メガネツユクサ
恩師と言えば、浮かんでくる眼鏡がある。
顔ではなく、眼鏡だ。
小学校三年生の担任は、体の大きな、男のT先生だった。太い白縁眼鏡を掛けていた。
子供の目線で見上げると、顔より眼鏡が印象的だったので、私にとってT先生は、太い白縁眼鏡と同義だった。
先生は国語が専門で、文章を書く楽しさを教えてくれた。
毎日、日記を付けることや、クラスの文集の作成に力を入れていた。その中で、優れた表現を皆の前で褒めては、やる気を引き出した。
だから、三年二組の子供達は、私を含め皆、作文が好きになった。
また、先生は読み解く力も育ててくれた。
子供達に相応しい本を紹介し、読み聞かせ、
表現していることは何かを話し合わせた。
私達は、行間を読むことを知った。
子供は単純なので、褒められれば得意になり、益々のめり込む。
一人で文集一冊分の作文を書く強者も出て来た。
皆、競い合って、作文を書き、読んだ。
梅雨入りしたある日、先生は、ツユクサの話をした。
「皆、ツユクサって知っているかな」
「その辺に生えてまーす」
誰かが答え、皆、ドッと笑う。
「そうだね。この辺りに咲いているのは、濃い青のツユクサだね。花びらの青い色素は、布などに着いても、すぐに色が褪せてしまうから、染め物の下絵を描く絵具として使われたんだよ。皆は、朝顔で色水を作ったことあるかな」
「幼稚園で作ったことあるよ」
「あるー」
「花びらを、水の中で揉むと色水が出来たね。花びらから作った絵具って面白いよね」
「また作りたい」
「作りたいー」
「ツユクサはね、朝早く咲いて、昼にはしぼんでしまうんだ。だから、儚いイメージがあって、万葉集という昔の歌を集めた本にも良く出て来る」
先生は黒板に万葉集と書いてひらがなでルビをふった。
「儚いというのは、長く続かないとか脆いとか、か細いとかいう意味だよ」
今度は、ひらがなで『はかない』と書いた。
「先生が、子供の頃住んでいた家の庭に、ツユクサが沢山咲いていてね。先生のお祖父ちゃんが万葉集の話をしてくれた。昔の人は、こんな草花を見ても歌を作るんだって、万葉集ってどんな歌が書かれているのだろうって、先生は興味を持ちました」
それが、国語教師になった切っ掛けだと話した。
「お仕事ってそんな風に決めるの?」
「自分が興味を持った事を、どんどん突き詰めていって、お仕事になることもあります。だから、皆も、興味のある事や好きな事を大切に伸ばして行ってくださいね」
先生の話は、小学三年生には少し難しかったが、将来の仕事の決め方の一つが示されたことは分かった。
依頼された原稿を打つ手を止める。
窓の外は雨。
庭に咲くメガネツユクサが、こっちを見ている。水色の花弁に白い縁取り、まるで眼鏡をかけたような花。
ツユクサの花言葉は「尊敬」「懐かしい関係」
ツユクサの話をしてくれた、太い白縁眼鏡のT先生を思い出す。
先生、私は今、文章に関わる仕事をしています。先生が示してくれた道を、突き進んでいます。
梅雨に咲くメガネツユクサを見ると、先生は、どうしておられるか、そんな事を想います。