第二話 別れの理由
「どうして沙樹ちゃんがふられたのか不思議でならないよ。少なくともおれが見る限りでは、先輩といい雰囲気だったよ。それこそ妬けるくらいにね」
食後のコーヒーカップを目の前のカウンターにおき、ワタルは理由を考えた。
モカの香ばしい香りが、頭を冴えさせてくれる。
いつの間にか沙樹の手元にはココアがたっぷり入った大きなマグカップがおかれ、甘い匂いを漂わせていた。
(もうお酒に頼る必要はなくなったってことか)
今夜、沙樹がやけ酒に入る前に会えてよかったと、ワタルは心から安心する。
「ふられたというか、ふったというか。あたしにもよくわからないんです」
うつむき加減で話すと、沙樹はペーパーナプキンを一枚とり、目元にあてた。
「別れのセリフが『きみは最後まで、ぼくのことを好きになってくれなかったね』ですよ。訳が解りません。どういう意味ですか?」
沙樹の頬に赤みがさしているのは、まだアルコールの影響が残っているからだろう。いつもならこんな質問をするまでもなく、自分で答えを出している。
あるいは、答えにたどりつきたくなくて、考えることを放棄しているのかもしれない。
人のことは解るのに、自分のこととなると案外気づけないものだ。それは沙樹だけでなく、ワタルも同じだ。
「そうだな……言葉通りなら、先輩は沙樹ちゃんに愛されていないって思うことが何度もあったんだろうね。もしかして沙樹ちゃんは、恋愛感情のない人とおつきあいしていたのかい?」
沙樹は瞬間動きを止め、軽く眉をひそめる。そして数秒考えたあとで、小さくうなずいた。
「先輩としては好きだったんですけど……」
「それじゃあ、だめだよ」
「だからあたし告白されたとき、おつきあいできませんって断ったんです。
でも『お試しだと思ってつきあってみないか。そのうちおれの良さがわかって、男として好きになるからさ』なんて言われたんです。
おまけに放送研の同期や先輩たちには、断っちゃだめだって囲い込まれて、半分脅迫みたいに説得されたんですよ」
沙樹がそのような状況に追い込まれ、つきあい始めていたとは。ワタルは知る由もなかった。
「かわいそうに。いやって言えない状況だったんだね」
お見合いや友達の紹介だったら、そういう感じのスタートも普通にあるだろう。
だがこの場合は初対面ではないのだから、始まり方としてはまちがっている。
どのような形であれ、人の感情を顧みないやり方にワタルは少し怒りを覚えた。
(そんなことがあったとき、すぐに相談してくれれば良かったのに)
なんでもひとりで抱えこもうとする健気さが、今回は悪い方に出てしまった。
追い込まれた状況で始まったつきあいを、沙樹自身がどう受け止めて、自分を納得させていたのか。
いい雰囲気だと感じて沙樹の本心を見抜くことのできなかった自分にも、腹が立ってしまう。
「あたし、先輩のこと好きになろうって努力したんですよ。いい人だって解っていたから、気持ちに応えたかった。
最近になって、恋焦がれる恋愛じゃなくて愛される恋愛もいいかなって考えられるようになったんです。もしかしたらこれで好きになれるかもしれないって思い始めたところなのに。
キスしてもいいかって何度も聞かれて、ずっと断っていたのを、やっと決心したんですよ」
沙樹はまたナプキンを目元にあてた。
(キスを断っていたって?)
先輩が「愛されていない」と感じたのはそれが原因だろう。
しかし聞いたワタルが赤面しそうなことまでさらっと告白されるなんて、まるで女子同士の恋愛相談だ。
沙樹にとってのワタルは、所詮信頼できる女友達のようなものか。
心の深い部分を話してくれる喜びと、女友達と同じ扱いをされている寂しさが、ワタルの心を掠める。もっとも今はそんなことを考えている場合ではない。
「タイミングが悪かったんだね。別れようって言われたときに、そのことは伝えなかったの?」
「言ったけど駄目でした。先輩、二〜三日前に一回生の女子に告白されたんですって。そしたら急に彼女のことが気になってきたって言うんですよ」
なるほど、それでふったともふられたともいえるわけか。
彼はおそらく、いつまで経ってもふりむいてくれそうにない沙樹に愛想を尽かしかけていたのかもしれない。
そんなとき後輩からの告白は、渡りに船だったに違いない。
気持ちが解らないでもないが、始まりの熱心さに対して落差がありすぎる。
もう少し自分の彼女を傷つけないで済む別れ方ができないものか。
相手の立場や気持ちを考え、できるだけあわせようとする健気さこそが沙樹の魅力だ。件の先輩はそこを自分勝手に利用し、傷つけた。
卑劣な輩だと怒りすら覚える。そんな相手とは別れて正解だ。
だが沙樹の気持ちを考えると、元彼の悪口は言えない。
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