第四話 終電まで
ワタルと沙樹は駅までの距離を、肩を並べて走る。
吐く息も凍るような夜だったが、走っていると少しずつ体温が上がる。
そのうち暑くなってきて、ワタルは途中でマフラーを外した。
沙樹は腕時計をときどき見ながら、間に合いますように、とつぶやいている。軽いウェーブのかかった長い髪がふわふわと揺れ、額が汗ばんでいた。
ワタルの鼓動が高まるのは走っているからだろうか。
沙樹の少し荒い息遣いを聞いていると、このまま一緒にずっと走り続けたくなった。
「あっ」
駅前の信号が赤に変わり、悲鳴にも似た沙樹の声がワタルのすぐそばで聞こえた。
無視して突破しようかとも思ったが、車が多いのであきらめる。
ほとんどが、夜遅く帰宅した家族を迎えに来ているのだろう。
腕時計を見ながら地団駄を踏んでいる沙樹の横で、ワタルは、共に過ごせる時間がもうじき終わることを残念に感じていた。
ようやく青に変わったと同時に、電車がホームに滑り込む。
沙樹はダッシュで横断歩道を渡り、駅の階段を駆け上る。追いかけるようにワタルも走った。
別れのあいさつもそこそこに改札を通ろうとする沙樹に、
「お客さん、ちょうど今終電が出たところなんですよ」
窓口から駅員が申し訳なさそうに教えてくれた。
「ええ、そんな……」
肩で息をしながら沙樹はうなだれる。
ワタルはスマートフォンのアプリでほかのルートを探したが、別の最寄駅も終電が出たあとで、次の電車は始発まで待つしかない。
車を持っていれば深夜のドライブがてらに送ってもいけるが、学生のワタルは車など持っていない。
「タクシーに乗れるような距離じゃないし、まいったなあ」
沙樹は券売機のそばにあるベンチに座り、頭を抱えている。
それなのにワタルの心は弾んでいた。
人の不幸を喜ぶ? いや、そうではない。
もう少し一緒にいられる、そのことが不思議と嬉しかった。
どんな形であれ、妹のような彼女に去られた身のワタルは、深夜の電話で話す相手がいなくなったことをさびしく感じている。
沙樹はスマートフォンを取り出し、友人に電話をかけている。
代わりと言っては失礼だが、泊まるところが見つからなければ、朝までつきあうのもいいかもしれない。
いや、正確には「つきあってもらう」だろう。
沙樹は肩を落とし、ため息をつきながらスマートフォンを鞄に戻した。そしておもむろに立ち上がり、重い足取りで階段にむかう。
ワタルはそばに並び、ふたりで駅の外に出た。冷たい空気が体温を奪う。走って汗をかいた分、夜風が体の芯まで冷えさせた。
「泊めてくれる友だちは見つかった?」
「こんな時間に急に押しかけるなんて、予想通り無理でした」
週末だけあって、彼氏のところに行っている子、合コンに参加中の子、そしてレポートに追われている子たちばかりだ。とても他人を泊める余裕のある友人はいない。
沙樹はコートの襟を合わせて、背中を丸めた。両手に吹きかける息が白く凍る。
「今から二十四時間営業のファストフードかネットカフェに行きます。ワタルさん、今夜はありがとうございました」
行く先が決まっていないにも関わらず、沙樹はやけにすっきりした表情をしている。酔いも冷め、失恋の痛みも吹っ切れたような笑顔がやけにまぶしかった。
ワタルはふと思いつき、
「そんなところに行くくらいだったら、うちにおいでよ。温かいココアやコーヒーもあるし」
と、バンドメンバーに声をかけるように、軽い気持ちと親切心で誘った。
「え? ワタルさんの?」
沙樹は目を大きく見開いて、頬をやや染めた。両手で口元を隠し、返事の言葉を探している。
(しまった。なんてことを……)
その姿を見てワタルは、大胆なことを言った自分に気がついた。これではまるで、困った沙樹につけこんだ下心ありの男そのものではないか。
だが後悔しても一度出た言葉は取り消せない。
もっとも沙樹とはバンド仲間と一緒に、何度も一夜を明かしたことがある。
ライブの打ち上げや、新年会に忘年会。今まで普通にそうしてきた。だから今もその感覚で気軽に誘った。
それに、深夜営業の店に沙樹をひとりおきざりにするのは忍びない。窮屈なテーブルで一夜を明かすより、ワタルの部屋に来たほうがはるかに快適に過ごせるだろう。
本当にそれ以上の深い意味はなかった。
駅前の街路樹が青色LEDで飾りつけられている。
冷たいと思っていた色が柔らかく輝く。焦るワタルの頭を冷静にさせるように。
「あ、いや、その……とくに下心なんて、な、ないし……今までだってみんなでそうしてきたから……」
(おれは一体何をやっているんだか……)
ワタルは急にしどろもどろになり、どうすれば真意が伝わるのか考える。
そしてやっと言葉が見つかった。
ワタルはずっと手にしたままのマフラーを、そっと沙樹の肩にかける。
「だって今夜は、この冬一番の冷え込みだから」
寒さを言い訳にして、もう一度誘ってみる。
こんなに凍える夜は、ひとりよりふたりでいたい。そのほうが心も体も温かくなる。
沙樹は腕組みしてしばらく考えている。
答えが返るまでわずかな時間なのに、どうしてこんなに緊張するのだろう。
気をそらそうとワタルは夜空を見上げた。
街のネオンに負けないくらい、明るい星がまたたいている。冬の星空は一等星が多く並び、一年で一番にぎやかだ。
急にパンと手をたたく音がした。ワタルは視線を星空から沙樹に移す。
「じゃあ、途中であったかい肉まん買いますね。そうと決まったらコンビニに行きましょう」
沙樹の笑顔は、ワタルの真意が伝わったことを語っていた。
「おれはレポートを書かなきゃいけないから、お酒は飲まないよ」
「わかっていますって。途中で寝てしまわないように、ワタルさんの好きなモカを淹れて応援します」
沙樹はそう言い残すと急に走り出し、近くのコンビニに入る。
「まったく。終電は出たあとなんだよ」
これ以上走らなくてもいいのに、とつぶやきながら、ワタルは人差し指で頬をかいた。
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