〈 flor seca / フローセカ 〉
或る文献が云うには、『人は声から記憶を失くす動物である』らしい。初めは声。その次は顔、最後は匂い。
僕の声を好きだと君は言ってくれた。でもこの声が君に届かなくなったのならば、君は僕のことを全部忘れてしまうのかな。
対して僕は、君の声すら知らずに一体君の何を忘れるというのか。最初に忘れる声すら知らないなら、一体何から忘れればいいのだろう。
どうやって君を、僕は記憶から失くせば良いのだろうか。
ねぇ、教えてよ。
今日もまた君の記憶を引き摺って生きる。
君がくれた文字列の言葉だけが、いつまでも僕をきつく縛りつけて、絞めつけて解けない。
僕はただ、いつか君に本当の僕を知ってほしかった。
いつか君に、僕の本当の名前を呼んでほしかった。
今はただ、君にだけこの声が届けばいい。きっともう、それすら叶わないけれど。
部屋の隅の金盞花のドライフラワーが色褪せる。
君のくれた文字列の言葉も、いつかは色褪せてしまうのかな。
PCに動画投稿サイトの通知が届く。僕はそれに気が付いて、サイトの通知欄を開いた。
〈あなたの動画にコメントが届きました!〉
ついさっき来たばかりの通知をクリックしてコメントを確認する。
『かれんでゅら - 今回の歌みたもめっっっっっっちゃ最高でした! 特に二番のラップのところで急にキー下がるところなんてイケボすぎて……………………!』
やっぱり、かれんでゅらさんからだ。その名前を見て僕は自然と微笑む。僕の胸の奥が少しだけ温かくなったのを感じた。
キーボードを叩いて返信する。
『crinoid - いつも聴いてくれてありがとう。ラップの部分はちょっと狙って、低めの声で歌ってみたんだ。気に入ってくれたみたいでよかった』
crinoid。それがここでの僕の名前だ。この名前は化石のウミユリを意味する。曲名に「ウミユリ」が入っているとあるボーカロイド楽曲が大好きで、そこからつけた名前だ。
僕は仮名とアニメーションの体を使い、動画投稿サイトで主に「歌ってみた」系の動画を上げて活動している。
元々は声優を目指して買い揃えた簡易的な録音機材たちが、今ではとても役に立っている。声優の道を諦らめてからは就活に専念したが、尽く失敗して今はフリーター。それでもやっぱり声を使った活動がしたかった僕は、バイト生活の合間を縫って配信をしたり、声優の道を挫折してからただの置き物になっていた機材を使って歌を歌っている。所謂底辺Vtuberというやつだ。
活動を始めてからもうすぐで一年が経つ。チャンネル登録者数はようやく五百人と少し。その中でも活動を始めてすぐの頃から、僕の声をずっと聴いてくれている人がいる。
「かれんでゅら」というハンドルネームの人だ。
僕が動画を上げれば必ずコメントを書いてくれて、Twitterでもよく会話をする。かれんでゅらさんがたまにTwitterに上げる服の写真や会話から女性であることは知っているのだが、かれんでゅらさんとは文面でのやり取りしか無いためそれ以上のことは何も知らない。だから当然本当の名前も知らないし、顔も声も知らない。年齢だって知らない。何も知らない。
何も知らないけれど、僕はかれんでゅらさんに恋をしていた。
この気持ちを恋と呼ぶにはまだ未熟で、とても中途半端で。もしかしたら顔の見えない親しさを恋と勘違いしているだけなのかもしれない。そんな稚拙で、不完全な感情。だけれどきっと名前を付けて無理にでも形容するならば、この気持ちには恋という名前が最も近しい。そんな不格好な想い。
スマホがバイブレーションで震える。見るとTwitterの通知だった。
『かれんでゅらさんのツイート - またファンアート描いちゃった〜〜…………#ウミユリの花弁 #crinoid』
かれんでゅらさんはこうしてよく僕のファンアートとしてイラストを描いてくれる。ちなみにファンアートのタグを作ってくれたのもかれんでゅらさんだった。
Twitterの通知を開いて、かれんでゅらさんの描いてくれたイラストを見る。かれんでゅらさんは絵がとても上手だ。描いてくれるイラストの配色がとても綺麗なのだ。透き通るような色の塗り方をする、と言えば良いのだろうか。絵のことはあまり詳しくないけれど、描く絵にここまでの透明感を出せる人は中々いないんじゃないかなと思う。
そんなことを考えながら、僕はかれんでゅらさんのツイートのいいねボタンとリツイートボタンを押した。
『crinoid - かれんでゅらさん、いつもありがとう。今回のイラストもとても綺麗だね。かれんでゅらさんの絵、好きだな。とても励みになるよ。ありがとう』
スマホのキーボードに指を滑らしてリプライを打ち込む。
「これ、画像保存しても良いのかな……」
リプライの文末に『イラスト、保存しても良いかい?』と付け加えて送信した。すると一分もしないうちにかれんでゅらさんから返答が返ってくる。
『かれんでゅら - わぁぁぁぁぁ反応ありがとうございます! 勿論良いですよ!』
良かった。保存しても良いみたいだ。僕はかれんでゅらさんの描いてくれたイラストを保存する。
Twitterの僕の何気ない呟きにも毎回反応してくれて、そこで会話をしたりファンアートを作ってくれたり。初めはそれがだた嬉しかった。僕にも好きと言ってくれるファンが出来たのが嬉しかった。でも、気が付けば僕はかれんでゅらさんを好きになっていた。ネット上で文字のやりとりを繰り返すだけの、ただそれだけの顔も声も知らない人。そんな人を好きになるなんて馬鹿げていると自分でも思っている。それでもきっと、僕はこの人のことが好きなんだ。
バイト帰りの電車に揺られる。僅かに僕を包む眠気を誤魔化そうと、僕はスマホをポケットから取り出した。
「二十三時……はぁ……」
スマホの画面を点けたときに目に飛び込んでくる時刻表示が僕の気を滅入らせる。スマホのロックを解除して、僕はTwitterを開いた。
『次はーー八王子ーー八王子ーー……………』
次に到着する駅を知らせる車内アナウンスを聞き流しながら、僕はTwitterのタイムラインをスクロールする。ふと、かれんでゅらさんのツイートが目に止まった。
『かれんでゅら - やばい……夢にcrinoidさん出てきてびっくりして起きてしまった……限界オタク過ぎるだろ…………』
僕が、かれんでゅらさんの夢に出てきた?
「……ふふ」
何だかおかしくて、笑みが溢れた。不思議とバイトの疲れが少しだけ癒やされた気がする。何かリプライ送ろうかな。
『crinoid - 夢でも君と会えるなんて、嬉しいな』
そう送信してから思う。……本当の僕は、こんなこと言うような人間じゃないんだけれどなぁ。
周りから声が良いと言われて、それで調子に乗って軽い気持ちで声優を目指して、現実を知って諦めた。いざ専門学校に入ってみれば、声がカッコいい奴なんてクラスに山ほどいて、芝居が下手な奴なんて誰もいなかった。入学してすぐに「僕には向いていない」と分かった。
それでもどうしても声を使った活動がしたくて、バイト生活の合間でVtuberを始めて。他の人より少し声が良いだけの陰キャだから、キャラ作りのために別に好きでもない流行り物の音楽や食べ物を好きと言って、正直自分には合わないなと感じるイケメンキャラを演じて。そうしていくうちに顔も声も、何処の誰かも知らないリスナーに恋して。
……何やってんだろうな、僕。
『ーー西八王子ーー西八王子ーー…………』
「あっ、やべっ」
最寄り駅に着いたのに気が付いて、慌てて電車を降りる。別に扉が閉まりかけていたわけでも無いのに走ったせいで転びかけた。……本当に何やってるんだ僕は。
ため息をついて下を向き、長い前髪で目を隠して歩き改札を出る。こんなんだから視力は落ちる一方だし、猫背も治らないんだろうな。
「……さむ」
もう十一月だもんな。吐く息が白い。何か温かい物が食べたい。
「肉まん買って帰ろ……」
駅の目の前のコンビニに入ると、夜勤の店員の「らしゃっせー」というやる気の無い声が聞こえた。
僕は別に今流行りのスイーツとか好きじゃない。コンビニの肉まんとかレジ横のチキンとかが好き。でもcrinoidとしての僕は「流行りのスイーツとスタバが好き」だと言う。
僕は別に流行りの歌手とかよく知らない。最近のより昔のボカロのが好き。でもcrinoidは「最近のボカロとかK-POPとか良いよね」なんて言う。
全部嘘だ。だってその方がウケが良いから。
「百三十円でーす」
僕は代金を払って熱々の肉まんを受け取った。
「あざしたー」
やる気の無さそうな店員に背を向けてコンビニを出る。
かれんでゅらさんには、いつかcrinoidじゃなくて、本当の僕のことを全部知ってほしいな。
そんなことをぼんやり思いつつ、僕は肉まんを食べた。
「ぅあつっ……」
お腹が空いていたのもあって一気にかぶりついたら、思いのほか熱かった。口の中がちょっとヒリヒリする。多分これ口の中火傷したな。
はふはふと息をして少しずつ冷まして、何とか少し大きめの一口を飲み込む。吐く息がぼんやりと白い。口の中だけが温かくて、それがより一層鼻先の冷たさを感じさせた。
肉まんを食べ終えて包み紙をくしゃくしゃに丸めて捨てたとき、スマホに通知が届く。スマホを見ると、かれんでゅらさんからのリプライが来ていた。僕はかじかむ手でTwitterを開く。
『かれんでゅら - 私もめっちゃ嬉しかったです………………! オタク、運命感じちゃいます…………』
……運命…………ふふ、運命か。面白い人だなと思った。
かじかむ手指で『crinoid - もしかしたら、本当に運命かもね』なんて気取ったリプライを返してみる。するとかれんでゅらさんからすぐに返信が返ってきた。
『かれんでゅら - もう! そういうことすぐ言うからガチ恋勢が増えるんですよ……!』
ガチ恋勢……あぁ、そういえば前に一度だけかれんでゅらさんから「ガチ恋です!」みたく言われたことがあったっけ。まぁ、顔の見えないSNS上の言葉なんてどこまでが本当かは分からないけれど、あれはとても嬉しかったな。
もし本当に、かれんでゅらさんの運命の人が僕だったら良いのにな。そんなことを考えながらスマホを上着のポケットにしまって、とぼとぼと歩き出す。
「……さみぃ」
鼻から入ってくる空気が冷たすぎて、ちょっとだけ痛かった。
ここ最近、かれんでゅらさんのTwitterへの浮上が少ないように感じる。かれんでゅらさん自身のツイートもだけれど、いつもは僕が何かしらツイートしたらすぐ来たいいねやリプライも全然来なかったりする。……リアルの生活が忙しいのかな。ちょっとだけ寂しいけれど、あの人の私生活が充実しているのだとしたら、それはそれで良いかなと思った。
「よし……こんな感じで、良い……かな」
僕はPCのエンターキーを叩く。しばらくして〈動画の投稿が完了しました〉と画面に表示された。よし。さて次は……
「えーと……『と、う、こ、う、し、ま、し、た』っと……」
Twitterで新作の歌ってみた動画を投稿したことを報告する。一仕事終えたし、ご飯でも食べようかな。 くたびれたゲーミングチェアから立ち上がり、僕はキッチンへ向かった。冷蔵庫を開けて中身を確認する。入っている物は……うわ。昨日野菜炒めを作ったときに使わなかった残りの野菜が少しと、豆腐とソーセージ。あとは粉末タイプのコンソメスープの素。それだけ。
「また買い物行かないとな……」
そうため息混じりに溢して、野菜やら豆腐やらを全部取り出した。小さめの手鍋に水道水を入れて火にかける。野菜と豆腐を一口大にカットして、ソーセージと一緒に手鍋に入れて一緒に茹でた。あとは良い感じのタイミングでコンソメスープの素を溶かして、適当に塩胡椒を振りかけて。
そうして出来たものは、野菜と豆腐とソーセージの入ったコンソメスープだった。そういえばこのレシピ、かれんでゅらさんが教えてくれたものだったな。
スープを机に運んで啜る。……うん。薄味だけれど充分美味しい。作るのも楽だし、もうずっとこれでも良いな。
ソーセージを熱い熱いと言いながら食べていると、PCに通知が来た。
〈あなたの動画にコメントが届きました!〉
通知をクリックして開くと、かれんでゅらさんからだった。良かった。聴いてくれたんだ。
『かれんでゅら - 本当に歌声大好きです。永遠に推します。』
永遠に、か。嬉しいな。口元が少しだけ緩む。
「ふふ……あっつ…!」
豆腐が熱すぎた……ふー、ふー、と息を吹きかけて冷まして食べる。……熱かった……何だか毎回こんなことをしている気がする。
「あ、そうだ」
ふと思い付きでスマホを開き、かれんでゅらさんにDMを送る。
『crinoid - ご機嫌よう、かれんでゅらさん。唐突でごめんね。いつも聴いて、推してくれてありがとう。その感謝を何か形にしてお返しがしたくて、ふとした思い付きだからいつになるかは分からないのだけれど、いつか君の好きな歌を歌いたいなと思ったんだ。何かリクエストはあるかい?』
……思い付きで送ったは良いけれど、迷惑じゃないかなという不安が込み上げてきた。けれどそんな心配を他所に、すぐにかれんでゅらさんからの返信が来る。
『かれんでゅら - そんな、お返しだなんて…………crinoidさんが今日も元気でいてくれて、定期的にお歌を上げてくれるだけで充分すぎますって…………! あなたの歌声が、私の日々の支えなんです。』
日々の支え、か。そんな風に思っていてくれたんだ。何て返そうかなと考えていると、続けてメッセージが送られてくる。
『かれんでゅら - でも、本当にリクエストしていいなら、この歌とか歌って欲しいです』
かれんでゅらさんから送られてきたメッセージには、動画投稿サイトのURLが添付されていた。食べ終えて空になった手鍋を横にどけてスマホにヘッドホンを繋ぐ。URLを開いて聴いてみると、とあるボカロPが数年前に公開した「僕の歌で君を救いたい」というテーマの楽曲だった。この歌は僕も好きで一時期聴きまくっていたなぁ……カラオケで歌ったときに、サビから微妙にキーが上がる所と言葉のリズムが難しかった記憶がある。
『crinoid - リクエストありがとう。僕もこの曲は好きでよく聴いたよ。練習して、ちゃんと仕上げて動画に出来るように頑張るね』
『かれんでゅら - 絶対に聴きます。約束です。待ってます。』
……よし、そうと決まれば早速練習してみるか。こちらからリクエストを尋ねたのに、あまり待たせるのも良くないだろうから。
そう思い、僕はPCのキーボードを叩いてカラオケ音源を探した。
納得の行くまで撮り直していたら、思いのほか日数がかかってしまった。が、これで完璧じゃないだろうか。
「投稿っ……と」
PCのエンターキーを叩く。〈動画の投稿が完了しました〉が表示されるや否や、すぐにTwitterでも告知する。
『crinoid - おまたせ。』
僕はURLを添付してかれんでゅらさんにDMを送った。するとすぐにかれんでゅらさんから『かれんでゅら - わぁ……ありがとうございます…………! 聴いてきます!』と返ってくる。
四分くらいして、かれんでゅらさんからDMが届く。僕はそれを開いて確認した。
『かれんでゅら - ありがとうございました……! 最高です。あなたの歌声に確かに救われていました。本当に、ありがとうございました。大好きです。ずっとずっと、大好きです。crinoidさん。』
こんなに真っ直ぐ言われると、ちょっと照れるな。……いや、嬉しいな。好きな人から大好きって言われるとこんなに嬉しいんだな。
『crinoid - お気に召したようで何よりだよ。僕もかれんでゅらさんにはいつも助けられているよ。推してくれてありがとう。好きだよ。ありがとうね。』
勢いで送信してしまったが、何で僕は好きだよなんて言ってしまっているんだ? 流石に不味かったのでは無いだろうか。そんなことを考えていると、すぐにかれんでゅらさんから返信が返ってくる。
『かれんでゅら - 初めてcrinoidさんに好きって言われた気がします。そんなことばかり言ってると、ガチ恋勢ばかりになっちゃいますよ!』
そういえば確かに、こうしてちゃんと好きだと言うのは始めてだった気がする。ガチ恋勢は、君だけで良いんだけれどな。でもきっと君が好きなのはcrinoidの僕であって、僕自身じゃ無いんだろうな。
『crinoid - これからも、僕を推してくれたら嬉しいな』
いつか、crinoidの僕じゃなくて。本当の僕をかれんでゅらさんには知ってほしいな。いつかcrinoidじゃなくて、本当の僕の名前を呼んでほしいな。
そんなことを考えてしまう自分の脳が、何だか嫌になった。
そんなの、叶うわけ無いのに。
「 僕の歌で君を救いたい 」
僕がそう歌ってから、もう他に三本ほど歌ってみたの動画を上げているが、三本前の動画からかれんでゅらさんからのコメントが来なくなった。
何度動画を上げても、かれんでゅらさんからのコメントが無い。Twitterのリプライも、いいねも、DMも無い。
僕の世界から、かれんでゅらさんがいなくなった。
最初は、最近Twitterもあまり更新されないし、私生活が忙しいのかなと思っていたけれど、次第にもしかしたらもう僕のことを推してないんじゃないかな。興味を失くされたのかな。もしかしたら、あの時の「好きだよ」という発言が良くなかったのかな。もしかしたら、もしかしたらーーなんて思えてきて、不安になってかれんでゅらさんのTwitterを見た。
ずっと推すって言ってくれたのに。僕はその言葉を信じていた。もし興味を失くしたなら、今ハマっているものを知って、それに近いことをしたらきっとまたーー
『かれんでゅらの姉です。十一月十五日、妹のかれんでゅらが自室で自殺しているのを発見しました。日頃からTwitter上でかれんでゅらと仲良くしてくださった方々、ありがとうございました。妹はよく、Twitterで仲が良い方々とのやりとりや推している歌手の方のことを、私に楽しそうに話してくれていました。妹は高校でいじめにあっていたようでーーー』
それは、三週間前の投稿だった。記されている日付は、僕がかれんでゅらさんのリクエストの曲を公開した二日後。
あの人は、かれんでゅらさんはもういない。
それを見たとき、不思議と涙は出なかった。
「今日の配信はここまで。おやすみ〜」
マイクを切って今日の配信を終える。かれんでゅらさんがいなくなってから約半年。あの後に投稿した歌ってみたがバズって、今では前より少しだけ有名になって歌の生配信なんかもたまにしている。
それくらいなもので、僕の生活自体は大した変わりは無かった。
ふと今日のコメントをスクロールして見返すが、かれんでゅらさんはいない。当たり前だ。あの人はもう画面上どころか、この世にいないのだから。それでも、どこか僕は今でもあのひとのことを忘れられずにいる。
『永遠に推します!』というあの言葉を信じ続けている自分が馬鹿馬鹿しく思えた。
人は声から記憶を失くす動物である。といつだったか本で読んだことがある。あなたの声すら知らずに、僕は果たしてあなたの何を忘れられるのか。死んだあなたは、今でも僕の声を、僕を覚えているだろうか。 あなたにもう声を届けられなくなった。僕の声を好きだと言ってくれたあなたなのに、君は全部忘れてしまうのかな。
あなたに僕がキャラ作りのために偽っていたことを、全部曝け出したかった。好きな食べ物も音楽も。嫌いなことも年齢も。設定ばかりだったから。そんなことを言っても、あなたはまだ僕の声を好きと言ってくれたのかな。
声も顔も知らないあなたに、いつか僕の本当の名前を呼んでほしかった。
crinoidじゃない「僕」の目を見て、「僕」の名前を呼んでほしかった。
そんなことを思いながら、ヘッドホンのコードをきつめに縛って机の上にそっと置く。
いつ買ったのかも忘れた部屋の隅に置いてある金盞花のドライフラワーが、また色褪せた。
それを見て、僕は息を吸って。
また今日も歌う。この声が、あなたに聴こえれば良いのに。
《終》