第三話 失恋と真実の気持ち
――でもそんな相手と別れたのは正解だ。おれなら傷ついた心を癒してあげられるのに。
不意にワタルの心にそんな気持ちが芽生える。
(なんだ? これは……)
気の毒にと思う気持ちに偽りはない。
だがそれと同時にワタルは、沙樹がフリーになったことを、まるでいい話だと思う自分に気がついた。
思い返すと、沙樹がサークルの先輩とつきあうようになってから、バンドの練習に遊びにくる回数が減っていた。
それまで普通にいた人がいなくなると、妙に落ち着かないだけだと自分を説得していた。
だが沙樹の姿があまり見られなくなってから、ワタルはそれに慣れるまでしばらく時間が必要だった。
――これでバンド活動の手伝いに戻ってきてくれるといいんだが。
心のどこかで期待してしまうのはなぜだろう。自分にも「彼女みたいなもの」がいるのに。
いや、正確には「いた」か。
「こればかりは仕方がないよ。だれかに惹かれる気持ちは、自分でコントロールできないものだろ。沙樹ちゃんにしたって先輩のこと男として惹かれなかった以上、別れて正解だったんだよ」
「そうですか?」
沙樹のうるんだ瞳が自分を映している。
そんな些細なことがワタルを心地よくさせる。
柔らかそうな唇に、思わず触れそうになる。
「沙樹ちゃんの複雑な気持ち、理解できないでもないかな。
おれも最近、ふったかふられたか解らない別れ方をしたところなんだ」
「ワタルさんが?」
沙樹は目を見開き口元に手をあてる。同病相憐れむといったところか。
ワタルはコーヒーを一口飲んだ。口の中に苦みが広がる。
「ワタルさんの彼女って、アルバイト先の元教え子でしたよね?」
「そうだよ」
去年受験生だった彼女は、ワタルの恋人になりたい思いで必死に勉強し、その甲斐あって同じ大学に入った。
受験生時代、塾で告白されたときから「つきあえない」とワタルは拒否していた。
公私混同はいけないとブレーキをかける以前に、先生と生徒以上の気持ちを持てなかった。
ところが教え子はワタルと同じ大学に合格し、入学後は押し掛け女房のごとく突撃し、恋人のようにふるまっていた。
どうやって辞めさせようかと、ずっと考えていた。
彼女の性格を考えると、多少の忠告は伝わらない。かといってあからさまに冷たくするのも気の毒だと、ある程度は好きにさせてきた。
そんな自分の心の弱さに嫌気がさしていたのも事実だ。
それが最近になって彼女のほうから「他に好きな人ができた」と言い残し、以来まったく姿を見せなくなった。
結局ワタルは彼女に対して、自分を慕ってくれる妹のような存在にすぎず、それ以上の存在になることなく終わった。
でもそばにいてくれた人がいなくなると、寂しさは残る。
そういう意味では自分も失恋したようなものだろう。
「彼女曰く、好きになった人にも彼女がいるけど、気にせずに告白するってさ。まったくあの子らしいよ。たしか同じ学科の先輩で、放送研に入っていて……」
ワタルはハッとして言葉をとめた。
もしかして相手は沙樹の元彼ではないだろうか。沙樹も同じことを考えたらしく、頬を赤く染めている。視線が泳ぎ始めた。
まさかと思いつつも、ワタルは彼女の名前を告げた。
「信じられない。その人ですよ」
なんという偶然だろう。
ワタルに押し掛けてきた元教え子は、沙樹のつきあっていた先輩を好きになり、恋人がいることも構わずに告白した。
そして先輩は沙樹ではなく彼女をとった。
好きになってくれるかわからない相手より、気持ちをストレートに伝えてくれる女性を選ぶ先輩の気持ちはよく解る。
ワタルと沙樹は互いに顔を見合わせる。
さっきまで泣いていた沙樹は、口を半開きにして何か言おうとした。
だが言葉を見つける前にふっと息を吐いたかと思うと、突然くすくすと笑い始めた。抑えようとしても抑えられず、いつまでも笑っている。
ひとしきり笑ったところで、最後に残った涙を両手で拭き取った。
「うそみたい。同じ大学だからって、こんな偶然あるんですね」
「まったくその通り。信じられないよ。世の中って狭いっていうけれど、本当だな」
ワタルは残ったコーヒーを飲み干した。カップをおき、改めて沙樹を見る。いつもと同じ屈託のない表情に戻っていた。
「思い切り笑ったら、急におなかがすいてきたみたい。マスター、何かあります?」
「焼きそばくらいならすぐに作れるけど、そんなことしている間に終電が出てしまうよ?」
マスターがカウンター内の壁にかけられた時計を指さした。あと少しで日付が変わろうとしている。
「うそ、いつの間に」
沙樹は椅子から飛び降り、慌ててコートに袖を通す。
「のんびりしていたら乗り遅れちゃう」
「遅い時間だから、おれが駅まで送るよ」
「乗り遅れたら嫌なので走るから、ひとりで大丈夫ですよ」
「遠慮しなくていいさ。ライブに備えて毎日ジョギングしているから。こう見えても体力には自信があるんだ」
ワタルが力こぶを作るポーズをとると、沙樹は目を細めて、
「じゃあ、お願いします」
と笑った。
背後で、エラ・フィッツジェラルドの力強いボーカルが響いていた。
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