人を見ると、ため息とともに目を伏せた。
「そうだね。あれは透くんの身体だよ」
「…………父さんは?」
「ここにいる」
陽子が自身の心臓辺りに触れる。蒼汰はくしゃりと顔を歪め、拳を握りしめた。
再び空間ががゆらゆらと揺れた。
場面が変わり、暗い廊下で一人、藍が鏡の中の自身を見つめている。
「藍は新の一部を与えられて、虚と繋がってしまった」
そう告げる陽子を、月明かりが青白く浮かび上がらせた。蒼汰はごくりと息をのむ。
「あの子は透くんの代わりに、自分の中に新を封印しようとしてる。たぶんそのまま、自分ごと封印するつもりだと思う」
「え……?」
「新の力を削る目的もあるだろうけど……。藍は封印の器になるために、無理に影を……虚を吸収してる。もう自分を保つのがやっと、かもしれない」
「何それ……」
確かに藍はめったに強い感情を出すことは無いけれど、いつも静かに微笑んでいて、蒼汰達家族には無条件で優しい。自分を保つのがやっとだなんて、そんな素振りを見せたこともないし、考えたことすらなかった。
また空間が揺れる。
紫苑と燈李の部屋のようだ。確かに昔は二人一緒の部屋だった。
先程見たダイニングの映像より、少しだけ成長しているだろうか。
「燈李は、紫苑が新に攫われた瞬間を見てるの。自分が何も出来なかったって、ずっと考えてた……ううん、気に病んでた」
「燈李兄が……気に病む? 燈李兄が?」
「自分が紫苑の手を掴めていたら、あんなことにはならなかったって。それで、もし次に同じような事があったら……自分が身代わりになろうと、思ったみたい」
映像の中で、二人が口論している。やがて涙を零した紫苑が布団に潜り込んでしまった。
「燈李兄が女の子みたいにしてるのって、もしかしてそういう……?」
「あの子はあれで、超がつくくらい真面目だから」
「…………」
また空間が揺れ、リビングに戻ってきた。
はじめに陽子とアイスを食べたリビングで、溶けた三つのアイスがテーブルに残されている。
「透くんも藍も頑張ってくれたけど、新は力をつけてしまった。本当は……相殺して弱めてから別の器に移すつもりだったんだけど。新の願いの強さに、私の力が追いつかなかった」
陽子の声が震える。
母の泣く姿など見たことが無い。蒼汰はびくりと顔を上げたけれど、陽子の目に涙は浮かんでいなかった。代わりに、感情が抜け落ちたように、表情がない。いつも笑顔だった陽子を思えば、涙と同じくらい珍しく、見たことの無いものだった。
蒼汰自身に、誰かを責める気などない。
「……オレだけ何も知らずに、呑気にしてたんだなぁ」
家族の中で自分だけが。
ただ守られていた。
そうとも知らずに。
『強い願望もなく、守られるだけの極陽は、別に脅威にはならないけどね』
新はそう言っていた。
蒼汰は自身の腰の辺りにもう一度触れる。恐ろしかった。熱い痛みと、死が迫る恐怖、為す術なく倒れたあの時の記憶は、きっと一生忘れられないだろう。
しかし――
「オレには何ができるかな?」
新の言葉は、逆に言えばそのまま新の脅威足り得るということだろう。
陽子は、新の強い願いに追いつかなかった、と言った。
必要なのは、強い願い。
新のそれをも凌駕する、強い願いだ。
「大変なことだよ。蒼汰」
「うん、オレ頑張るよ。オレは……絶対に家族を守る」
笑顔で言い切った蒼汰を、陽子は眩しげに見上げ抱きしめた。目尻に涙が滲む。
「……大きくなったね、蒼汰」
「母さん……オレもう高二だよ。身長だって家で一番高いし」
「うん……そうだね……」
「だからさ、母さん。母さんもちゃんと戻ってきてね」
「…………うん、絶対帰る」
再び向き直った二人には、どちらも笑顔が浮かんでいた。
「大事なのは笑顔、だよ、蒼汰。どんな時も前を向いて、笑顔でいるの。自分の願いを忘れないで」
「おっけー。そういうのは得意!」
「うん、蒼汰ならできる! 頑張って!」
「おー!」
蒼汰の決意を待っていたかのように、周囲が蜃気楼のようにゆらゆらと揺れる。庭に続くリビングの窓が輝き始め、真っ白な光で満ちていく。
「蒼汰、これを藍に」
「これは……うん、絶対渡す。すぐ渡す」
陽子が手渡してきたものを、蒼汰はぎゅっと握りしめた。それは暖かな光となって蒼汰の胸に吸い込まれていく。
周囲の景色と同じく、陽子の姿がぼんやりと滲み始めた。
「じゃあ母さん、行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい蒼汰。気をつけて! みんなにもよろしくね!」
「はーい!」
そうして蒼汰は、揺れる景色の反対側、光のトンネルの中に足を踏み入れた。
やられっぱなしはいけません。
試練は乗り越えてこそ。26話までー。




