2.工場
「馬鹿を言うな! 総動員の人海戦術で百日以上かかると言っているのが分からんのか! 年末ジャンボに当選するような確率だぞ! ほらを吹くのも大概にしろ! 小娘が!」
喚く署長を、谷垣は座らせると、早乙女に「理由を説明したまえ」と言った。
「はい」と彼女は続ける。
「報告を聞く限り、現在行われているのは青酸カリに含まれるシアン化物の検出です。これは容器を開けて、液体を分析機器にかけるか、化学反応を見て確認するというものです」
署長が怒鳴る。
「そんなことは分かってるんだよ! 当たり前じゃないか! 毒入りを見つけるのが不可能だから、自白させる他ないと言ってるだろう!」
「いいえ、見つけるのは可能です。シアン化物の同定をしなければ良いのです」
早乙女が言うと、署長は「はあっ?」と呆れた顔をし、本部長は興味深そうに眉を動かした。
府下工場の稼働は完全にストップしていた。工場員は臨時休暇をもらって帰宅したが、幹部たちは刑事から話を聞かれていた。
隣接する広大な倉庫では、山積みの段ボールの中で、何十人もの捜査員たちが、防護服とゴム手袋、ガスマスクをつけて、慎重に検査していた。いくつもの折りたたみ机の上には、何台もの分析機器、無数の蒸留器やビーカー、電熱器などがある。
爆発物が仕掛けられているかもしれないので、平行してその捜索も行われていた。
「それにしても大した設備ですね」
事務所の中、長身で鋭い目つきの剣崎刑事は工場長に言った。
「ええ、自慢の工場です」小太りの工場長は不安げな面持ちだったが、すこし微笑んだ。
「五百ミリリットルと、一.五リットル合わせて毎分千六百本製造できます。自慢は、最新式の光学検査システムで、一分間あたり最大一万本を自動で検査し、異物の混入などを発見することができます」
「それはスゴイですね」
剣崎は「ところで」と被疑者の佐藤について尋ねた。
「技術主任ではありませんよ」そう言ったのは管理部長だった。
「と言うと?」
「もうひと月、いやふた月前でしょうか、彼は平社員に降格しました」
「それはなぜです?」
「それは、その、なんというか、職場での勤務態度が良くなかったので……」
彼は言葉を濁した。
「昔から態度が悪かったのですか?」
「いえ、そういう訳では……」
「具体的には?」
剣崎は警察手帳の向こうから睨む。
「ええと、その、指示に従わないと言うか」
「指示とは」
「製造工程に関することです」工場長が口をはさむ。
剣崎はメモをとると二人に言った。
「つまり、こういう事ですね。二十年以上まじめに働き、技術主任となった人間が、製造工程に不満をいだき、降格されるほど、急に態度が悪くなった。そうですね」
「ええ……、まあ」
工場長や部長たちの答えは歯切れ悪かった。
早乙女が工場に到着すると、剣崎は聴取内容を報告した。
「彼らはいつ帰れるのか聞いてますが」
「自宅を捜査中よ。家から爆弾が発見されなかった人から順に帰していいわ」
「分かりました。それから、商品を全部開封する気か、とクレームがありますが」
「そのことなら、これ以上開けるつもりはないから安心して、と伝えてくれるかしら」
それを聞いて、一緒にいた猫屋敷は首をかしげた。
剣崎が行こうとするとき、早乙女は「工場長にフォークリフトなどの使用許可も貰ってちょうだい」と声をかけた。
早乙女は、検査ラインのベルトコンベアの間で、ノートパソコンと格闘していた餅柿刑事に声をかけた。
「どう? 上手くいってる?」
パソコンに接続されたたくさんのケーブルは工場設備機械や持ち込んだX線カメラに繋がれている。もう一人、鑑識の制服をきた男が、近くでX線カメラの感度を調節していた。
「大変です……、ふつうは何日もかけてやるものですが……」
餅柿は早乙女に顔を向けず、ずっとディスプレーを見ていた。まるで腕の先に十匹の啄木鳥がいるようにキーボードを叩いている。
「できるのね? 他に必要なものがあったら、すぐに私に言ってください」
早乙女が言うと、餅柿はこくりと首を動かし、小さな声で「たぶん……、大丈夫です」と答えた。
早乙女は倉庫に向かい、早足で歩いていた。猫屋敷は必死について行く。
「あの……」猫屋敷は早乙女に聞いた。
「何をやってるんす?」
「ペットボトルのX線写真を、工場の自動光学検査システムを使って撮影するのよ」
「X線っていうのはレントゲンすよね。なんで青酸カリが分かるんすか?」
「被疑者が、致死量を入れたって言ったの覚えてる?」
「はい! 覚えてるっす」
「じゃあ、青酸カリの半数致死量は?」と早乙女が聞くと、彼は「えっ、 あ、あの……その、知りません」と急にしぼんだように言った。
「三から七ミリグラム。もし彼が、体重六十キロを想定したのなら、一本のペットボトルに最低、百八十ミリグラム入っている可能性があるわ。まあ、苦くて一口も飲めないでしょうけどね」
「あ! そうか! と言うことは、重さを計れば分かるんじゃありません!」
彼は拳で手のひらを叩いた。
「あらかじめ加える分を引いていたら重さは変わらないわ。それに、時間の限られている中、ミリグラム単位をすばやく正確に測定するのは難しい」
早乙女に言われて、猫屋敷はしゅんとなった。
「青酸ってレントゲンに写るんすか?」
「シアン化物は炭素と窒素の化合物だからX線には写らない」
「う、写らないんすか! じゃあ、なんで!」
「でも、カリウムなら白く写る。調べたところ、ここで製造されているスポーツドリンクには五百ミリリットルあたり、百ミリグラムのカリウムが含まれているの。でも、もし、青酸カリが入っているなら?」
「そ、そうか!」
「約百七ミリグラムのカリウムが加わる。つまり、白い影の濃さが二倍になる。その画像を自動判別できるように設定すれば……」
猫屋敷は計算はできなかったが、膨大な量の検査が可能になることだけは分かった。尊敬のまなざしで早乙女を見て、彼女の手を握る。
「係長! 俺、何でもやるっす。何でも言ってください!」
早乙女はやさしく彼の手を外す。
「とりあえず検査を始める準備を手伝ってちょうだい。そのあと一番大事なことをお願いしたいけど、いいかしら」
「はい! よろこんで!」
猫屋敷は元気に敬礼をした。