22.藍の涙
見上げた夜空には三日月が浮かんでいる。黄金色の薄い裂け目のようなそれを、藍はじっと見つめていた。
夜の病院の屋上に、当然ながら人気はない。
じっとりと暑い夜気が藍の頬を撫でるけれど、月を見上げる藍は眉ひとつ動かすことは無かった。
「来たか……」
夜闇に紛れるように、黒い霧が辺りに漂い始めた。
冷気が這い寄り、同時に夏の夜の暑さが引いていく。
霧の中に一部、一際闇の濃い場所がある。
その場所へ濃藍色の目を向けると、藍は一瞬で屋上から姿を消した。
闇の濃い場所には、小学低学年ほどの子供が一人佇んでいる。
「君とは話す余地も無さそうだ」
突如現れた藍に驚くでもなく、静かに振り返った子供の眼窩には、夜よりも暗い闇が埋まっている。
藍は、虚ろに見上げてくる子供の頭に手をかざした。
ビクンと硬直した子供の眼窩を満たす闇が、生き物のように蠢き波打つ。抵抗を示すように開かれた口から出るのは、音ではなく黒い霧だった。
影がゼンマイ仕掛けの人形のように、カクカクと腕を動かし、藍の手を掴もうとする。
その様子を見下ろして、藍は呟いた。
「さようなら」
子供の輪郭が、音もなくさらさらと崩れていく。崩れた先から黒い霧に変わり、藍の掌の中に消えた。
辺りを漂う黒い霧と冷気は次第に薄れ、蒸し暑さが戻ってくる。
ほんの数分の出来事で、気付いたものはいないだろう。
「家族は……僕が守る……」
浮かされたように呟き、月を見上げた濃藍色の目には、薄らと闇が浮かんで消えていった。
*
「父さん、大丈夫?」
初めの異変は、五年程前の春のことだった。
バー・tsukuyomiに、まだ透がマスターとして立っていた頃である。
「大丈夫……、いや、ちょっと待って……」
藍と透が二人で開店準備をしている最中、透ががくりと膝をついた。額には汗が滲み、右手でこめかみのあたりを押さえている。
「頭痛い?」
駆け寄り透の様子を確認した藍は、救急車を呼ぼうか逡巡した。しかし、ポケットからスマートフォンを取り出そうとして、透に止められる。
「ちが、う……これは……、離れ……」
離れろ、と言いたかったのだろうか。しかし、言葉とは反対に透の手が強く藍の腕を掴んだ。
「……父さん?」
「やあ、藍。久しぶり」
「つっ…………」
ズキンと目の奥に痛みが走り、藍は顔を顰める。
「忘れてないよね? ボクのこと」
「新……どうして……」
「どうして? 透が封印したはずなのにって?」
「…………」
かつて、新が紫苑を連れ去ろうとした時に、確かに透が封印した。それ以降、透が新のことを口に出すことはなかったし、藍自身、追求することもなかった。
鏡に映る自身の濃藍色の目が、忘れさせてはくれなかったけれど。
ゆっくりと立ち上がった新は、透の顔と声で、楽しそうにクスクスと笑う。
「簡単さ。ボクたちは成長する。誰かが何かを願う限り、ね。結果、透の器の中にボクが収まりきらなくなってきたってだけ」
大袈裟に身振り手振りで話す新は、体を動かせることを楽しんでいるようだった。
店の天井に設えられた月を模した照明が、ちか、と瞬く。
「父さんは……?」
「今は揺籃に。いずれ出てきちゃうだろうけど……」
「?」
唐突に、新はピタリと動きを止めた。藍は警戒して身構えたけれど、ぼうっと一点を見つめたまま動かない透の様子に、眉根を寄せる。
数秒後、再起動されたかのように瞬きを繰り返した透は、額を押さえて周囲に視線を巡らせた。
「藍……、すまない、水をくれないか……」
「! わかった」
透の気配が戻ってきたのを察して、藍は直ぐに頷いた。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、手近にあったグラスに注いで透に手渡す。音を立てて一気に飲み干した透は、ランニングでもしてきたかのように息が上がっていた。
「父さん、今さっき新が……」
「そのようだね。まさかここまで成長するとは思わなかったよ」
「…………」
空になったグラスに再びミネラルウォーターを注ぎ、藍は無言で透を見る。
「そんな顔しなくていい。ちゃんと説明するから」
そう言って苦笑した透が、二杯目の水を飲み終わるまで、藍はじっと透の胸元を見つめていた。
「彼らはみんな、繋がっているんだよ」
バー・tsukuyomiは、開店と同時に客がなだれ込んでくるような店では無い。開店準備を終えて時間がきても、透と藍だけの時間は続いていた。
新が出てくることは、今のところない。
「本来は自我のないものなんだけど、ごく稀に、成長に連れて自我を持ってしまうことがあるらしくてね」
「らしいっていうのは?」
「僕も見たのは初めてなんだ。ある程度成長した個体は見たことがあるけど。都築先生も見たことがないって言っていたから、本当に稀なんだと思う」
紫苑と燈李は、普通に新と友達になっていたようだった。知らなければ、牙を向かれなければ、人ではないと気づかないままずっといたかもしれない。
「自我を持つ程成長した個体は、彼らの中では頂点だろう。最も強い力を持ち、彼らの全てを掌握し、力を吸収して、さらに成長する」
「新は、そうやってずっと力をつけてきた。父さんの中で……」
「それが、僕の容量を超えるようになってしまったんだね」
「新は何が目的なんだろう……?」
「……わからない。でも一つだけ確かなのは、我々にとっては嬉しくない事だ、ということかな」
「紫苑を狙っているから、だね」
「藍もだよ。その目……最近変わりは無いかい?」
前髪をさらりとよけられ、透が藍の目を覗き込んでくる。額に触れた透の指先は、随分と冷たかった。
「大丈夫。なんともないよ」
「藍は我慢強いからなぁ……。辛い時はすぐに言うんだよ?」
「父さんに似たんだよ。そっくりだって、よく言われるし」
「……頼むから、本当に辛い時は隠さないでね」
「うん、わかってる。父さんもね」
きっと、新が出てくる前に何かしらの前兆はあったのではないだろうか。透がそれを隠していただけで。
似た者親子はお互いの隠し事を察して、苦笑いで顔を見合わせたのだった。
その日以降、時折、新が表れるようになった。決まって藍と透が二人でいる時だった。
「ボク達には一貫した行動原理があるけど、個がないんだよね」
「だから?」
「藍はつれないなぁ……。ボクを知りたいとは思わないの?」
「別に思わないよ。あぁ、君の消し方なら知りたいけど」
「ふーん……」
二言三言交わすくらいで透が戻ってくるけれど、戻ってくる度に透の消耗は激しかった。
「そろそろ、抑えるのも難しそうだよ……」
「父さん……」
「陽子さんがいると出てこないあたり、まだ希望はあるけど。この成長の速さは異常だ。彼らが自我を持つとこんなに厄介だとは……思わなかったな」
二週間程で透は随分痩せていた。新を抑え込むのに体力をごっそり奪われるらしい。
「……僕にできることはないの?」
「紫苑と燈李と蒼汰を守ってくれ」
「それは言われなくたって。そうじゃなくて、新をどうにかしないと、父さんが……」
握りしめられた藍の拳に、透がそっと手を重ねる。透の手は水仕事の後でもないのに、氷のように冷たかった。
「……家を出ようと思う。陽子さんと二人で」
「僕たちを守るために?」
「もちろん、大事な家族を傷つけたくないのが一番だけど。もう一つ」
「もう一つ?」
「もう一人、泣いてる子供を放ってはおけないだろう?」
「父さんがそこまでする必要ない。都築先生なら違う形で封印できるんじゃ……」
「そうかもしれない。でもこれは、陽子さんとも話し合って決めたことなんだ」
「…………」
頷きたくない。でも、透の決意が固いことがわかってしまう。藍がどう言ったところで、きっと透は考えを変えないだろう。
「わかった。それなら、僕は僕で家族を守るために動くことにする」
「藍……」
「店も僕が開けるから、心配しないで」
「……ありがとう。よろしくね」
無力感に苛まれていたけれど、藍は形だけの笑顔を浮かべた。
自分にもっと力があれば。
新を封印し、家族を守ることができるのに。
紫苑の時だって、結局は自分が対処しきれなかったばかりに、透に負担をかけてしまった。
それが今、じわじわと毒のように家族を蝕んでいる。
「都築先生と明にも事情を話して、諸々準備して……再来週あたりには出ようかな。寂しくなるけど……」
「うん……」
あと数日。家族が離れ離れになるのを阻止するには、あまりにも時間が足りなかった。
「影の封印方法、だと?」
「はい。どうしたら封印できますか?」
「……あれは虚だ。そのままじゃ封印はできん。実の中で相殺するか、実ごと封印するかのどちらかしかない」
「実ごと……」
実とは、意識であり、魂であり、存在である。人間や、動植物といった生命だけでなく、無機物でも、死霊でも、世界に存在するモノは全て実という。
一方、虚である影には意識も、魂もなく、そこにあっても誰にも知覚されない、あるはずのないモノだった。
魂のない虚は、他の願いを写し汲み取り、ただ実行する。それだけのモノであったはずなのに、実の証たる意識を持ってしまった異端の虚が、新だった。
「おかしなことは考えるなよ。透の中にいるヤツは、陽子が相殺する。そのための極陽だ」
「わかってます。詳しい説明は都築先生に聞くように言われたもので、すみません」
「ったく。透も陽子も面倒臭がりやがって」
ぶつぶつと文句を言いながら煙草をふかすのは、白髪をオールバックに固め、銀縁のメガネをかけた老人だった。シワのない白衣が眩しい、都築医院の院長である。
午前の診察が終わった頃を見計らって、藍は都築医院の院長室に入り込んでいた。ベテランの看護師とは昔からの顔見知りで、「ちょっと院長に呼ばれまして」と言うだけで、簡単に通してくれる。申し訳ないと思いつつ、藍は堂々と嘘をついた。
新を封印し、家族を守るために。
「虚を封印するためには、虚の大きさに相当する器が必要だ。透の中にいるヤツをどうにかしようってんなら、お前じゃ役者が足りねぇなぁ」
「…………なるほど」
「もっぺん言うぞ。おかしなことは考えるなよ?」
「はい。お忙しいところ、ありがとうございました」
「あ、おい……」
それ以上のお説教を食らう前に、藍はするりと院長室を出た。
それから数日、藍は新以外の影を探したのだが、意外なことに、それはすぐに見つけることが出来た。
スーパーでお菓子付きのおもちゃが欲しい、と泣いてタダをこねる子供の足元に、それはいた。
ハイハイすら覚束無い、赤ん坊の姿をしている。
泣く子供の兄弟のように寄り添うそれの眼窩は、闇で満たされていた。
藍の目の奥が鈍く痛む。
軽くかぶりを振って、藍はゆっくりと近付いた。子供に気を取られた母親は、藍を気にする余裕もないようだった。慎重に近付いて、すれ違いざまに影の吸収を試みる。
陰や陽の素を吸収するのとは、同じようで全く違う感覚だった。
吸収すればするだけ、自分の魂が削られていく。そんな感覚である。
「なるほど、これが虚……。マイナスはいくら足してもマイナスってことだね」
呟いた言葉は、子供の泣き声にかき消され、すぐ隣の母親にも聞こえなかったようである。
藍は何事も無かったかのように、その場を立ち去った。赤ん坊の姿をした影は、もうどこにもいなかった。
影の吸収を経験した藍は、改めて父との力の差を思い知った。
影の姿はおそらく、そのまま影の力の強さだろう。
赤ん坊は弱く、見た目が成長する程に力も強くなる。新と出会った時は小学生低学年ほどだったけれど、その時よりも力をつけたと言うならば、今はもっと成長しているのだろう。
「虚の大きさに相当する器、か……」
もっと早く気付いていたら。
もっと早く知っていたら。
考えても仕方のない事だけれど。
藍の胸には、望む未来とあまりに離れた現実への絶望が、渦巻いていた。
影を探し、吸収する。
次の日も、影を探し、吸収する。
次の日も、その次の日も、藍は影を探し、吸収した。
探してみれば、いろんなところに影はいた。人が願いを持つ限り、願いを叶えるモノは生まれるのだろう。赤ん坊の姿で。
気がつくと、透と陽子が家を出る日になっていた。
ここ数日の記憶が、途切れ途切れだった。目の奥がずっと痛んで、不快だったことはよく覚えているのだけれど。
「家を放ったらかして二人だけで旅行に行くとか、マジ意味わかんねぇ」
「どうせなら、みんなで行けるお休みの日にしたらよかったのに」
「お土産! いっぱい買ってきて! いーっぱい!」
燈李と紫苑は不満をあらわにし、蒼汰は無邪気に笑っていた。両親だけで旅行に行くと突然告げられたのは、つい今朝のことだった。
「お兄ちゃんの言うことを聞いて、いい子にしててね。お土産たっくさん買ってくるからね!」
陽子が子供たちを一人ずつ抱きしめ、背中をぽんぽんと撫でていく。
「藍も」
陽子は三人にしたのと同じように、藍の背に腕を回した。
「無理しちゃダメだよ、藍。あの子のことは私達に任せて」
そう言って陽子が藍の背を撫でると、不快な痛みが消えていく。代わりのように、藍の目から一筋涙が零れた。
「母さん……弱くてごめん。僕がもっと……」
「何言ってるの。藍がいてくれるから、私たちは安心して行ける。みんなをよろしくね」
「うん……」
にっこりと微笑んだ陽子が、指で藍の涙を拭う。春の暖かな日射しが涙の跡を乾かしていった。
その日の夜、藍は夢を見た。
そこは紫苑が新に攫われたあの時に、足を踏み入れた場所だった。
暗く、月も星もない真夜中のようなその場所に、新がぽつんと立っている。以前会った時よりも成長していて、中学生くらいだろうか。影特有の目ではなく、普通の人間のような姿だった。
「やぁ、藍。揺籃へようこそ」
「新……どうして……」
「キミの中に入れた素が、ボクと繋がっているからね」
「プライバシーの侵害だね」
「失礼だな。別にボクが呼んだわけじゃないのに」
「? じゃあどうして……」
「キミがボクたちに近付いたんだよ。ボクの同種を吸収したでしょ。ボクの力を削ぎたかったのかな?」
三日月のように口角を上げて笑った新の目が、ドロリと闇色に変わる。呼応するように、藍の目の奥が鈍く痛んだ。
「バカだね、藍。キミがしようとしていることは、キミ自身を殺すことと同義だよ」
「そんなことは承知の上だよ」
魂を削られる感覚、途切れる記憶、自分が自分じゃなくなるような揺らぎ。陽子のおかげで今回は回避出来たけれど、続けていたらどうなっていたかは想像出来る。
「何も無い空っぽの人間になりたいの?」
「そんなわけないさ。僕にも譲れないものがある」
嘲るよう笑みを浮かべた新を、正面から見返して藍は言った。
もし影を吸収し続けることで、自分が消えてしまうのだとしても、家族を守るという決意は揺らがない。
「家族なんてものがそんなに大事? ただの小集団だと思うけど……。まったく、キミ達は本当に興味深いよ。大事だからって離れてみたり、自分を犠牲にしてみたり」
「僕は正直、関わりたくないんだけどね。父さんも母さんも、君にまで甘いから」
心の底から吐き出したため息と本音に、新は声を出さずな笑った。嬉しいのか、嘲っているのか、よく分からない笑みだった。
「ボク達を遠ざけるのは不可能さ。人間が願いを持つ限りね」
「実感したよ……君達は本当にどこにでもいる。でも……それでも僕の願いは変わらない。君はいずれ、僕が封印するよ。必ずね」
「楽しみにしてるよ、藍」
新がヒラヒラと手を振ると、揺籃と呼ばれた黒い世界がゆっくりと遠のいていった。
自室で目覚めた藍は何度か瞬きを繰り返した後、ベッドを降りカーテンを開いた。外はまだ眠っていて、月も星も空に輝いている。
「必ず……封印する。家族は僕が守るよ……」
藍は月を見上げ、揺籃での言葉を刻み込むように、呟いたのだった。
*
控えめに扉をノックする音が聞こえ、反射で返事をすると、看護師が一人入ってきた。
そういえば、家族用にあてがわれた部屋へ戻ってきたのだったか。
「蒼汰くんの意識が…………空野さん、大丈夫ですか? 顔色が……」
「大丈夫です、それより蒼汰がどうしたんですか?」
余程酷い顔色をしているのだろう。影を吸収した直後は、体調も気分も何もかもが酷く沈んで、眠ることすらままならなくなる。
看護師は心配そうに見上げているけれど、自分のことよりも蒼汰のことの方が余程大事だ。藍は看護師を安心させるように笑みを浮かべて、続きを促した。
「蒼汰くんの意識が戻りました」
「会えますか?」
「少しなら構いません」
「行きます。会わせてください」
ふと窓を見ると、外がうっすらと白んでいる。
ようやく昇り始めた太陽の姿は、まだ見えないけれど。 淡い陽光に背を押され、藍は蒼汰の元へと急ぐのだった。




