火鉢の前で
梅雨前でも、10月後半から11月前半を想像してお読みくださいませ。
おばあちゃんが半纏を着て、火鉢の前で背を丸めている。
もうこんな季節になったのか。
外を見ると、山茶花が咲いている。
「年寄りになると、寒うてねぇ」
耳が遠くても私の気配を感じたのだろう。おばあちゃんがおもむろにそんなことを言った。
(おばあちゃんの声、久しぶりに聞いたなぁ)
成人して有名レストランにシェフ見習いとして入社してから、まともに話していなかった。
仕事が終わるのはおばあちゃんが寝た後、休日は友人たちを遊び歩き、或いは自室にこもって惰眠を貪っていたから。
(小さい頃、よく火鉢で一緒にあたたまったっけ)
私は火鉢を挟んで、おばあちゃんの向かい側に座った。
おばあちゃんは黙って、火箸で炭を足した。
チロチロチロリ、パチパチパチリ。炭が赤さを増す。
「なにがあったか言うてみい。おばあちゃん、口はかたいよ」
(おばあちゃん、なんで分かるの?)
でも、おばあちゃんは昔から鋭かった。
私がふられるたびに何も言わないのに、働いている母にかわって、大好物のチキン南蛮を作ってくれたものだ。
おばあちゃんの優しい目に、私も自分の心を絞り出した。
「息が吸えないの。酸欠の金魚みたいにうまく呼吸ができない」
いっぱいいっぱいだった。
私はこのコロナ不況のあおりを受けて、リストラ対象となっていて……。
無論、レストランの先輩シェフや同期のシェフ達の目は冷たく、挨拶しても無視、あからさまに悪口を言われる日々が続いていた。
出来の悪い私が、努力して努力してやっと入社できたレストラン。
辞めたくなかった。辞めたら、私の存在を全否定される気がして。
友人たちと会っていても、自分だけ違うと感じていた。
だから、相談もしていない。
だって友人たちは、悩みなんてないように底抜けに明るい。
仕事もそれなりの実績を積んでいる上に彼氏もいて、職場でもいじめに遭っていない友人たちの笑顔に何度打ちのめされたか。
自分の心の狭さが嫌になるけれど、これが今の自分なのだと認めざるをえなかったのも、とても苦しい。
「なぁ、綾子。立ち向かうか逃げるか、決める時のコツ、分かるか?」
私は前のめりになった。
「全然分からない。そんなのがあるのなら教えて」
おばあちゃんは、秘密を打ち明けるがごとく声を潜めて教えてくれた。
「それはな、自分の分、器に収まっているかどうかだ」
「どういうことなの?」
「自分の分、器の中、つまり自分ができることの中に今やっていることがすっぽり収まっとったら、立ち向かえ。自分が到底できんことで苦しんでおるなら、逃げろ」
私は忙しく頭を働かせた。
「仕事はできないこともないけど、人より秀でているとかはないな。この場合、どうなるの?」
「それなら、第2の矢だね」
「なにそれ、政治家みたいなこと言っているね」
「2番目はな、好きかどうかだ」
「好きかどうかか……」
(正直、今の状況では心の底から好きとは言えないな。遊んで暮らせればいいけれど、人生そんな簡単なものじゃない。死ぬほど嫌でないなら仕事はしないといけない)
私のごちゃごちゃしていた頭がクリアになってきた。
「嫌いではないな……。そうだね……うん、嫌いじゃない。むしろ、仕事に集中できていた時はこの世界に入った時と同じくらい好きだったわ」
「なら、最後の矢だ。自分がそこで必要とされているかどうかだ。必要とされていなかったら、必要とされるスキルを磨けそうか、それを考えてみな」
「必要とされて……ないな……むしろ、邪魔者扱いだわ」
「綾子。それを覆せそうか」
「覆す……どうだろ……しんどいし、時間が足りないかもしれない」
「それでも、好きなんだね?」
「うん…。複雑な思いはあるけれど好き…だと思う」
「綾子、気持ちは分かるが大事なことだ。自分ときちんと向き合いなさい」
思わず背筋を正す。
「うん。好きだわ」
「ほんなら最後の審判まで全力を尽くせ。たとえ覆せんでも、それはおまえの力となって次へつながる」
「私より優秀な人いっぱいいるのよ?」
「それでも好きなのだろう?」
「うん」
「なら、綾子らしくやればいい。綾子の持ち味を何でもいいから生かせばいい」
「私の持ち味、そんなのない。なくしてしまった」
「一つ一つ小さい頃から褒められたことを考えたらいいよ。それが綾子らしさだから」
「だから私なんかより優秀な人、いっぱいいるの!私が誇らしく思ってたことなんて、全然大したことないの!」
私は泣いた。
おばあちゃんは、初めて大きな声を出した。
「綾子はこの世で一人きりしかおらんのやで!綾子らしさがないわけない!いつも笑顔を人に向けるとか努力し続けられるとか掃除が上手いとか、いっぱいいっぱいある!」
私も泣きながら大きな声を出した。
「そんなもの、仕事には何の役にも立たなかった!大事なのは、才能なの!」
パチパチパチッ。火鉢の炭が鳴いた。
「ほんとうにそうか?」
おばあちゃんは、また静かな声になった。
「綾子の笑顔を素敵だと思う人は一人もいなかったか?」
(恋愛ならまだしも仕事でなんているわけないじゃない……)
でも、はっとした。
「唯一声をかけてくれる経理のおばちゃんが、あなたの笑顔が好きだって言ってた」
「ほうら、ごらん」
「そういえば、意地悪されてもオーナーシェフのパーソナルテーブルの側までぴかぴかに掃除したら喜ばれて、それから少し風当たりが弱くなった」
「そうか、そうか」
その頃にはすべてがクリアになって、自分のやるべきことが見えていた。
そして、やるべきことが分かると驚くほど心は軽くなった。
「今の今まで努力してたきたのだから、私最後の審判まで努力してみるわ」
「よく言った!それでこそ私の孫だ」
「そうと決まれば、私自分の部屋で勉強してくる!まだまだできること、たくさんあるから!」
おばあちゃんは、にこにこ目がなくなるくらい笑っている。
「おばあちゃん」
「ん?」
「ありがとう。また、進捗状況、報告するわ」
「うん」
おばあちゃんは、しわくちゃになるほどの笑顔になった。
火鉢の炭がチロチロチロリ、パチパチパチリ。
火鉢に手をかざし、背を丸めている小さなおばあちゃんが、とてつもなく大きく見えた午後。
外は山茶花の蜜を求めて、蜂が来ていた。
おわり
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
誤字報告をしてくださった方、ありがとうございました!