23.紫の変転
石畳に誘導されて病院の裏口に回ると、そこには整えられた芝生の広がる裏庭があった。背の低い植木や花に囲まれた四阿にベンチも設置されていて、居心地はよさそうだ。普段は従業員が休憩するのにでも使うのだろうか。今は夜遅くで人気はないけれど、どことなくあたたかみを感じる場所だった。
従業員用の入口は閉ざされていて、ドアのすぐ隣にインターフォンがある。ためらいつつもインターフォンを押すと、数秒の間をおいて男声の応答があった。
『はい、守衛室です』
「あ、あの……空野と申します。えっと、都築先生に……」
『あぁ、伺っております。どうぞ』
カチっとドアが鳴り、錠が開けられた。話は通してあると言われていたものの、思った以上にあっさりしていて、少々拍子抜けだった。
恐る恐るドアノブをひねると、ドアの重さ以外になんの抵抗もない。そのまま中に入ると、人感センサーだろうか、パッと照明が点灯した。
「母さんの病室の隣だったよね……」
藍に言われたことを思い出し、靴音の響く廊下を進む。正面入口から入るのと勝手は違うが、紫苑はどうにか指定された部屋にたどり着くことができた。
まずは陽子の病室に入り、様子を窺う。ベッド脇に昼間には無かった写真が飾られていた。蒼汰が置いたらしいそれは、つい先日兄弟四人で旅行した時のものだった。
次いで、指定された部屋のドアをノックする。誰もいないようで、返事は無い。
「お邪魔しまーす……」
病室にはベッドが二台置かれていた。白系統でまとめられた室内は清潔ではあったけれど、病室特有の匂いやベッドヘッドの機器類に抵抗を覚える。もっとたくさんの機器に繋がれ目を閉じていた弟を思い出し、気分が鉛のように重くなった。
紫苑と燈李用なのだろう、二台あるベッドはどちらも寝具が準備されていた。
「大丈夫かな……」
蒼汰の容態はもちろん心配だ。それに加えて、藍も随分と顔色が悪かった。藍まで倒れるんじゃないかと、本気で心配になる。
さらに、燈李の様子も気がかりだった。燈李の態度がどこか投げやりで、いじけているように見えたのは、気の所為ではないだろう。
家族全員が、得体のしれない大きな渦に飲み込まれていくようで、紫苑の胸中はずっとざわついていた。
コンコンコン。
思いがけないノック音に、肩がビクリと震える。あわてて返事をすると、ドアを開けて入ってきたのは白髪をオールバックに固め、シワのない白衣を羽織った、老人だった。
「ん? 一人か? 片割れはどうした?」
「あ……燈李は、コンビニに」
「ったく、遊びじゃないんだぞ」
「すみません……」
眉間に皺を刻んだ老人が、白衣の裾をたなびかせて室内に入ってくるのを、紫苑は気まずげに目で追った。
明を老けさせ白衣を着せて、三倍くらい気難しくしたら、この老人になるだろう。身長は明のほうが高いだろうに、老人の威厳がそう見せるのか、明よりも大きく見える気がする。
老人、もとい都築院長は紫苑を追い越し窓際に立つと、窓の向こうを一瞥して紫苑に向き直った。
「藍から話は聞いてるか? 今日一晩ここに泊まってくれ」
「は、はい……ありがとうございます」
「今晩中にここの強化もせにゃならんのでな。構ってやれんから、子どもはさっさと寝るといい」
紫苑の来院を聞いて、様子を見に来たらしい。ほら、と手渡されたのは、おにぎりとペットボトルのお茶が入ったビニール袋だった。
「あの……、都築先生……」
「手短にな」
「は、はい。えっと、新は……ここに、来ますか?」
急かされたことで取り繕う隙もなく、紫苑は単刀直入に質問した。都築はふん、と鼻息を鳴らすと、腕を組んだ。
「来たところで、うちの敷地内には入れんさ。心配しなくていい。お前さんらはとにかく、今日一晩ここにいれば安全だ」
「はい……」
「影の狙いがお前さんだろうが、陽子だろうが、ここにいる限り絶対に守ってやる。だから絶対にここを出るな。いいな?」
「……わかりました」
紫苑が素直に頷くと、都築は紫苑の肩をぽんと叩き、足早に病室を出ていった。去り際に「片割れにも大人しくしとけって伝えておけよ」と言い残して。
「母さんのことも……私のせいなんだ……」
紫苑の震えたつぶやきは、誰にも届かず、白い病室に消えていった。
文庫本を閉じると、病院に着いた時から一時間近く経っていた。一人きりの病室は静かなもので、世界からこの部屋だけ切り取られてしまったかのような感覚になる。
都築にもらったお茶を一口飲んで、紫苑は窓の外に目をやった。
「燈李、遅い……」
コンビニに行くと言った片割れが、いまだに戻っていないのが気がかりだ。雑誌を立ち読みしているとしても、時間がかかりすぎている。
「何かあったんじゃ……」
急いでスマートフォンを手に取り、メッセージアプリを開く。燈李を選んで通話しようとした時、ちょうど電話の着信があった。
画面に表示された発信者は、空野透。
「父さん?」
静かな病室内に、着信音は思いのほか大きく響く。紫苑は慌てて画面をスワイプした。
「もしもし、父さん?」
『紫苑、よかった。無事だったんだね。今どこ?』
「今は都築医院にいるよ。父さんこそ、どこにいるの?」
『場所は病院の近くなんだけど、ちょっと困ったことになってて』
「困ったことって?」
『近くにいるなら紫苑、助けてもらえないかな』
「う、うん……」
透の声におかしな所はない。だが何かが引っかかる。
無事を安心した直後に、安全な場所を出るように言うだろうか?
透にも藍にも、過保護に育てられた自覚はある。
「……父さん、困ったことって、何?」
『…………人がね、倒れてるんだ』
「救急車呼ぼうよ」
『……ふふ、そうだね。紫苑は賢くなったなぁ』
電話口で分かるほど、透の声の雰囲気が変質した。くすくす笑う声が、電話ではなく部屋のあちこちから聞こえている気がする。
透を装ったこの声は、きっと新なのだろう。
紫苑は冷えていく指先を、ぎゅっと手のひらに握りこんだ。
『倒れてるのが燈李だって言ったら、どうする?』
「燈李に何したの?」
『さぁ? 紫苑がここに来たらわかると思うよ』
「……どこ?」
新の狙いが紫苑であるなら、ここで誘いに乗ることは悪手だろう。
だが、燈李を人質にされているかもしれない。
「燈李に何かしたら、絶対に許さないから」
蒼汰の怪我も藍の不調も、兄弟達はみんな紫苑のせいじゃない、と言うだろう。
だが、自分がきっかけには違いない。気に病む病まないとは別に、それは事実だ。
そして、自分がきっかけで家族が大変な目にあっているなら、自分が何とかしなくては、と思う程には、紫苑は怒っていたのである。
病院を抜け出して、地下鉄駅の方向へ向かう。終電は既に終わっている時間である。車は時折走っていくものの人通りはほとんどなく、一台のタクシーが終電を逃した客を待ち構えているくらいだった。
「なんで出ないの、燈李……!」
早足で歩きながら、何度も燈李との通話を試したけれど、まったく繋がらない。
本当に倒れているのだとしたら、と考えると、不安が膨れ上がる。額に浮いた汗に張り付いた前髪を乱暴にかきあげると、紫苑は駆け出した。
あまり都築医院から離れるのは良くない気がする。
だが、燈李が近くにいるとは限らない。
思考の堂々巡りと運動不足で、心拍数が跳ね上がる。
考えをまとめるため、足を止め何度も深呼吸をした。
燈李からの着信はまだない。
「寒い……」
呼吸を整えている間に、体感温度が急激に下がってきた。周囲に黒い霧がたちこめて、わずかに走っていた車すら見えなくなる。
「……最悪」
紫苑を取り囲むように広がった黒い霧から、十数人分の人影が染み出してきた。それらは一目で死霊と分かるほどに陰で満ちている。そして一様に黒い霧を纏い、表情は虚ろだった。体は紫苑の方を向いているのに、紫苑を見てはいない。
「この黒い霧……。これで新が操ってるのかも」
紫苑の脳裏に甦るのは、幼い頃数々の霊に襲われた記憶だった。彼らもみな、黒い霧を吐いて紫苑に襲いかかってきていた。
「新! いるんでしょ、出てきなさいよっ!!」
黒い霧に向かって声の限りに叫んでみたけれど、返事はなく、代わりに霊たちが包囲網を狭めてくる。
子供の頃とは違う。コントロールは覚えてきたし、自分の限界はわかっているつもりだ。
「あの数はまずい……けど」
すっかり囲まれて逃げ場がない。近くに燈李の姿がないことだけを確認し、紫苑は霊たちを見た。
「あそこが薄いかな」
突破口と決めた場所へ真っ直ぐ進み、大きく腕を振りかぶる。
接触は刹那。
風を切って振り抜かれた紫苑の右の平手が、立ちすくむ霊の頬に触れる瞬間――
「残念、ここはハズレ」
「と……」
黒い霧の中から現れた男が、紫苑の手首を掴んだ。
透の姿で、透の声をしたその男は、眼窩に闇を湛えた透ではないモノだった。
「父さん、じゃない……新?」
「そっちは当たり。わかってくれて嬉しいよ、紫苑」
にたり、と弓のように歪めた唇からは、黒い霧が這い出していた。
「離してっ!」
手首を掴んだ新の手を振り払うと、意外なほどあっさりと離された。しかしその場を動くことはなく、紫苑を通す気もないようだ。
「なんで父さんのフリしてるのか知らないけど、悪趣味すぎ。やめて」
「別にフリじゃないんだけど……いや、フリかな? ボクはボクだし、この体は透だし……」
「……?」
ぶつぶつと考え込んだ新の意図が読めず、紫苑は眉をひそめる。何かの罠を疑うものの、長く考える時間はなさそうだ。紫苑を取り囲む霊たちが、じわりじわりと距離を詰めていた。
新の気が逸れているうちに――
踵を返そうとした時、目の前にいた霊がぐにゃりと形を変えた。
「っ!?」
溶けるようにして崩れ、人の姿を失っていく。すぐに他の霊も同じように溶け崩れ、寄り集まり、黒い霧と混ざって、ひとつの塊になった。
「なに、これ……?」
塊のあちこちから、呻き声が上がる。
まるで助けを求めるようなそれは、紫苑の頭の中を直接掻き乱す、酷い不協和音だった。
「や……め、て……」
「これをどうにか出来たら、紫苑には何もしないよ」
「え……?」
「ボクの可愛い紫苑……懐かしいね、覚えてる? 公園で一緒に遊んだこと」
「忘れるわけない……」
「嬉しいなぁ。信じられないかもしれないけど、ボクは紫苑と一緒にいたいだけなんだよ」
「…………」
「あぁ……紫苑……。キミの魂をボクに見せて?」
再び新の手が紫苑にのびる。
今度こそ紫苑は踵を返し、新に背を向けた。
呻く塊は大きく、一瞬の吸収だけでは隙が出来そうにない。躊躇っている余裕は無かった。
霊の集合体に右手をかざし、陰を奪う。本来なら霊は力を削がれ無力化するのだけれど、何体もの霊が混ざりあった集合体は翳る気配すら見せない。
「大きすぎる……」
紫苑のコントロールできる容量を超えた陰は、紫苑自身を害するようになる。
チラリと振り返ると、嬉しそうに笑みを浮かべる新が紫苑を見ていて、進むことも退くこともできなかった。
これ以上はまずい。
紫苑が集合体に翳した手を離そうとした時、背後から新が覆い被さってきた。
「止めちゃダメ。頑張って、紫苑」
「ぅ……ぐ…………」
食いしばった歯の隙間から、空気が漏れる。
吸収を止めようとするのに、霊たちの方がそれを拒絶するかのように紫苑の中に入り込んでくる。
苦しい、辛い、助けて、という声と共に、魂に割り込まれ、いとも簡単に紫苑のコントロールできる容量を超えた。
頭痛と吐き気と目眩がいっぺんに始まり、足元がふわふわと覚束なくなる。
冷や汗が吹き出して、ガタガタと体が震え始めた。
「その調子。偉いね、紫苑」
「……」
声も出せず、新に背後から抱えられ、霊たちを吸収し続けて。
十数人の霊が寄り集まった集合体は、跡形もなく紫苑の中に消えた。
「苦しい……くる、し……助け……」
立っていられなくなった紫苑は、そのまま地面に座り込んだ。
新は満足げに笑みを浮かべて、紫苑を見おろしていた。
蒸し暑い空気が辺りに戻ってくる。車のエンジン音が聞こえ、タクシーが一台走り去って行った。
立ち込めていた黒い霧も、幻だったかのように晴れている。
「えー、大丈夫ぅ? 酔っちゃったー?」
先程のタクシーから降りた客だろうか、若い男が座り込む紫苑を覗き込んだ。すぐ側にいる新の存在にはまったく気付いていないようだった。「わー、美人さんじゃーん」と好色をにじませた男など、いつもなら関わりさえしないはずなのに。
今の紫苑には、何よりも救いの手に見えた。
縋り付くように、紫苑は男の腕を掴む。
「苦しい……」
「え、結構マジな感じ? タクシー行っちゃったんだけどぉ…………? あれ?」
ぼうっと男の顔を見上げた紫苑は、手のひらに力を込めた。
この苦しみから逃れるために必要なものは、陽の気であると、意識の外で理解していたから。
「なんだこれ……力が抜ける?」
しかし紫苑が奪えるのは陰だけで。
男が倒れるまで吸収しても、苦しみはむしろ増すばかりだった。
「苦しい……くる、しい……?」
ふと気付くと、目の前に男が倒れていた。
ほんの数秒前のことが記憶にないけれど、手のひらに残る感触が、何が起きたかを突き付けている。
「わ、たし……が……? 嘘、嫌だ……!」
「あーあ、殺しちゃったね」
「!」
降ってきた新の声に、肩を震わせ振り仰ぐ。体が苦しいのは依然続いていたけれど、それ以上に、目の前の信じ難い事実に、呼吸の仕方がわからなくなっていく。
「こんなに直ぐに正気に戻るとは思わなったけど」
「殺した……? 私が?」
「そうさ。キミは大量の陰を吸収して、生きた身体を持ったまま死者と同等になったんだ」
「嘘」
「信じられないなら試してみるかい? 生者がキミに近付けば、キミは陰の魂に引きずられる。吸収したくてさっきみたいに正気を失う。相手が誰だって――例え家族や友達だって同じことだよ」
「……嘘」
「みーんな、キミを守ってたのに水の泡だねぇ。透は死に、陽子は消えた。藍に至っては人として生きることを捨てようとしてる」
「……どういうこと?」
「言葉のままさ。全部ぜーんぶキミのせい。可哀想にね、蒼汰もキミのせいで虫の息。燈李はどうしてるかな? その辺で倒れてるかもね?」
「…………う、そだ」
唇がわななき、涙が落ちる。イヤイヤする子供のように首を振るだけで、紫苑はそれ以上の否定ができなかった。
「ボクと一緒に行こう、紫苑。キミの存在は家族を苦しめるけど、ボクと来ればみんな助かる。ボクが助けてあげる。キミがそれを願うなら」
「願い……」
「ボクは影。ボクは虚。世界の裏側で、本当の願いを写し叶えるものだ。今ならみんな助けてあげられるよ」
膝をついた新が、紫苑に手を差し伸べる。闇で満ちていた眼窩は、いつの間にか人の――透と同じ夜色の目に戻っていた。
「…………みんなを…………助けて」
震える声でそう告げた紫苑は、目の前に差し出された手をとった――。




