3.取り調べ
「健ちゃんはほんと、ジュースが好きなのね」
よく晴れた遊園地。古いメリーゴーランド脇のベンチで、オレンジジュースの瓶を両手で持ってごくごくと飲む男の子を、母親は幸せそうに見ていた。
「おれ絶対ジュース屋さんになるんだ」
彼はげっぷしながらしゃべる。
母親は「ふふふ、ママ、応援するね」と彼の頭をなでた。
春の風が新緑の梢を揺らした。
可愛らしい女の子とその両親は、動物園の屋外テーブルにお弁当を広げていた。
「美代ね、パパのジュース、大好き」
女の子はペットボトルのスポーツドリンクを飲んでいた。
「どうしてだい?」父親は目尻を下げて聞く。
「えー、だってね、とっても美味しいし、どこでも売ってるんだもん」
「どのくらい好きなのかな?」彼は顔を近づけて聞いた。
「うーん、えーと、えーとね、パンダの次くらい」
元気に答えると、父親は「そうか……」と苦々しい表情で遠くを見た。
夜の帳がおりたころ、猫屋敷は、目白駅から少し離れたビル街にひっそりと佇む、小さなマジックショップの前に車を停めた。
大きなガラスのウインドウには「ピーク・ブックス」と書かれてある。すでに営業を終えたようだが、店の明かりはついていた。
カランカランとドアベルを鳴らして中に入ると、一人の老人がカウンターの上でコーヒーを淹れていた。カップは二つある。店の中は、色とりどりの手品道具や洋書であふれていたが、整然と陳列してあるので、まったく狭苦しく感じなかった。
ダークスーツに身を包んだ老人は「いらっしゃいませ」と猫屋敷を見て微笑んだ。髪も口髭も豊かなロマンスグレー。それはまるで高貴な喫茶店のマスターのようだった。
「おじゃまします。あの、氷室さんって方は」
「私でございます。猫屋敷様ですね。お話は伺っております。ちょうどコーヒーが入った処でございます。宜しければ飲みながら、事件について詳しくお聞きしたいと存じますが」
老人は彼にスツールをすすめて、その前のテーブルにカップを置いた。
「恐縮っす」
揺れる琥珀色の液面から白い湯気がかすかに立ち上る。
猫屋敷は甘いエキゾチックな香りに癒されると、温めのコーヒーを熱そうにすすりながら、これまでの事をかいつまんで話した。
結局、氷室は猫屋敷の説明がよく分からなかったのか、彼と一緒に捜査本部に立ち寄って、新たに明らかになった捜査情報を入手してから、佐藤健二の取り調べに向かった。
佐藤には、特に金銭のトラブルはなく、怪しい金の動きはない。借金は住宅ローンだけである。宗教にはまっているわけでもなく、ギャンブルなどもしない。みだらな女性関係もない。平凡で真面目な男だった。
二か月前に妻と子と交通事故で亡くしている。
この半年、頻繁に農水省や厚労省に出向いていたという。佐藤は品質管理システムの開発にも携わっており、青酸カリは、下請けの設備機器メーカーから手に入れたらしい。爆発物の入手については、まったく情報が無かった。
警視庁では休みなく取り調べが行われていた。
「目的は!」「爆弾はどこだ!」と中から怒鳴る声が聞こえる。
そこへ軽薄そうな若い刑事と、気品あふれる老人という奇妙なコンビが現れた。取り調べを行っていた刑事たちは怪しんだが、本部に確認すると、間違いなく許可は下りている。彼らはしぶしぶ交代し、隣のマジックミラー越しの部屋に移った。
「あの爺さんは誰だ?」
特殊犯捜査係の刑事たちは訝しむ。
「只ものじゃない雰囲気だったが」
「俺も知らねえな」と初老のベテラン刑事は眉をひそめた。
猫屋敷は初めての取り調べにわくわくしていた。
市民からの相談を受けることは毎日だったが、事件らしい事件に出会ったことは数少ない。
どうしたらいいのか分からないので、取り調べは氷室に任せ、自分は隅の折りたたみ椅子に腰かけて見守ることにした。
氷室は几帳面に「失礼いたします」と言ってから、アルミ製のデスクをはさんで、佐藤健二の前に座った。
「はじめまして、私、氷室裕天と申します」
氷室は声をかけたが、佐藤はちらりと見ただけで、再び、腿の間で組んだ手に視線を戻した。
「あれから何もお話しにならなかったようですね」
しばらく沈黙が流れたあと、氷室は「結構でございますよ。何も話さなくても。お疲れになったことでしょう。しばらく休憩いたしましょうか」と言った。
それをミラーガラスの向こうで聞いていた刑事たちは、「なにい!」と息巻いた。
その後、一時間たっても、ただ座っているだけで何もしない老人に、刑事たちは痺れを切らし、
「あいつら捜査を妨害する気か」
「あの爺さん、実はボケてるんじゃないか」
と取り調べ室に行って彼らを追い出そうとしたが、その場にいた係長に、「彼らの邪魔をしてはならない」と止められた。
「しかし、一刻も早く爆弾の場所を吐かせないと!」
と抗議したが、係長に「本部長命令だ」と言われ、刑事たちは歯噛みした。
零時をまわり、刑事の一人が「もう我慢ならん」と部屋を飛び出ようとしたとき、氷室はスマートホンを胸ポケットにしまいながら、口を開いた。
「こうして、ただ時間が経つのを待つ、というのも、お辛いものでございますね」
猫屋敷はうつらうつら船をこぎ始めていたが目を覚ました。答えない佐藤に、氷室は続けた。
「只今連絡がありまして、一つ目のボトルが見つかようでございます」
氷室は佐藤の表情を確かめると、にっこりと微笑んだ。
「やはり、そうでございましたか。佐藤様」
猫屋敷は寝ぼけた顔つきで二人を見ていた。
工場からは爆弾は出てこなかった。また毒入りボトルは、日が昇り始めたころには三つとも全て発見された。ひとつ発見するごとに、捜査員たちは歓声をあげて喜び合った。
ペットボトルは早乙女の手によって捜査本部長の元へと運ばれた。
谷垣刑事部長はビニールのチャック袋に入れられた三本のボトルを見て、「間違いないかね」と聞いた。
「はい。青酸カリが入っていることは化学検査で確認済です。あとはパスコードを一字も間違うことなく入力するだけです。どうぞ、お願いします」
そう言って、早乙女は本部に設置されたノートパソコンに部長を促した。
彼は、しかめっ面で、眼鏡を鼻の頭の上で前後に動かして、ペットボトルに貼られている小さなシールに記載されているコードを読もうとしたが、「小さくて読めん」と言って、副本部長に「代わりに頼む」と言った。
府下署署長はびっくりした顔で手を振り「わ、わたしも、ちょ、ちょっと目が」と言ってパソコンから離れ、捜査主任官を促した。
捜査主任官は「どうでしょう。皆で一文字ずつ入力するのは」と言ったが、賛同するものは誰もいなかった。