達人
ある日、茂吉は友人に誘われ、剣の達人の家へ向かって歩いていた。
「なあ、だからうちには剣術なんざ習う余裕ねえって。かかあに怒られちまうよ」
「いいから、いいから。おめえも先生から剣を習えば、かかあなんか怖くもなんともねえって」
「別に怖かねえよ……それにお前、昨日の夜、奥さんに怒られて、ひーひー言ってたじゃねえか」
「げっ、聞いていやがったのか。いや、おれもこれから習うんだよ!」
「なんだよ、まだ習ってなかったのかよ」
「まあ、会うのは今日で三回目だからな」
「ほーん。でも、お前がそこまで入れ込むなんて、ちょっと興味が湧いてきたな」
「だろ? ほら、あの家だ」
二人は剣の達人の家にたどり着き、そっと戸を開けて中へ入った。
「おい、なんでこそこそ入るんだよ」
「しっ、先生はな、いつも縁側で正座して庭のほうを向いてんだ」
「それがどうしたってんだよ」
「いいから、いいから……あの部屋だ」
友人は茂吉を制しながら、慎重にもう一枚の戸を開けた。
「……君か、それにもう一人いるな」
「へへえ、さすが先生! お見事でございます。な、茂吉! 先生はこちらを見ずとも気配が分かるんだよ! これぞ達人の技だな!」
「ほお、確かにな……」
先生は二人のほうを向き、柔らかく微笑んだ。
「精神を集中させれば、それくらい容易いことだ。それで、入門するのかね?」
「ええ、そりゃもちろんですとも! なあ、茂吉、あっ!」
友人が驚いて声を上げた。茂吉がゆっくりと先生に歩み寄り、突然バシッとその頬を叩いたのだ。
「おい、茂吉! なにしてんだ、おめえ!」
慌てる友人をよそに、茂吉は手を広げて笑った。
「見てみろ。先生、蚊に気づいてなかったぞ! おれはもう免許皆伝だな!」