20.蒼を刺す
「変わった生き物がいる」
紫苑が出かけ、八雲だけになった空野家に、男性が一人入ってきた。
ソファで昼寝していた八雲は、素早く体を起こしグリーンの目でリビングの扉をじっと見る。現れたのは、藍によく似た背の高い男性だった。透である。
八雲の縦に細長い瞳孔が、きゅうっと丸くなっていく。獲物を見定めた八雲は、喉の奥で唸った。
「生意気」
「シャー!!」
全身の毛を逆立てて威嚇する八雲を、透は薄く笑みを浮かべながら見た。
「そんなに怖がらなくても、何もしないよ」
おもむろに伸ばされた手に、鋭く閃いた八雲の爪がくい込んだけれど。「痛いなぁ」と言いながらも、笑みを絶やさない透は、八雲の首後ろをつまみ上げた。
「悪い子だ」
そのままポイっとソファの上に八雲を放ると、透は部屋の中を見回した。ソファに音もなく着地した八雲は、キバを剥いてなお唸っている。
「嫌われちゃったね。透」
手の甲に滲む血をペロリと舐めた透は、楽しそうに鼻歌を歌いながら、家の中をゆっくりと歩く。
「おかしいなぁ。ここにいるかと思ったんだけど」
ぶつぶつと独り言を呟いてため息をつくと、透は静かに部屋を出ていった。
透が出て行くまで、八雲のまん丸になった瞳孔は、透の動きを一つも見逃すまいとするように、爛々と輝いていた。
* * *
部活帰りの蒼汰が玄関を開けると、玄関に置かれていた石が真っ二つに割れているのを見つけた。
「うわ。母さんのお土産割れてるじゃん。誰か落っことしたのかな? 姉ちゃんか?」
部活で汗だくになった運動着やタオルを洗濯機に放り込んで、リビングに入ると、いつもなら我が物顔でソファを占領している八雲の姿がない。
「やーくもー? あれ、どこだー?」
何度か蒼汰が呼びかけても、八雲は出てこなかった。カーテンの裏やソファの下を覗き込んでも、姿がない。
「どこで昼寝してんだろ? リビング以外は暑いのに」
お留守番中の八雲のために、リビングは常時エアコンが付けられている。試行錯誤の末、八雲が嫌がらない程度の温度設定にしているので、お留守番中はだいたいリビングにいるようなのだが。
「ま、そのうち出てくるかな。シャワーシャワーっと」
ソファにスマートフォンを放り投げて、蒼汰は浴室へと向かった。
行水を済ませてリビングに戻ると、ソファに放ったスマートフォンを枕に八雲が伸びていた。
喉を鳴らしてご機嫌のようだった。
「八雲、お前どこいたの? オレのスマホ返してー」
蒼汰がスマートフォンを八雲の下から抜き出す。不満げに「んにゃぅ」と鳴いた八雲はソファを降りると、蒼汰の脚に身体を擦り付けた。
「ただいま、八雲。どしたー? やたらと甘えんね」
擦り寄る八雲を撫でながら、スマートフォンを見ると、燈李からメッセージが入っている。
「燈李兄だ」
『病院行く前に明さんの店に寄ってくれ』
「はいはいっと」
返事をしながら返信し、ソファに座る。濡れた頭をがしがしとタオルで拭いていると、見計らったかのように八雲が膝にのった。
「珍しー。ほんとにどうした? 怖い夢でも見た?」
八雲が紫苑や燈李の膝に乗るのを、羨ましく思っていたのだが。急なことに、蒼汰はにんまりと八雲の背を撫でるのだった。
「遅かったな」
「ごめーん、燈李兄」
「別にいいけど。奥入って待ってろ。明さん呼んでくっから」
「はーい」
蒼汰が通されたのは、店の奥にあるスタッフ用の休憩室だった。
「燈李兄のバイト姿ってどんなんだろ?」
家族の家の外での様子を見る機会は貴重である。
蒼汰は休憩室のドアを薄く開け、店の中を窺った。
明の店は個人経営の美容院であるけれど、駅近くに長く店を構えているだけあって、客が途切れることがないようだ。
アルバイトの燈李はハサミを持つことは無いが、受付にシャンプーに掃除に、と忙しなく動き回っている。
「めっちゃ笑顔……」
女性に間違われるとこの多い燈李だけれど、未だに身長は伸び続けているらしい。長髪をポニーテールに結い、前髪を整髪料で後ろに流している燈李は、美少女ではなくれっきとした青年だった。「ありがとうございました」と微笑まれた女性客が頬を染めたのは、見間違いではないだろう。
ドアの隙間から見えない位置に燈李が移動して、ようやく蒼汰はソファに腰を下ろした。
すると見計らったかのように、休憩室に明が入ってくる。
「悪いな、待たせた」
「いえいえ、燈李兄を覗いてたんで」
「家とは違うだろ?」
「全っ然違ってびっくりした」
コーヒーメーカーをセットしながら明はカラカラと笑った。
「これを持ってってもらいたくて呼んだんだ」
コーヒーと一緒に明が持ってきたのは、二枚のアクリルパネルでできた写真立てだった。挟まれた写真には見覚えがある。先日、旅館の前できょうだい揃って撮った写真だった。
「今日はちょっと遅くなりそうでな。親父に今日中と言われてたんだが……」
「明さんのお父さん?」
「ああ。なんでか知らんが、陽子さんの枕元に家族の写真を飾っとけ、だと。出来れば蒼汰か燈李に置かせろ、とも言ってたか」
「…………なんで?」
「知らんのだ。まぁあれでまだ院長やれてるし、耄碌はしてないだろうから、必要なことなんだと思ってる」
「ふーん……」
写真立てに何か秘密でもあるんだろうか、といろんな角度で見てみたけれど、特にそんな風には見えなかった。
「明さんはなんでお医者さんになんなかったの?」
「……蒼汰、偏差値って知ってるか?」
「あー……なるほど」
明の言葉で察した蒼汰は、古傷かもしれないところにそれ以上触れないよう、口を閉ざしたのだった。
明の店を出て地下鉄に乗り、病院最寄りの駅で降りる。
十分程歩くと、広い庭のある古いレンガ造りの建物が見えてきた。
ツタの這う塀には、都築医院、と看板がかけられている。
「相変わらず雰囲気あるよなぁ」
何かの研究施設かのような佇まいだが、昔からある病院で、明の実家であった。
「父さんもいない、藍兄もいない、姉ちゃんもいない」
誰かはいるだろうと思っていたのに空振りで、病室では陽子が静かに眠っているだけだ。花は生けられたばかりのようだったから、誰かはいたのだと思うけれど。
明に渡されたアクリルの写真立てを、花瓶の前に設置する。写真の中では、きょうだい達が笑顔で並んでいた。
「この前みんなで温泉行ったんだ。わさび味のアイス食べたりしたんだよ。温泉も良かったけど、花火がめっちゃきれいでさー」
眠る陽子に声をかける。「いいなー」とか、「ずるい!」なんて言いながら起きたりしないか、ふっと陽子を見るけれど。
陽子は変わらず眠ったままだった。
「そんな都合いいことないか……」
しばらく、旅行のお土産話をしていると、食欲をつつくような匂いが微かに漂ってきた。病院の食事時間らしい。
「やば、面会時間ガン無視しちゃった」
個室だから大目に見てもらえていたのか、時計を見ると蒼汰が来てから一時間は経過していた。外がまだ明るいからと油断していた。
「じゃね、母さん。また来るから」
最後に一言声をかけ、病室を出る。
廊下では、病室内よりももっと食べ物の匂いが広がっていた。
「腹減ったー。なんか食べて帰ろかな、ちょっとだけ」
そういえば、この辺りに新しくバーガーショップができた、と航が言っていたのを思い出し、寄ってみようかなとスマートフォンを取り出した。検索をしながら病院を出ると、外はウンザリするような暑さである。「あっつ」と思わず漏れ出た呟きを置いて、地図に従いバーガーショップの方へ向かった。
地下鉄の駅とは反対方向だったけれど、そう遠くはなさそうだ。
ところが、バーガーショップに向かっているはずなのに、一向に店が見えてこなかった。歩いているうちに日が傾いてきたのだろう、空の上の方の色が濃くなってきてしまっている。そんなに遠くないはずだったのに。
立ち止まって周囲を見回すと、バーガーショップどころか、道路を走る車がいなくなり、歩く人も、生き物の気配も消えていた。
代わりに何かのバロメーターのように、蒼汰の腕に鳥肌が立つ。身体の表面を氷で撫で回しているように、ぞわぞわとした悪寒が止まらなくなった。
「あー、これヤバイやつだ」
何度か経験するうちに、見えなくても気配がわかるようになってきた。力のコントロールについて藍に説明してもらってから、魂を認識する、という意識を持つようになったのもあるが。
「八雲が来てからだよなぁ」
普段はどう見てもただの猫であるけれど。
辺りの気配を探りながら、蒼汰は独りごちた。
大きく一つ深呼吸して、辺りを照らす明かりを生み出すイメージをする。はじめは小さく、蒼汰のごく近くだけを照らし、段々と明かりを大きく強くしていく。
蒼汰はじっと一点を見つめた。あっちの方が気持ち悪い、程度の直感だけれども。それは確かに正しかった。
「影だ」
蒼汰の視線の先にいたのは、小学生になるかならないかくらいの子供だった。向こうもじっと蒼汰を見ていて、眼窩には闇が満ちている。以前見たものと少しだけ違うのは、子供の周囲が黒い霧で覆われていることだった。
子供自身よりも霧の方が、蒼汰の怖気を誘う。
「うー……こっからどうしよう」
影は明らかに蒼汰を見ているけれど、そこから動こうとしなかった。蒼汰は周囲をきょろきょろと窺いながら、逃げる方法を考えた。
霊を撃退する方法は何となくわかってきたけれど、影に同じことが通用するようには、全く思えなかったのだ。
蒼汰がほんの一瞬影から目を離し、戻すと、影の隣に男が立っている。
「やぁ、蒼汰。少し成長したんだね」
「……父さん?」
それは父・空野透、その人だった。
「父さん、そいつ危ないって! こっち来て!」
咄嗟に透に声をかけるけれど、透は薄く微笑むばかりで動こうとしない。それどころか、影の頭を愛おしそうに撫でている。
「蒼汰、そんなこと言わずにこの子と友達になってみない? 案外楽しいと思うよ」
「はぁ? 何言ってるのさ……そんな」
「紫苑は昔、友達になってくれたんだけどな。愚かで可愛いボクの紫苑も」
「…………父さん?」
透の言葉が理解できなかった。言っている言語はわかる。でもなぜそんな事を言うのかがわからない。
影と友達に。紫苑もそうした。そして、紫苑を愚かと断じて、見たこともない暗い笑顔を浮かべる父。
一歩一歩ゆっくりと、透と影が蒼汰に近づいてくる。
父が近づくにつれて、彼の手の甲に大きなミミズ腫れが出来ているのが目に入った。痛々しく赤い血が滲み、傷が真新しいのがわかる。
「父さん、そのケガ……」
「あぁ、家に帰ったらおかしな生き物がいてね。嫌われちゃったんだ」
その言葉で蒼汰は理解した。
八雲は賢い。
昼に自宅に帰った時、八雲は隠れて出てこなかった。それはきっと、怯えていたせいだ。
「お前、誰だ。父さんのフリして、なんのつもり?」
蒼汰の誰何の声に透が足を止め、口端を上げた。
「ボクは透でしょう? この体は確かに透のものだよ」
「意味わかんねーし。なんでもいいから父さん返せ」
「それは無理だよ。だって透はもう死んだから」
「………………は?」
「透は死んだ。だからこの体はボクがもらった。ボクの体は透で間違いない」
「嘘つけ! 父さんが死んだとか、マジ笑えねーから!」
「信じても信じなくても、どっちでもいいけどね、別に」
激昂する蒼汰が掴みかかったけれど、透は笑みを絶やすことなく揺さぶられている。透の隣にいたはずの影は、無感情に二人を見上げ、姿を消した。
「……蒼汰は使い勝手が悪そうだなぁ。陽子ちゃんと同じ極陽だもんね。邪魔になるか」
「はぁ!?」
「そろそろ藍に気づかれそうだ。月が昇る前に済ませよう」
蒼汰に胸ぐらを掴まれたまま、透は起用に肩を竦める。
黒い霧が、透から滲みだしていた。
「ボクの名前は新っていうんだ」
霧が辺りを黒く染めあげ、蒼汰の明かりで照らしてもなお暗かった。
「強い願望もなく、守られるだけの極陽は、別に脅威にはならないけどね」
透の、いや、新の目が漆黒に塗りつぶされていく。
「でもボクは失敗から学んだんだよ」
嘲るような笑みを浮かべた新は、ふっと蒼汰の後ろを見る。
そこには、黒い霧に頭を包まれた少女が立っていた。霧の奥に見える表情は虚ろで、だらしなく開いた口の端から涎が溢れ流れている。
隣には、先程の影が控えていた。
「…………ヤバ……」
少女の手にある物に、蒼汰の視線が吸い込まれる。
「…………っ!!」
少女はなんの躊躇もなく蒼汰に近づいて、手にしたナイフを突き刺した。




