9.藍と歌
日付が変わって間もない午前二時。バー・tsukuyomiにいるのはマスター代理の藍と、カウンターに陣取る女性二人組の客のみ。
藍は黒髪に黒いシャツ、黒いパンツに黒い革靴、といつもどおりの黒ずくめであるが、仕事仕様で長めの前髪は少し上げている。整った顔立ちが女性客にウケが良いのはもちろんだが、いつも穏やかな話口調が、常連達から「落ち着く」と好評な藍である。
仕事帰りと思しき女性達は、日付が変わる少し前に来店し、カウンターを陣取っている。一人は明るい茶色のロングヘア、もう一人は黒髪のショートボブで赤いインナーカラーがちらりとのぞく。
月を模した照明が浮かぶ店内、ほんのりとした月明かりに照らされた二人の頬は、メイクでもカバーできない程の朱が浮かんでいた。『あたし達のイメージでカクテル作って欲しいな』という要望により出したものが口にあったようで、軽快に飲み進めての今である。アルコール度数は抑え目にしたはずなのだけれど。
「ヤバーイ、もうこんな時間じゃーん!」
「こうなったら朝まで飲むぞー!」
「きゃはははははっ!」
甲高い笑い声は、おそらく店の外にまで響いているだろう。藍は苦笑しつつ、水の入ったグラスを二つ差し出した。
「朝まで飲むのは構わないですけど、まずは一回お水飲みましょうか」
「やーん、藍さん優しい!」
「さっすがイケメン! うちの会社の男どもも見習って欲しい!」
「いや、それはどう……でしょう?」
なんと答えたところで、二人のテンションの餌食になるのは目に見えている。微笑みと共に受け流して、水の代わりに下げたグラスをシンクに置いた。
店のドアの向こうから、「次行くぞ!」だの「もう帰る」だの、果ては連れの会話そっちのけで歌い出している者の声がする。
丑三つ時とはいえ、このビルが眠りにつくのはもう暫く先だった。
出された水を素直に飲みながら、ロングヘアの女性が何かを思い出したように話し始めた。
「歌。そう、聞いてよ」
「は? あんたの歌を? 何歌うの?」
「違くて。最近ね、うちの前でめっちゃ歌いながら歩ってくやついんの。しかも毎日今くらいの時間に」
「毎日?」
「そう。あ、でも見たわけじゃないからさぁ、歩ってるんじゃなくて自転車かもだけど」
「どっちでもいいよ、それは……。酔っ払いかね?」
「わっかんない」
藍はグラスを洗いながら、二人の会話を聞いていた。いつもならもう少し客が来ても良さそうな時間帯だったが、いまだそれらしき気配は無い。ドアの向こうを人が歩き過ぎてはいくのだが。
「ま、いっつも帰りがそのくらいの人なんだよ」
「気が昂っている人かもしれませんし、あまり刺激しない方がいいですよ、きっと」
「やー、わざわざ声掛けたりはしないけど……。毎日同じ時間って気付いたら何か怖くてさぁ」
水の入ったグラスを片手にため息をついて、女性はふと腕時計に目をやった。
「なんだっけ、丑三つ時っていうの? それじゃんって思ったらどんどん怖いものな気がしちゃってさぁ。今日のはただの酔っ払いだからいいけど、家で聞くとマジ怖いんだって」
「思い込み思い込み」
「……ちなみに、どんな歌なんですか?」
「それがねぇ、よく聞き取れないのよ。男の人なのはわかるんだけど。日本語なのかもよくわかんない」
「やっぱり呂律回ってない酔っ払いじゃん。ていうか、あんたが酔ってた可能性もあるよね。家でも毎日晩酌してんでしょ?」
「してるけど、そこまで深酒しないって。ていうか咲希、そんなに否定しなくてもいいじゃん。ちょっとくらい一緒に怖がってくれても良くない?」
お互いに座った目で見つめ合うと、咲希と呼ばれたショートボブの女性は気まずそうに目を逸らした。両手でグラスを温めるように包み込み、「だってさぁ」と口を尖らせる。
「まぁまぁ、静香さん。咲希さんはもう怖がってるじゃないですか」
「あっ!? 藍さん、ちょっと!」
「なに、そうなの? なんだ、咲希ちゃん怖かったのー」
途端にニヤついた静香の肩をぱしっと叩き、咲希はぷいっと顔を背けた。
二人のやり取りを生暖かく見守りながら、藍はドアの外の気配に意識を向ける。あまり積極的に関わりたいものでもないけれど、そうも言っていられないらしい。
「すみません、ちょっとだけ外しますね。すぐ戻ります」
「はーい、行ってらっしゃーい」
静香がヒラヒラと手を振るのを横目に、藍はカウンターを出た。店のドアを少しだけ開けて、すり抜けるように廊下へ出る。古い蛍光管に照らされた廊下では、朗々と歌いながら男が一人歩いていた。
藍が出ていったあとの店内では、咲希と静香の会話は続いている。
「だってさっきさ、今日のはただの酔っ払いだって言ったじゃない」
「言ったけど?」
「今日のはってなに? 誰も歌ってなくない?」
「はぁ? さっきからずっと廊下で歌ってるじゃん。酔っ払いのおっさんが」
「いやいやいやいや。誰も歌ってない。何も聞こえない」
「え、ちょっと……やめてよ……」
二人が無意識か手を握りあう。そろそろとドアを見て、ごくりと息を飲んだ。
ちか、と天井の月が瞬いて、二人は「ひぃ!?」と小さな悲鳴を漏らした。
廊下を歩く男の姿は、黒いモヤに包まれていてよく見えない。声音で男だとわかるのだが、この声が声帯から発せられたものかどうかは怪しい。
モヤが廊下にも漂っているのだろう、廊下は薄暗く空気が重い。呼吸と共に体も重くなっていく気がする。
藍の前を通り過ぎ、廊下をただ往復している黒いモヤが紡ぐのは、何かしらの呪言であろうか。気配からして到底言祝ぎではないだろう。耳障りのよいものではない。
ドアを守るように立ち、藍はモヤへ向かって声をかけた。
「申し訳ありませんが、お引き取りいただけますか」
廊下の奥の方を歩くモヤが、ピタリと立ち止まった。歌も止まり、モヤがゆっくりとこちらを向く。
人ならざる存在との会話は、危険だ。まずもって、理の異なる相手と会話が成立することはほとんどなく、人の形を失っている相手ほどそれは顕著である。
しかし、意思の疎通が出来ないかと言われれば、それは否だ。少なくとも、藍にとっては。
「お客様が怖がっているんです。…………そう、ですね。営業妨害も、まぁ若干……」
歌は止まっているが、ジリジリとモヤが近づいてくる。藍は慌てた様子もなくモヤと相対した。
「よかれと思ってしている事が、相手にとって必ずしもプラスとは限りません。あなたは陰が強すぎる」
藍のすぐ前で止まったモヤが、微かに呻き声をあげた。怨嗟の声のようにも聞こえるそれは、実のところただの戸惑いである。人のセリフにするならば「マジで?」といったところだろうか。
「彼女には気をつけるように伝えますから。今日のところはお引き取りください」
その後モヤと向かい合うこと数秒。霧が風に吹かれたかのように、黒いモヤは次第に薄れ消えていった。安っぽい明るさを取り戻した廊下の奥で、エレベーターの階数ランプが灯る。
「さて、どう伝えたものかな……あれ?」
そう独りごちて店のドアを開けると、カウンターにいたはずの二人が奥のテーブル席に移動していた。酔いはすっかり覚めているようで、ドアの向こうに怯えた目を向け縮こまっていたのだった。




