1.藍紫燈蒼
月が破裂したかのようだった。
空気を入れすぎた風船が、唐突にその輪郭を失うように。
雲ひとつない夜空に浮かんでいる月を、見上げたその時。ほんの瞬きの間にその姿を消したのだ。
細身で長身、黒髪、黒シャツ、黒ジャケット、黒パンツに、革靴までも黒という、全身黒づくめの男は、月の消えた空をじっと見る。長めの前髪の奥に、藍色の瞳が見え隠れしている。黒づくめの男の名は、空野藍。
「……ん?」
「じゃねぇし。少しくらい慌てろよ」
「燈李。月が消えちゃったんだけど何か知ってる?」
「知らねぇ。知るわけねぇ」
「そうか……」
燈李と呼ばれた人物は、肩ほどまでの黒髪をポニーテールに結んでいた。
服装は濃紺のセーラー服に深緑のスカーフというスタイルで、近くの私立女子校の制服だった。襟を縁取る真っ白な二本線が、月明かりの消えた闇夜に浮かび上がっている。まるでそれ自体が発光しているかのようだ。
猫を思わせるアーモンド型の目、通った鼻筋、桜色の形の良い唇。口調さえ聞かなければ、美少女と言って差し支えない容貌である。その美少女然とした口から、苦々しげな舌打ちが漏れた。
「兄貴って慌てることあんの?」
「そりゃああるよ。僕は顔に出ないだけだから」
「ふーん……」
「さっきだって、燈李が紫苑の制服着てきて驚いた」
「似合うだろ?」
「そうだね、双子だからかな? あぁでも、……そのヤンキー座りは止めた方がいいと思う。せっかく可愛くしてるのに」
「はっ」
心底しらけたというように肩を竦めた燈李は、自身の膝に頬杖をついた。彼の正面に陣取れば、厚めのプリーツスカートの奥に男性用の下着が見えただろう。
「紫苑が一人で出かけるっていうから、制服交換しただけだって。女の一人歩き丸出しにするよりマシだろ」
「うん、燈李は優しいね」
「まぁな」
淡々と会話を続けつつ、見上げた空にやはり月は無い。耳を澄ましても二人の発するもの以外の音はなく、辺りはどこまでも静寂だ。すぐ側にスーパーがあり、夕飯の買い物をする人々が多くいるはずなのに。
藍がマスター代理を務めるバー・tsukuyomiは、本日定休日だった。定休日の夕飯は弟妹たちのリクエストにそった料理を作るのが、空野家のお決まりである。
今日は上の弟・燈李のリクエストで焼肉だった。二人の手にあるエコバッグには、大量の肉をはじめとする食材が詰め込まれている。
「困ったなぁ、アイスが溶けちゃうよ」
「うぇ……、紫苑がめんどくせぇぞ」
「うーん、月が完全に消えちゃったのが痛いね。アイスが溶けないように、跳んで帰るつもりだったのに」
「人目につかないように路地に入ったらこれだもんな」
「予想外だった」
冷たい風が吹き始めたとはいえ、まだまだ冷蔵庫よりも高い気温である。夏場のようにすぐに溶けることはないだろうが、可及的速やかに冷凍庫に収めたい。
しかし、せめて歩いて進もうと思った道の先には濃密な闇が口を広げ、後ろを振り返ると狂い咲きの桜の大木が悲しげに佇んでいた。
「完全に詰んだ。どーすんだよ」
大きなため息をついた燈李が、おもむろに桜に近付く。「気をつけてね」と声をかけた藍にひらひらと手を振って、桜の幹に手をついた。目を閉じて桜に語りかける。もちろん心の中でだ。
「…………」
ひらりと舞った一枚の花弁が、地面に落ちる寸前に形を変える。音もなく羽ばたく蝶となり、燈李と藍の周りを飛んだ。無邪気に遊びに誘う子供のように飛び回った蝶は、やがて闇に吸い込まれるように消えていく。
「全然声が理解できねぇな。わかっちゃいたが、やっぱりこいつはこの世のものじゃないらしい」
「やっぱり」
「あぁ、でも……兄貴に用がありそうなのはなんとなくわかった」
「僕に?」
桜からは絶え間なく花弁が舞い落ち、蝶となって舞飛んでいる。そしてどの蝶もひとしきり舞ったあとは闇の中へと消えていく。気づけば辺りは蝶で埋め尽くされていた。
「特に害はなさそう……か?」
「うん、綺麗だね」
「……まぁな」
立ち尽くして蝶の舞を眺めていると、一匹の蝶が藍の肩へ止まり羽を閉じた。羽の纏う淡いオーロラのような光が、微かに明滅している。
「僕に用があるのは……この子かな」
「わざわざ止まったんだからそうじゃねぇの?」
「うん……こんばんは、どうしたの?」
藍が指を近づけると、蝶はひらりと飛び上がり指先に止まり直した。何かを伝えるようにゆっくりと明滅する光をじっと見て、藍は「ああ」と呟く。
「拓巳……もう行くんだね」
藍の言葉に反応したように、ぱたぱたと羽ばたいた蝶はくるくると藍の周りを飛ぶ。
再会を喜ぶように。
別れを惜しむように。
やがて拓巳と呼ばれた蝶は、他の蝶たちと同じように闇の方へと飛び去ってしまった。
「拓巳って、前に言ってた友達の? ストーカーに殺されたっていう」
「そう。最後に挨拶にきてくれたみたい」
「ふーん。律儀っつーか何つーか……」
「拓巳らしいよ」
そう話す間にも、桜から飛び立った蝶たちの舞は収まる気配はない。闇はまだ口を開けているし、月は消えたままだ。
周囲を見回した燈李は、「で、だ」と腕を組んだ。
「どうやって帰んの、これ? オレたち、つーかそもそも兄貴だけだけど、用済みってことじゃん」
「うーん……そろそろ紫苑か蒼汰が気付くんじゃないかな」
「マジかよ……紫苑はともかく蒼汰に借り作りたくねー……」
「蒼汰は貸しを作ったなんて思わないだろう?」
「オレが! 気にすんの! オレは兄貴なのに」
「そんなこと言ったら僕の立つ瀬がないなぁ」
「兄貴はいいんだよ。兄貴はオレたちの保護者みたいなもんじゃん。親父もおふくろも、滅多に帰ってこねぇし」
「はははは、今回もお土産話が楽しみだよね」
「これで笑ってる兄貴がすげーと思うわ」
「あ、ほら、ナイスタイミング」
「あ?」
舞い流れる蝶たちの上、地上三メートル程の高さにぼんやりと黄色い灯りが現れた。ぽつりぽつりと等間隔に灯りがつき、今まで壁と思われていた方向に道が生まれた。
夜道に灯るガス灯のような明かりは、次第に明度を上げていく。ぽっかりと空いた闇も、闇に吸い込まれる蝶も、蝶を産み落とす狂い咲きの桜も、光に紛れ消えていった。
「ラッキーだ。家まで繋がってそうだよ」
「あー……まぁいいか。腹減ったし」
「そうそう、今夜は焼肉だからね」
「……よし、食って忘れよう」
二人はエコバッグを抱え直し、明るく照らされた道を進んだ。
「くそ。ドライアイスもらっとくんだった」
燈李の呟きが残されたその場所は、夕飯の買い物客が行き交うスーパーのすぐ側の路地だった。
5話までがメインキャラの紹介兼ねたお話になります。
のんびりお付き合いいただけますと幸いです。
不穏はまだ先。