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第一話 思いもよらぬ言葉

「こんばんは、マスター。今日も冷えるね」


 いつものようにワタルは、遅めの夕飯をとるために喫茶ジャスティの扉を開けた。

 少し照明を落とした店内では、ジャズアレンジしたクリスマスソングが響いている。

 マスターの趣味丸出しで選ばれたBGMだ。


 大学のサークルでロックバンドのリーダーを務めているワタルだが、父親の影響で幼いころからジャズに親しんでいる。

 そんな耳にも満足のいくナンバーが今年も十一月の終わりから流れていた。



 塾講師のバイトを終えたワタルが心地よさを求めて店に訪れたとき、時計の針は十時半をまわっていた。

 

 今夜は十二月に入ったばかりにも(かか)わらず、真冬並みに冷え込んでいる。厚手のコートとマフラーに包まれているワタルでも、寒さが体の芯まで響く。

 特に今日のようなハプニングがあったあとでは、余計に夜風が身に応える。


 それでもワタルは冬が好きだ。

 暖房の効いた店内に入ったときに感じる、全身の緊張感がほぐれる安堵感。寒いからこそ、そのありがたさがわかる。

 白い息を吐いて歩く道のり、その温もりをずっと心に描いていた。



 そんなワタルにとって、ジャスティは料理と音楽で疲れをいやしてくれる空間だ。

 だがなぜだろう。今夜は少しようすが異なっている。


 と思った瞬間、カウンター席の隅からいつもとちがう張りつめた空気を感じ、ワタルは吸いつけられるように視線を移した。


「あれ?」


 思いもしなかった人物の後ろ姿がある。いつもならいるはずのない時間帯に、その人は消えてしまいそうな背中をむけて座っていた。

 それに気づいた途端、ワタルの心がざわつく。


 カウンター席でマスターと話していたのは、沙樹だった。大学には自宅から通っているので、今の時刻では帰宅しているのが普通だ。

 友達連れなら何度か見かけたが、ひとりでいるのを見るのは初めてのような気がする。

 何があったのだろうと不思議に感じつつ、


「こんな遅くにひとりでジャスティにいるなんて、沙樹ちゃんにしては珍しいね」


 と声をかけ、ワタルは沙樹の隣に座りオーダーをした。



 寒かっただろ、と言ってマスターが温かい緑茶を出してくれた。

 ワタルは熱々のマグカップを手にし、ふうっと息を吹きかけて一口飲む。胃の中から全身に心地よい温もりが広がった。


「こんばんは、ワタルさん。まさか会えるなんて思いませんでしたよ。なんだか素敵な予感がして、あたしとっても嬉しいです」

「おれに会えたくらいでそんなに喜んでくれるなら、いつでも会いに行くよ。沙樹ちゃんが望むなら、昼でも夜でもね」


 両手を合わせてうれしそうに目を細める沙樹に、ワタルはウインクしながら答えた。

 何気ない軽口のつもりだった。ふふっと笑って流してくれるかと思った。


 ところが沙樹は突然無言になり、目の前のタンブラーグラスを見つめる。

 何を考えているか読みとれない横顔に戸惑い、ワタルは慌てて言葉を継ぎ足した。


「あ、ごめん。沙樹ちゃんは放送研の先輩とつきあっているもんな。おれなんかがそんなことしたら彼氏にうらまれ……」



「さっき別れました」

「そっか。じゃあそんな心配はない……」



 とワタルは言いかけて言葉をとめた。

 沙樹のセリフがとっさに理解できず、手元の緑茶に視線を落とす。湯気の上がるマグカップとは対照的に、右隣に座る沙樹からは凍えそうな空気に包まれている。



「い、今なんて言ったんだい? ひょっとしておれの聞きまちがいかな」

 おずおずと問いかけるワタルに、沙樹はグラスを手にとってふりかえり、ケロッとした笑顔を浮かべて答えた。


「彼氏……、いえ、先輩と別れちゃいました」

 言葉の意味するものは重い。

 それなのに沙樹の口調は、語尾にハートがついているのではと思わせるほどにさわやかで明るかった。


 悲しんでいる子なら慰めることもできる。

 でも隣にいる女性は、自分の失恋を笑顔で告白した。こんなとき、人はどうやって接すればいいのだろう。


 困惑して固まってしまったワタルを横目でちらと見て、沙樹は残った琥珀(こはく)色の飲み物を一気に流し込んだ。

 

「別れたって、沙樹ちゃん?」


 今飲んだのは、どう考えても烏龍茶ではないだろう。

 もしかしてウィスキーの水割りか?


 ワタルに不安が押し寄せる。ちょうどそのタイミングでマスターが料理を持ってきた。

「おまたせ。今日は寄せ鍋定食だぞ。寒い日は鍋に限……」

「マスター、もしかして沙樹ちゃんはお酒を飲んでいる?」


 鍋敷きを置きながら話すマスターに、ワタルは言葉をさえぎって問いかける。

 マスターは不思議そうな面持ちで、


「飲んでいるよ。でも沙樹ちゃんは二十歳(はたち)過ぎているし、飲んだのも彼女向けに作った薄い水割り二杯だから、たいしたことないよ」

「そうそう。たいしたことありませんって」


 沙樹はにっこりと笑った。だがすでに目が()わっている。

 ワタルは沙樹が酒に弱いことを知っている。この妙なテンションはすでに酔っているからにちがいない。



「ワタルさんも一緒に飲みませんか。ひとり酒ってつまんないなって思っていたところなんです」

「せっかくだけど遠慮しとくよ。今晩中にレポートを仕上げなきゃならないんだ。飲んだら書けなくなるからね」


 明日は日曜だが、バンドの練習で昼前からスタジオに入ることになっている。

 バンドリーダーが二日酔いや徹夜明けのコンディションで、練習に(のぞ)むわけにはいかない。

 

「つきあい悪いんだ。そんなんじゃ、彼女にふられますよお」

「あのね……」


 偶然にも痛いところを突かれ、ワタルは思わずため息をついた。

 いつもならこんな毒舌を吐くような子ではない。


 やはり沙樹はいつもとちがう。ふられた話が本当なら、辛い気持ちを吐き出させて少しでも楽になってもらいたかった。

 だが今の沙樹はワタルの知る沙樹とちがいすぎて、自分が相手をする自信がない。


 こんな状態の沙樹なのに、マスターは仕事の(かたわ)らに聞き役を引き受けていたのだろう。残念ながらワタルは、マスターのような経験豊かな大人ではない。


 ワタルは緑茶を一口飲んで気を取り直し、遅めの夕飯を食べ始めた。

 温かい鍋料理で心も体もほっこりし、一日の疲れが消えていくようだ。


 バイトで遅くなる夜、ワタルはいつもジャスティで夕飯をとる。

 マスターはワタルのために必ず一食分を確保してくれた。


 栄養バランスを考えた日替わり定食は、疲れた体に優しく生き返るようだ。

 このあとの勉強や音楽に取り組む力もわいてくる。


 空腹が満たされたワタルはやっと気持ちに余裕ができ、それとなく横目で沙樹のようすを(うかが)ってみた。


 ときどきふうっと息を吐き、目をこすっている。笑顔の下に隠された真の姿が、わずかに出かかっている。

 今日ばかりはマスターに任せるつもりだったが、どうしても気になって仕方がない。ワタルは自分のお人好しさに苦笑し、箸をとめた。


「酒まではつきあえないけど、話なら聞くよ。それでいい?」


 沙樹はグラスをおいてワタルをふりかえった。

 視線が絡まったかと思うと、沙樹の唇がかすかにふるえる。

 大きな涙の粒がほおをすうと伝い、カウンターテーブルに小さな水たまりを作った。


 ケニー・ドリューのピアノが静かな店内を優しく彩る。

 ワタルの胸が揺れるのは、今日の出来事が原因か。それとも沙樹の涙のせいか。


「ありがとう、ワタルさん」

 消えそうな声でそう言うと、沙樹は今にも消えそうな柔らかい微笑みを浮かべる。


 そこにあるのはいつもの自然な表情だった。


お読みいただきありがとうございました。

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