③存在
***
「お前は──哀しい眼をしているな」
寂れて崩れた城の中。
昔は豪華で綺麗だったのであろう広間で、俺は目の前の男に唐突に言われた。
何をいきなり────。
そう問いかけて、止める。
どうせつまらない事を言って、俺を惑わすのが目的なのではないだろうか?
──相手は魔族だ。魔族の多くは他者を惑わして、時には惑わした相手を破壊する。
そう思って不信感を募らせていると魔族の男は俺の顔をじっと見て、口元の端を吊り上げた。
「だが──他の天使とは違う。……良い眼だ」
──彼はいったい何を考えているんだ。
俺は何を考えているのか分からない男の様子を見て、警戒を強くした。
──そうだ。気を付けなければならない。目の前のこの男は魔族。──しかも、魔族の中でも頂点辺りに立つ存在であるのだから。
今日、この荒廃した城にやってきたのはたまたまだった。
ただ何となく空を飛んでいたところ、地上を見下ろしていたときに見付け、ふと気になって入ってみただけ。たったそれだけのこと。
そうしたらそこには、強大な力を持った彼がいたのだ。
その男を目の前にして、俺の身体は少し震えている。
彼から滲み出る圧倒的な存在感、威圧感に俺の本能が訴えかけていた。
──気を抜いてしまえば呑まれる。
きっとこの雰囲気にあてられたら、大抵の者は恐怖を覚える事だろう。
「……俺が怖いか?」
男は俺の考えを見透かしたように、俺に問い、笑う。
────ああ、怖い。怖いに決まっているじゃないか。
今にも泣き出しそうな俺を見て、男は微笑した。
────そう。微笑んだのだ。
とても優しくて、見ていると温かい気持ちになるような…………。
………え?
俺は驚愕した。
ごしごしと目をこすってみるが、彼が微笑んでいる顔は消えない。
────何故、彼はこんな微笑みを浮かべているの?
「………お前の名を、訊いてもいいか?」
俺はアストにそう言われて、ようやく我に返った。
噂で聞いていたような冷たい表情ではなく、先程から優しい表情しか見せない男に戸惑う。
「……訊くなら普通、自分の名前を名乗ってからじゃないですか?」
「俺の名前くらい知っているだろう?」
男は苦笑し、俺へと歩み寄ってきた。
「……まあいい。俺の名はアスト。アスト・カオス・シンセティック。“混沌の支配者”と周りからは言われている。…………改めて問う。お前の名は?」
再び訊かれて、俺は自分より背の高い男を見上げた。
「雪吹。……月夜里雪吹」
「そうか。雪吹、だな?」
男──アストは右手を伸ばし、俺の頭に手を置いた。
びくり、と身体が一瞬強張ったけれど、アストから放たれていた何とも言えない雰囲気はいつの間にか消えていて、俺は彼への敵意を少し緩める。
「────お前は、魔族をどう思う?」
俺の頭を撫でながら、アストが訊いてきた。
────ズキッと心に痛みが走る。
「どうって……」
「憎むか? 嫌うか? それとも恐れるか? ────悪しき者として滅したいと思うか?」
──そんなこと、思ったことない。
俺はその言葉にゆっくりと首を横に振った。
「多くの魔族は悪を働くけれど、全ての魔族が悪とは限らない。──天使にだって悪の道を進む者だっている……」
「……やはりお前は他の天使とは違うな。──血のせいか?」
──ああ。やはり気付かれていたようだ。
流石は混沌の支配者といったところか。この身に流れる魔族の血の気配を感じとったのだろう。
「そうかも……しれない」
「その血を持って生まれて、お前はずっと苦しかっただろう」
「まあ……ね。この血のお陰で、俺は天界では嫌な仕事ばかりやらされるしね」
ぎこちなく答えて広間の天井を見上げる俺は自嘲の笑みを浮かべた。
正直言って逃げ出したい。
だって、俺に与えられる仕事の多くは─────。
「俺はね。血濡れの天使って呼ばれてるんだ。罪を犯した天使や、魔族の処刑をこの手でやるのが俺の仕事だから」
「……幼い割に凄まじい仕事をしているのだな」
俺は自分のことを語り始めていた。
アストは眉間に皺を寄せる。
当時、俺は十二歳。
……だから子供がそんな事をしていたら色々と思うところがあるのは当然かもしれない。でも。
「でも、仕方がないんだよ。俺は命令に逆らえない。────逆らえば殺されてしまうから」
「…………お前を守ってくれる者はいないのか?」
「父親も母親も俺にはいない。だから今、俺が生きるために縋れるのは天界しかない。……自由は無いけれど」
そろそろ帰らなければならない。俺はアストから離れ、彼に背を向けて扉の方へ歩き出した。
その俺の背に声がかけられる。
「雪吹!」
俺は足を止めて振り返った。
そこには何故か必死な顔をした彼がいる。
「俺が──俺がお前を守ってやる!」
───────え?
思わず、思考が停止した。
────何故?
そう問いかける前に彼は言った。
「これは俺の自己満足だ。お前に何かあったら、必ず俺はお前の力となる!」
「……何言ってるの? 貴方は天界に追われる身。俺は天界に従う身…………。分かっているの?」
「それでも、だ」
アストは真剣だった。
その真剣な顔を見るのが何となく難しくて、俺は視線を逸らした。
「………………勝手にすれば?」
「ああ。する」
アストは柔らかく微笑んだ。
俺は少し嬉しいのに素直にそれが言えなくて、もどかしく感じながら広間を後にしたのであった。
***
アストと出会った日から暫く後のこと。
「雪吹」
久しぶりの休み。
人間界に降りてきた直後、呼び掛けられた。
「……アスト」
俺は声のした背後を振り返り眉を寄せる。
いつものこと。と言えるくらいにこのやりとりは出会った日から俺が人間界にやって来るたびに繰り返されていた。
「…………勝手にしろとは言ったけど、あんた、立場分かってるの?」
もう「貴方」と呼ぶのも面倒になり、俺はアストを「あんた」と言うようになった。
「立場とは?」
「だぁーかぁーらっ! 俺は半分魔族の血を持ってるけど天界に従ってて、あんたを敵と見てる側なんだよ!? 分かってるの?」
俺は苛立ちながら叫ぶ。アストは可笑しそうに笑いながら頷いた。
「ああ。それくらいは分かっているさ。俺は人を殺し、天使を殺し、その両者を喰らってきたから天界から見たら気を付けなければならない危険な存在だろう」
「……俺があんたを騙して天界に売ったりしたらどうするんだよ」
暗に天界はあんたを捕まえようとしているんだと言ってみる。
けれどもアストは笑うばかりだ。
「お前はそんなことしないさ。……お前自らはな」
「…………どこにそんな根拠が」
「最初に会ったあの日から一年以上経っているのに、お前にそんな素振りは無かった」
「………………まあ、俺があんた相手に勝てるわけないって分かってるし」
アストがその気になれば、きっと俺なんか一瞬で消されるかもしれない。
「そうか?」
「だって俺、天使術は光と風属性魔法と治癒、補助系しか使えないし」
「ふうん…………。天使術“は”ね」
「………………………」
アストの意味のありそうな呟きを聞きとめて、俺は顔をしかめた。
「何だよ」
「いや。別に」
ふっ、と笑ったアストを見て、俺は内心で溜息を吐く。
出会って一年が経つけれど、未だにアストのことはよく分からない。
────生きてきた年数が違いすぎるから、アストの思っていることが上手く読み取れないのは仕方ないのだろうか。
でも言い方からすると多分、俺が敢えて言わなかったことは分かったんだろうな……。
今度は実際に、俺は深く溜息を吐き出した。