15.空に雲
肌にじっとりとまとわりつく空気に、燈李は思わず顔を顰めた。気温が上がり、湿度が上がり、天気は連日ぐずついている。
天気予報を見ずともわかる。間もなく梅雨入りだろう。
「蒼汰は明日あたり倒れるんじゃねぇか?」
バイト帰りに立ち寄ったコーヒーショップの窓際の席で、雨の苦手な弟のことを考え独りごちる。蒼汰は自分と同じで陽寄りだが、程度に少々差があった。生まれつき備わる性質で、本人にはどうしようもないものらしい。優劣ではなくpHと似たようなもので、燈李を弱陽性とするならば、蒼汰は強陽性だった。
「さっさとコントロール覚えろって、オレも紫苑も言ってんのになぁ……」
陽の気を持つものは、少なからず活性の素を持つ。蒼汰はそれが燈李よりも強く、強く、強かった。強いとどうなるかというと、活性がダダ漏れるのである。天候不良はそれに拍車をかけ、自分の体調を崩すまで続くのだから始末に悪い。
あの人なら教えられるんだろうけど。声に出さずにそう思い浮かべた母は、「なんとかなるから!」と想像の中ですら楽天的だった。
ちょうど雨は小休止らしい。アイスコーヒーのグラスを一息に空にして、燈李はコーヒーショップを出た。
家の近くまで歩いたところで、燈李は振り返った。が、何もいない。
「さっきから……なんか見られてるような気が……」
燈李は一見すると美少女であるため、よくナンパされる。しかし口を開けば男声であるし、中身も男前(自称)だ。外見にはわからないだろうが、子供の頃から習っている武道の心得もある。「男でもいい」と実力行使に出た輩を返り討ちにした回数は、片手では足りないくらいだ。
今回もナンパか? と割と確信を持って振り返ったのに、誰もいなかったのには少々驚いた。のだが――
「お前……どっから来た?」
よくよく見ると、燈李の足元に灰色をしたふわふわの毛玉……もとい、子猫がじゃれついていた。
その灰色は、よく見ると鼻周りからお腹にかけてと、四肢と尻尾の先が白かった。端的に表すならばグレーの面かぶり、靴下模様だ。大きさからしてまだ生後二~三ヶ月程だろうか。燈李はしゃがみこんで周囲を見るが、母猫や兄弟猫らしき姿は見えない。
「お前、よく見るとトムじゃん」
いたずらネズミにおちょくられて追いかけ回し、ペチャンコになったりする、あのグレーの猫に色具合がそっくりだった。毛もちょっと長めのぱやぱやで、大きくなったら更に似そうな気がする。
「一匹だけ? 親とか兄弟はいねぇの?」
「に?」
首を傾げた燈李を真似るように、子猫が首を傾げた。グリーンに色付いた目は、警戒心よりも好奇心で輝いている。
「お前が食えそうなもんは持ってないわ。悪いな」
出てこないだけで、きっと親が近くにいるのだろう。子猫の頭を一撫でして、「じゃな」と燈李はその場を離れた。
――離れたのだが。
「ついてくんなって、こら。親のとこに帰れなくなるぞ」
一定の距離をおいて、子猫がついてくる。最早自宅は目の前だ。そうしているうちに、ぽつぽつと雨が降り出して、燈李は「どうしろってよ……」と天を仰いだ。
「ただいまー。最悪、何なのあいつ」
「おう、おかえり。帰ってくるなりどうした?」
燈李よりも一時間ほど遅れて帰ってきた紫苑は、眉間に深い皺を刻んでいた。
「線路脇のあいつ、最近また調子づいててウザイったら」
「あぁ、遊歩道にいるって言ってたヤツか。大変だな」
「お兄ちゃんに止められてなきゃ、自分で追っ払うのに」
「やめとけって」
「わかってる。我慢してる……ん?」
リビングから見える庭の中を、ちょこちょこ動くものが紫苑の視界を掠めた。窓は十センチほど開けられている。
「んー?」
雨のあがった庭の、燈李が作った畑の奥から灰色のものが飛び出してきた。縁石をぴょんと飛び越えては戻り、茂った葉の隙間を通ってまた奥へ。その様子を見て言葉を失う紫苑を見て、燈李はニヤリとした。
「可愛い可愛い可愛い可愛い」
「いや、こえーよ」
紫苑が子猫から一切視線を逸らさず、瞬きもせず、呪文のように可愛いを繰り返している。ガン見である。猫好きなのは知っていたが、猫好きレベルの認識を改めねばなるまい。
「なにあれ、あの子どうしたの?」
「いつの間にかオレの後ろを歩いてて、なんか知らんが家までついてきた。雨が降ってきたから玄関に入れたら、ガンガン家ん中に進撃してきて、さっきまでここで寝てたんだけど、起きたらあれだ」
ソファには、くしゃりと置かれたタオルがあった。丸く窪んだところが、ちょうど丸まった子猫くらいの大きさである。その窪みすら慈しむように、紫苑はそっとソファに腰を下ろした。
「これはもう、うちの子だよね? 名前決めなきゃ」
「気が早え。とりあえず兄貴に相談すんのが先だ。いるかと思ってたら出かけてるみたいだし、この時間まで戻らないなら仕事に直行だろ。明日だな」
「あんな可愛い子、お兄ちゃんが追い出すわけないじゃない」
「そういう問題じゃねぇだろ」
「そういう問題よ。兄弟とかお母さんとか、一緒にいないのかな」
「見える範囲にはいなかったんだよな」
「ひとりぼっちなら、なおさら家でお迎えしなきゃ」
「どっかの家の飼い猫かもしれねぇだろ」
「たしかに。まずはそっちの届けを確認しないと」
普段は雑で、なんなら面倒くさがる性質の紫苑が、珍しく張り切っている。任せとくかな、と燈李は思った。いつもいつも、押し付けられる方が多いのだ。たまには良かろう。それにしても。
「畑の連中が、猫を喜んでるのが意味わかんねぇな」
植物達が、子猫の来訪を喜んでいる気配がして、首を捻る。荒らされることを心配するならわかるのだが。
「ま、いっか」
問題が起きているわけでなし、と子猫を見ると、窓の隙間までよじ登ろうと奮闘しているところだった。
日が落ちて月が登り、夜に包まれた頃。自室で雑誌を読んでいた燈李に呼びかける囁き声がする。
「ん? どうした?」
植物たちの声は小さい。くすくすと笑い合うようなささめきが、燈李には人の話す言葉と同じように聞こえる。しかし、音量という意味での受信レベルはごく低い。いや、低くなるようコントロールしている、のであるが。
「は? 猫?」
庭の植物たちから焦りのような気配を感じ、燈李はリビングへと向かった。
「なぁ、あの猫どうしてる?」
リビングにいたのは蒼汰だった。目を擦りながらテレビを見ている。ソファに着替えが置いてあるから、風呂待ちのようだ。ちょうど風呂からあがった紫苑も、濡髪にタオルを巻いてリビングに入ってきた。
「へ? ちょっと前まで遊んでたけど、電池切れたみたいに寝ちゃったよ。そのへん……で……?」
蒼汰が指差した先に子猫の姿はなく、庭に面した窓が開いている。
「え……あれ? もしかして、外出ちゃった、かな?」
「マジか」
「え、何? あの子外出ちゃったの?」
「うわー、ごめん。見てなかったー」
「元々外にいたんだし、大丈夫だろうけど。庭のヤツらが騒いでるんだよ」
「どういうこと?」
「んー、ちょっと待て……」
燈李はラジオの周波数を合わせるように、植物たちの声に意識を向けた。焦りは先程よりも強くなり、しきりにとある場所を伝えてくる。
「線路? の方に行ったのか?」
「えー、どうしたんだろ? そっちに友達でもいんのかな?」
「ねぇ、植物がそういうの伝えてくるって、よくあるの?」
「…………滅多にない」
「探しに行こう。線路の方なんでしょ? あっちには今タチの悪い奴がいるし、心配」
「…………そうだな。行くか」
はやくはやく、と急かす声は止まず、家の庭だけではなく道端の草も街路樹も、燈李を呼んでいる。
嫌な予感に後押しされて、三人は慌てて家を飛び出した。
「いたっ! あそこ!」
植物達の声に従い、線路近くまで駆けつけた時、夜目のきく蒼汰がいち早く子猫を発見した。
「めっちゃシャーシャー言ってんだけど、なんで!?」
「あの子、たぶんアイツが見えてるのかも」
「あ! ユーレイいるとこか」
「そう。だから前みたいによろしく、蒼汰」
電柱あたりの何も無い空間にむかって、子猫が毛を逆立て唸っていた。小さな体を精いっぱい大きくしているが、己の恐怖と戦っているのだろう。じりじりと腰が引けていく。
蒼汰は、活性のコントロールが上手くない。ゆえに、ダダ漏れたエネルギーを真逆の性質のモノに浴びせることで、中和することができるのだが。蒼汰は気まずそうに頬をかいた。
「ちょっと今無理かも」
「え……、なんで?」
「わかんない。けど、夜なってからちょっと調子いいんだよ」
「なんだそりゃ」
「もう、こんな時に!」
「紫苑、蒼汰にあたってもしかたないだろ。オレが猫連れてくるから、ちょっと待ってろ」
「それなら私が」
「ダメだ」
燈李には見えないが、悪寒が止まらない。アレに紫苑を近づけるのは絶対に悪手だ。
かつて、兄が語った言葉が燈李の脳裏によみがえる。
* *
「紫苑の能力は、使えば使うほど紫苑の陰の力を強くしてしまうんだ」
蒼汰が自身の活性の素を他者に分け与えるのと逆に、紫苑は他者の、それも死者の鎮静の素を自身に吸収することが出来るのだという。
「活性とか鎮静とか、よくわかんねぇよ」
むぅ、と唇を尖らせた燈李に、藍は微笑みかけた。燈李はわからないのではなく、わかりたくないのだと、兄はお見通しらしい。
「陽は活性、陰は鎮静。燈李は陽寄りだね。紫苑は陰寄り。蒼汰は母さん譲りの極陽かな」
「兄貴は?」
「僕は陰だよ」
「……家族の中で、オレが一番中途半端だ。霊に干渉どころかロクに見えもしない。出来ることといえば植物と会話できるだけで」
「うーん……僕からすると燈李の能力は十分特殊だと思うんだけど」
「でも……」
「陰と陽に優劣はないんだよ。ただそういうもの、というだけ」
いくら比べたって、いくら望んだって、自身の持ちものは変えられない。できるのは、どう使うか、どうあるか、だけなのだ、と兄は言う。
わかってはいる。わかってはいるけれど。
憮然としたまま、どことなく浮世離れした片割れのことを考えた。
両親も兄も、紫苑を特別扱いしている気がして、それが燈李のコンプレックスを刺激する。全てはきっと、紫苑の能力が特別だからなのだ、という考えが拭えなかった。
「紫苑の陰の力が強くなると、どうなるんだ?」
「…………生きたまま、死者の世界に踏み込むことになる」
「……………………なんだ、それ……?」
思ってもみなかった答えに、燈李は言葉を失ったのだった。
* *
「燈李!」
「燈李兄!」
全身から力が抜ける。耳の奥で不快な高音が大きくなり、立っているのがどうしても無理だった。
抱えあげた子猫はパニックを起こすことも無く、電柱の辺りにむかってうなり続けていた。なんなら抱き上げられたことにも気づいていないかもしれない。
「くっ……! 蒼汰……、パス!」
駆け寄ってきた二人を手で制し、蒼汰にバスケットボールよろしく子猫を放る。うまい具合に放物線を描いて蒼汰の胸元に収まった子猫は、きょとんと目を丸くして固まっていた。
とりあえず目的は達した。後は自分がここを離れればいい。
燈李に霊は見えない。ましてや、霊の考えていることだなんて、わかるはずもない。だが、今何をしようとしているのかはわかる。
「これが、吸収……ってやつか?」
生命力が吸い出されている。あたりの萎れた草は、とばっちりで吸収されているのだろう。
「蒼汰にばっかり言えねーな」
陽の力、活性の力を使いこなせば対抗出来るのに。燈李は植物に活性を分け与えることしか出来なかった。
「燈李兄、大丈夫?」
「……蒼汰。猫は?」
「姉ちゃんに預けた。それよりこれキッツイ……早く逃げよ」
そう言って肩を貸す蒼汰も、足元がふらついている。子猫を抱いた紫苑が、叫んだ。
「ついてきてる!」
「紫苑ダメだ、逃げろ!」
子猫の毛が再びぶわりと逆立つ。燈李と蒼汰をまとめて餌食にしようとしているのだろう。二人揃って膝からくずおれた。紫苑の目に、弟達に覆いかぶさろうとする霊の姿が映る。
「ごめん、燈李。お兄ちゃんには一緒に怒られて」
駆け寄ってきた紫苑が空間へ向かって振りかぶると――
「シャー!!」
「え?」
紫苑の腕の中で子猫が激しく威嚇した途端、燈李達を飲み込もうとしていた霊が、跡形もなく霧散した。
紫苑の平手が、何にも触れずに空振る。
「なんだ……? どうなった……?」
「急に楽になったー。何これユーレイは?」
周囲を見回す燈李と蒼汰。同じように呆然とする紫苑。何が起きたのか誰もすぐにはわからなかったけれど。
「にゃあ」
紫苑の腕のなかで子猫が誇らしげに鳴いたことで、ようやく三人は危機が去った事に気付いたのだった。
翌朝、帰ってきた兄に事情を説明すると、案の定お説教だった。強く叱責されることはない。淡々と、ただ淡々と、諭されるのである。
三人全員がしっかり反省したのを見届けて、藍が子猫を確認すると、「本人は陰寄りみたいだけど、陰の近くにいると陽に、陽の近くにいると陰に転換してる」とのこと。
ちょっと変わった家に、ちょっと変わった猫が惹かれたんだろう、と燈李は思う。
ふと、紫苑が選んだ母からの土産は、猫(に見えなくもない)の置物だったことを思い出した。
「まさか……な?」
突拍子もない自分の想像を、かぶりを振って追い出すと、「そうだ」と紫苑が声を上げた。ソファでヘソ天で寝ている子猫をにまにまと眺めていた紫苑が、何か閃いたらしい。
「八雲。八雲がいいかな」
名付けるのは、飼い主が探していないか確認した後にしておけと言ったのに。
「賑やかになりそうだな」
空野家に小さな家族が一匹増えるのも、時間の問題だった。
猫!
猫は出さずにはいられない……。




