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17.紫と思い出

 日傘がなかったら、頭皮が焦げるに違いない。

 首筋に浮いた汗をタオルハンカチでおさえて、紫苑はため息をついた。


「暑すぎじゃない……?」


 今年買ったばかりのネイビーの日傘は、シンプルで飾り気もほとんどないけれど、紫苑を紫外線から守るという任務は確実にこなす、できるヤツだった。

 ハンディファンは熱風を送り込んでくる裏切り者になってしまったので、バッグにぶら下げている。


「おまたせぇ! 行こ行こ~!」

「律、もう絶対並んでるよ」

「いいじゃ~ん。待てば待つほど、食べた時の感動も増すってぇ」

「もう……遅刻しといて全然反省してないね」

「へへ、ごめんって~」


 律の動きに合わせて、クリーム色のフリルがついた日傘が傾く。「人にぶつかるから」と紫苑は律を歩道の内側へと引いた。


「まぁいいけど。じゃ、急ご。イートインは十一時からだよ」

「あたし今年初かき氷~」

「私も」

「楽しみだねぇ」


 最近話題のスイーツ店が、イートインでかき氷を始めたと聞きつけた律が、紫苑を誘ったのが始まりだった。


 兄が弟達に何らかの講義をする、と聞いたけれど、かき氷の誘惑の方が強かった。

 もちろん、大学に進学してからというもの、律と会う機会がめっきり減っていたのもある。


「美味しいといいね」

「ね~」


 既に行列の尻尾が見え始めている店に向かい、二人はうきうきで歩いたのだった。




 最早芸術と言って差し支えないようなかき氷だった。飾られたフルーツは宝石のように輝いているし、ふわふわに山盛られた氷はどこか可愛らしさもある。


 スプーンをさすのが躊躇われる逸品だった。

 しかし惜しいことに、放っておけば芸術は無惨にも溶けてしまうことを二人は知っている。写真撮影もそこそこに儚い芸術を堪能し、すっかり冷えた息をついた。

 


 外に出ると、せっかく涼んだのが幻かのように、暑さが襲ってくる。


 涼しいところにいたい。

 二人はすぐさまアイコンタクトすると、道路を挟んだ向かい側にある、チェーンのコーヒーショップに吸い込まれて行った。

 席数の割に客は少なく、座った席の周囲はがらんとしている。人の目がないのをいいことに、律はテーブルに突っ伏した。


「ここに住みた~い」

「はいはい、ひとりで住んで」

「紫苑も一緒だよ~。ルームシェアしよ」

「いや。八雲に会えなくなるじゃない」

「あ、猫飼ったんだっけ? 写真見せて~」

「可愛くて気絶するかもしれないけど、覚悟はいい?」

「そんなに? 見たい見たい!」


 そうして、紫苑渾身の愛猫写真を披露すること十五分。律のバッグの中で着信を告げる音がした。


「あれ? 咲希ちゃんだ~。ごめん紫苑、ちょっと電話出てくるね」

「行ってらっしゃい」


 スマホを手に店を出る律を見送って、アイスミルクティーを一口。


「それで、さっきから視線が痛いんですけど、何か用ですか?」


 律の前では欠片も表情に表さなかった不機嫌を、解放した。主に眉間と声に、である。


「いやー、相変わらず燈李とそっくりだなって思ってさー。ごめんごめん」


 紫苑の冷ややかな声に苦笑いを浮かべたのは、アロハシャツに色の薄い丸レンズのサングラスをかけた、男性だった。


あきらさん……あんまり飛ばしてると、そのうち戻れなくなりますよ」

「気をつけてはいるんだがね。なにぶん気付くとこうなってるもんで」

「はぁ……」


 チラリと店の出入口を見ても律の姿はなく、まだ戻ってくる様子は無い。

 子供の頃からお世話になっている父の友人は、血縁ではないものの、親戚のおじさんのような存在だ。藍も何かと会っているようだし、燈李に至っては明の経営する美容院でアルバイトまでしている。

 紫苑としても嫌いな相手ではないのだが、明の状態が問題だった。


「大変ですね、生き霊体質って」

「こういうのは慣れだよ、慣れ」

「…………慣れたくない」

「わはははは」


 自分にしか聞こえていないであろう笑い声に、紫苑は眉をしかめたのだった。




 律がまだ戻ってきていないから良いものの、何故か居座る明に、紫苑は怪訝な顔をする。


「何か私に用事ですか? もうすぐ律が戻ってくると思うんですけど」

「ん? あぁ、いや。用って程じゃないんだけどな……。最近藍に会ってなかったなと思ってさ。元気にしてるか聞きたかったんだ」

「お兄ちゃんですか? 元気……というか、いつもどおりですよ」

「そうか。ま、あいつが元気ハツラツだったら逆に心配になるしな。いつもどおりならいい」

「今日は燈李と蒼汰に……先生みたいなことするって」

「先生か、そりゃいい。あいつはガキの頃学校の先生になりたい、とか言ってたんだ。懐かしいなー」

「そうなんですか? 初めて聞きました。お兄ちゃん自分のことあんまり話さないし」

「ランドセル背負ってるような頃の話だよ。別に恥ずかしがるような夢でもないと思うが、特に機会が無かったんだろうさ」

「お兄ちゃんが先生……。似合いそう」


 紫苑は教壇に立つ藍の姿を想像した。

 きっと運転する時のようなメガネをかけて、淡々と授業をするだろう。それでも授業についてこれていない子は、さりげなくフォローするのだ。きっと生徒に人気の教師になる。教科は――。


「おーい。紫苑ちゃん、大丈夫かー?」

「!!」


 明の声で我に返る。実兄で妄想するのもどうかと思うが、膨らんでしまったものは仕方ない。


「大丈夫です。ちょっと考え事」

「はは、やっぱり燈李とよく似てる。燈李も藍が大好きだもんなぁ」

「それは……まぁ。お兄ちゃんは保護者みたいなとこがあるし、優しいし……」

「照れ方もそっくりだ。今でこそ体格で差がついてるけど、ちっちゃい頃は見分けつかなかったもんなぁ」


 このくらい、とテーブルに下あたりの高さで、明が何かを撫でるような仕草をする。そんなの、小学校にも上がる前ではないか、と紫苑は口を尖らせた。


「小さい頃の話はやめてくださいよ」


 普段は蓋をして閉じ込めている、嫌な思い出がよみがえるのだ。お腹の中に重い鉛を埋め込んだみたいに、気分が重くなっていく。


「明さん、今度燈李の髪の毛、切ってあげてください」

「ん? 本人が切りたいんならそうするが、切りたいのか?」

「知らないけど」

「なんじゃそりゃ……。いくらなんでも勝手には切れんよ。あれで燈李も気を遣ってるのを知ってるしな」

「……だからです。だってあれは……」


 きっと自分のせいだから。




 あれは小学四年生にあがった頃だったはずだ。

 苦い苦い、忘れたい記憶から一年と少し経った頃。

 両親も藍も、【その事】にはあまり触れずにいるけれど、燈李だけは違った。


「なんかあったって、オレの方がどうにかできるじゃん」

「なんかって何。燈李は見えないのに、どうするっていうの?」


 きっかけは些細なことだったのだろう。それ自体を覚えてはいない。当時一つの部屋を共有していた紫苑と燈李は、寝る前の時間、口論になった。


「確かにオレは見えないけど、あいつは見えてた。もしかしたら、これから見えるようになってくかもしれないだろ」

「そんなふうに変わらないって、父さんが言ってたじゃない」

「とにかく! オレがどうにかするんだ。父さんや母さんがなんて言ってもする」

「やめてよ。そんな、身代わりみたいなこと」

「身代わりになれるんならなってやるよ。見た目はそっくりなんだから」

「まさか……そのために髪伸ばしてるなんて言わないよね?」

「…………」

「ちょっと……嘘、止めてよ! そんなことされたって嬉しくない!」

「お前のためじゃない。オレが伸ばしたいから伸ばしてるだけだ」

「燈李のバカッ!」


 見た目で女の子扱いされるのをひどく厭う燈李が、なぜ髪を切らないのかずっと不思議に思っていたのだ。

 考えてもみなかった理由に、紫苑の目から涙が溢れる。それを見られたくなくて、布団に潜り込んだ。


 それ以来、紫苑は燈李の髪について触れることはなくなった。

 燈李の性格は、よく知っている。

 言えば言うほど、頑なに受け入れないはずだから。

 



 黙りこくった紫苑へ声をかけようと明が口を開いたが、すぐに閉じる。そのまま言葉を探しきれずに、諦めたようだった。


「あー……、うん。藍の近況が聞けたし、オレはそろそろ戻るよ。じゃあな、紫苑ちゃん。今度店に遊びにおいで」

「え?」


 そしてふっと、明が姿を消した。あまりにも唐突で紫苑は目を瞬かせるが、店内のどこにも明の姿は見えなかった。

 その代わり――


「ごめん紫苑、めっちゃ時間かかっちゃった~」

「律……おかえ、り……?」

「こんにちは、はじめまして。あたし律のイトコで咲希さきって言います。あなた、前に藍さんと一緒に歩いてなかった? 彼女? 彼女なの?」

「んも~、咲希ちゃん! 藍さんは紫苑のお兄ちゃんだって言ってるじゃない!」

「えと……あの……?」


 律と共に現れた女性・咲希は、二人よりもいくらか年上そうで、ショートボブに深いブルーのインナーカラーを入れていた。目に大層な好奇を浮かべて、爛々と輝かせている。


 律に状況を説明され、紫苑がそれを飲み込むまで、食い入るような視線が逸らされる事はなかったのである。




 ぐったりとした紫苑が家に帰りつくと、男性陣はめいめいリビングでくつろいでいた。


「授業は終わったの?」

「うん、一応」

「一応ってなに。お兄ちゃんに教えてもらっておいて、わからないなんて言わないよね?」

「うーん……藍兄の説明はわかりやすかったけど、オレの脳みそが追いつけてない感じ。自主練あるのみ、かな」

「そう……なら頑張れば」

「へへ、うん。頑張る」


 紫苑なりの激励は正しく伝わったらしく、蒼汰は満面の笑みを浮かべた。


「思ったより遅かったけど、何かあった?」


 一方、過保護な兄は、紫苑の帰りが予定より少し遅くなったことを心配していたようだ。

 紫苑は、咲希という律の従姉妹に会ったこと、咲希が藍の店の常連らしいこと、根掘り葉掘り藍について質問されて、躱すのに苦労したことを話した。奢るからと言われ、パンケーキの有名店にノコノコついて行ったことは、ふんわりと誤魔化したけれど。


「ああ、咲希さん。確かによく来てくれる人だね」

「お兄ちゃんのファンだって。私と一緒に歩いてるとこを見て、恋人だと勘違いしたって言ってた」

「へぇ……いつだろう? この間パフェに行った時かな?」

「たぶん。最近二人で歩いたのなんて、その時くらいだし」

「気付かなかったなぁ」


 見られたのは繁華街の人波の中である。きっと誰だって気付けないに違いない。にも関わらず、藍に気付いた咲希の敏さが、むしろちょっと異常なのだ。


「それと明さんにも会ったよ」

「明さん? 今日店に出てたと思うけど、どこで会ったんだ?」


 アルバイトとはいえ、雇い主の話題となると燈李が耳聡く聞きつけた。


「コーヒーショップ。猫の看板の」

「店から微妙に距離あるけどな」

「明さんの中身だけだったの」

「あー……納得」


 明が生き霊体質であることは、空野家の全員が知っている。燈李と蒼汰は、死霊を見ることは出来ないが、生き霊の明はごく稀に見えるのである。さすがに会話できるのは、きょうだいでは藍と紫苑のみであるが。


「紫苑に会いに来たの?」

「私に用っていうか、お兄ちゃんがどうしてる? って聞きたかったみたい」

「オレに聞きゃいいのに。しょっちゅう会ってんだし」

「紫苑と話したかったんだよ、きっと。僕はただの口実でさ」

「そうかな……。そういえば、家でお兄ちゃんが先生してるって話したら、懐かしいって言ってたよ。お兄ちゃんが子供の頃に『学校の先生になりたい』って言ってたって」

「へー! 藍兄が先生とか、めっちゃ似合いそう!」

「確かに」


 盛り上がる蒼汰と燈李をよそに、藍は困ったように首を傾げて微笑んだ。


「……明さんが言ってたの? うーん……先生か……。覚えてないなぁ」

「そうなの……?」

「うん。ちょっと思っただけ、とか、そういうのかもしれないね」

「まぁ、歳とると昔のことばっかり話すって言うしな」

「燈李兄、それはちょっとヒドイかも」

「そうか?」


 燈李の言いようは確かにちょっとヒドイと思う。しかしそれよりも、「覚えてない」と言った藍の表情が気になった。

 いつものように穏やかに微笑んではいたけれど。

 どこか寂しそうに見えた気がしたのだ。


「気のせい……?」


 紫苑のつぶやきには返事をしたのは、いつの間にか足元にいた八雲だけだった。

  

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