猫の日SS
時間枠は精霊からの祝福以降繋がる想い以前です。
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「あ、猫だ」
診療時間が終了して、命が看板を仕舞いに外に出ると、ベンチでアメジストの様な目をした黒猫が寛いでいた。
「可愛いなあ、帰る前にちょっと遊んでもらおう」
急ぎ命は診療所に入り、帰り支度をすると、再び猫の元へ戻って、ベンチにそっと座り、恐る恐る手を伸ばして撫でた。すると、黒猫は上目遣いでこちらを見つめてから膝に乗ってきた。
「うわー、人懐っこい。可愛い!」
大体の野良猫は目が合うと逃げられるのに、この黒猫は随分と人慣れしているので、首輪をしてないが飼い猫なのかもしれない。命はしばし黒猫とじゃれあい日頃の疲れを癒していた。
「さて、そろそろ帰らなきゃ…じゃあね猫ちゃん」
早く帰らないと夫が心配して迎えに来てしまうからと命は黒猫を抱き上げ、膝から下ろして、手を振り家路に着いた。
「にゃー」
家まであと半分という所で猫の鳴き声で振り返ると、先程の黒猫が付いて来ていた。なんといじらしい黒猫に命は庇護欲が唆られて、思わず抱き上げて、そのまま帰宅した。
「ただいまー」
「おかえりちーちゃん…って、何それ?」
いそいそと出迎えて、おかえりのキスを交わしてから、トキワは妻が抱えている黒猫に注目した。
「黒猫ちゃん、着いてきちゃった。可愛いでしょ?」
「全然。ちーちゃんの方が可愛い」
「はいはいありがとう。人懐っこいから迷い猫かも。明日役場に確認するから今日だけうちに置いてもいい?」
「えー、そんな汚い猫今すぐ捨ててきなよ」
動物愛護精神の欠片もないトキワは命の胸で寛いでいる黒猫に冷たい視線を向けた。
「汚いなら洗ってくる」
「もう、今日だけだよ」
我ながら妻に甘いと自嘲しつつ、トキワは夕飯作りを再開する事にした。
カバンをソファに置いて、命は黒猫と共に浴室に向かった。服を濡らさない為に下着姿になり、タライにお湯を溜めてから、濡れた手で黒猫に触れたが、嫌がる素振りがなかったので、タライに入れて、上からお湯を掛け濡らしてから、一度タライから出して、シャンプーを揉みこんで洗った。
「お風呂平気なんてお利口さんだねー」
猫は水嫌いが多いと言われているが、慣れた様子なので、やはり飼い猫なのかもしれない。明日桜に事情を説明して、朝一番に役場に連れて行こうと考えながら命は黒猫の首周りを掻いてあげた。
「さてと、泡を落とそうね…えっ?」
命がタライのお湯を掛けて、泡を流そうとしたその時、突然黒猫が光に包まれた。
眩しさに目を手で覆い、光が止んでから命が黒猫の姿を確認しようとしたが、そこには黒猫の代わりに濡れた黒い髪の毛にアメジストの様な瞳を持つ全裸の見覚えのある青年…勇者エアハルトがいた為、命は大きな悲鳴を上げた。
「いやーっ!変態‼︎」
「ちょっ…待ってこれにはワケが」
聞く耳を持たず命はタライを投げつけて、エアハルトの顔にヒットさせた。完全に我を失った命は浴室にある物を手にして、次から次へと投げていった。
「どうしたのちーちゃん!」
妻の悲鳴に駆けつけたトキワは浴室の惨状と、エアハルトの姿に目を見張った。
「トキワ!あの猫、勇者だったの!」
「は⁉︎とりあえず勇者死ね!ちーちゃんの下着姿見た上にイチャイチャしやがって許さない!」
「落ち着いてトキワきゅん!ここで破壊活動をしたらスイートホームが壊れちゃうよ⁉︎」
「それも一理あるか。じゃあ一旦表に出ろ」
「そんな全裸で外に出たら変態そのものじゃないか…ていうかなんか焦げ臭いよ!」
「あ、フライパンに火をつけたままだった」
可愛い妻の危機にトキワはいの一番に駆けつけたので、料理中のフライパンを放置していたのだ。夕飯が焦げた臭いで冷静になったトキワと命は火を止めに台所に戻った。
「で、なんで猫の姿なんかになってたの?」
「村の近くに寄ったからトキワ君たちの顔を見るついでに新しい変身魔術を試して脅かそうとしたら、元に戻れなくなって…どうやら時間経過で戻るみたいだね」
戻ってきたトキワに浴室でずぶ濡れの全裸状態で正座をさせられているエアハルトは事情を説明した。
「それよりトキワ君の服を貸してくれない?流石にこれじゃ風邪をひいちゃうし、勇者の聖剣が丸見えだよ?」
「聖剣?爪楊枝かと思った。そもそも変態に貸す服は無い。どうしても欲しいなら、これを食べたら売ってやる」
先程焦がした料理をフライパンごとエアハルトの前に置いて、トキワは蔑んだ目で見下ろした。
「御無体な…命たんも何とか言って!」
あんなに可愛らしい猫の正体が変態勇者で、更に下着姿を見られた事がショックだった命は無言で首を振ると、トキワの背中に隠れた。
もはや味方はいない様だと悟ったエアハルトは腹を決めて、目の前の焦げた魚料理らしき物を口にしながらも、猫の姿の時に受けた命との甘いひと時が忘れられず、熱りが冷めたらまた猫になろうとだらしなく鼻の下を伸ばすのだった。