9.必要な人
外が嵐なら、宿泊の準備もまさに嵐だった。客のもてなしのために、休みなく働き、この日は一年分の気配りをした。
一通り仕事を終え、客の全員が風呂から出たようなので、私は浴室へ行った。
十時四十分をまわっていた。
体を洗い、浴槽に浸かった。
叔父は風呂のセンスはある。高級感のある内装で、まるでホテルのスイートにいる気分になる。
湯船でくつろいでいると脱衣所に人の気配を感じた。
誰かいるのかと思うと、浴室の扉が開き、若い女性が入って来た。身体に白いバスタオルを巻き、濡れた髪は後ろに丸く纏めていた。
この日初めて逢った令嬢、半澤勇の婚約者、清野凉乃だった。
しまった、まだ全員入っていなかったのか、と彼女がすでに風呂から出て、自分に声をかけた事はすっかり忘れ、私は、
「失礼しました!」
と言って、浴槽を飛び出た。私は手掌で目を覆い、浴室の扉へ向かった。
すれ違いざま、彼女は白い華奢な手を私の胸に当てた。
そして、私の頬を両手で掴むと、口に接吻した。若い女性の香りと、柔らかく湿った唇の感触が、私の脳を揺さぶった。
「な、何をするのです」
「何もおっしゃらないで」
彼女は上気した顔で言うと、濡れた私の身体に、やわらかい指と、艶やかな唇を這わせていった。
「いけません、こんな事はいけません」
私は言ったが、彼女は止めなかった。
私は、理性を保とうと努力したが、しだいに長年抑えていた性欲を、これ以上制御できなくなり、彼女のバスタオルに手をかけた。
「先生、だめです」
彼女はそれを止めようとする。
「何が駄目なものか、君から誘っておいて」
私は彼女のタオルを剥き取った。美しい均整の取れた肢体が露になり、彼女は腕で胸を隠す。私は、強引に彼女を引き寄せ口づけすると、若く瑞々しい、そして柔らかく熟した身体に貪りついた。
彼女は「先生、いけません」と言いつつも、私を求め、私たちは何度も身体を重ね合わせた。
その間、なぜか私の脳裏に、私の作った介護ロボットが思い浮かんでいた。
「続きは研究室で」
彼女が言うので、私は先に地下に下りて、彼女を待った。待つ間、コンピューターシステムの再起動をはじめ、また防犯システムの電源を入れなおした。
彼女は部屋に入って来ると、私を押すようにして椅子に座らせた。
そして、私の前に跪き、私の両手を取って、指を一本一本しゃぶった。
その快感に身を任せていた時だった。
突如、左手に激痛が走った。
見ると、彼女は私の小指の付け根を噛んでいた。
「な、何を」
その時、私を見あげる彼女の顔は、妙に艶めかしく、彼女は唇についた血をペロリと舐めていた。
「これは証拠の歯型」
「証拠?」
「抵抗した証拠です。私、言いましたわ。だめです、いけません、て。先生、頭が良いのに、まだ分からないですの。私、今、先生にレイプされましたの」
彼女はそう言って、自分の下腹部に両手を当てた。
私は、はっとして、「き、狂言じゃないか。誰がそれを信じる……」と言いかけたが、逮捕される証拠はそろっていた。
話が少しでも漏れれば、たとえ彼女が告訴をしなくても、今日の客が証人になって、私は有罪となる。私は冷や汗を流した。
「先生、安心してください」
彼女はお淑やかに言った。
「私、先生を貶めるのが目的じゃないのです。援助が必要なだけなのです」
「援助?」
「はい。先生、あれから、たくさん遺産を手に入れて、クラウドファンディングでも、かなりの資金を集めてらっしゃいます。そこから、少しいただければ十分なのです。それで秘密は保たれます。共存共栄ですの」
「いくらだ」
「毎月、百万」
無茶だ!
遺産なんて二束三文の土地と、取り壊し費用のほうが高い古い洋館だけ。受け取った金は、借金の返済とロボット開発で、すでに使い切ってしまった。金があれば資金集めをする必要なんてない。
どうする? いったいどうすればいい?
毎月百万なんて、とても払える金額じゃない。値引き交渉するか、考える時間を貰って弁護士に相談するか。
まて、今、彼女は何て言った?
「あれから?」
彼女は「うふ」と笑った。
「もう! 先生ったら、昼間、私の事ぜんぜん気づかないから、私、悲しかったです。でも、ちょっと可笑しかった。あのロボットを見た時、私、とても嬉しかったんですよ。先生、私の事まだ忘れてなかったって、すごく感動しました。でも、気づかなかったの、当然ですよね。顔も変えたし、名前も違うし、ね、センセッ」
彼女は、急に、明るく子供っぽい顔つきになって言った。その瞬間、数年前の出来事が私の脳内を駆け巡った。
私が帝東大学の教授だった時だ。
私には結婚を考えていた、一回り年下の女性がいた。名前を百合子と言った。
あるホテルの学術パーティーで知り合った。彼女は別の大学の教授と一緒に来たと言ったが、そのうち教授の方は関係者との話でどこかへ行ったらしく、彼女はひとり暇を玩んでいた。私はその可憐に佇む姿に一目ぼれした。
彼女は工学だけでなく、さまざまな分野をよく勉強をしていた。そして私のロボット開発に非常に理解を示していた。明るく爽やかで、いつも私のことを「センセッ」と呼んだ。
ある時、私は彼女に結婚の話を切り出した。彼女は泣いて喜んだ。
しかし、結婚はできないと言った。
「どうして」
私は問い詰めると、彼女は姉がいると打ち明けた。彼女は心臓を患っており、アメリカに行って移植手術をする必要があると説明した。
「一生懸命頑張りましたが、もうこれ以上はお金を集められません。私、自分の身体を売って、姉の手術費用を集めようと思ってます。だから、先生とは、これ以上一緒にいることはできません。でも、でも、私、先生から結婚の話を聞けて、とっても嬉しかったです」
彼女はそう言って微笑んだ。
「もう思い残すことはありません。だから、先生、さような……」
「ばか!」
私はそう言って、彼女を抱きしめた。
「何で相談しなかったんだ。君が自分を犠牲にする必要なんてない。安心しろ。金の工面は私にまかせるんだ。いいな。もう大丈夫、大丈夫だから、もう、お姉さんの手術代なんて心配いらないから」
彼女は私の胸で泣き続けた。
そう言ったものの、手術費用は莫大なものだった。預貯金を全部おろし、銀行や知り合い中から借金をし、サラ金にまで手を出しだが、それでも足りず、大学の研究費用に手を出した。
そうして送り出したものの、結局、彼女はアメリカから戻って来ることはなかった。
介護ロボットの顔つきが百合子に似てしまったのは、未練があったからに違いない。
「あの時は、ありがとうございました」
「君のお姉さんは?」
私は聞いたが、それは作り話なのだと分かっていた。
「お蔭様で良くなりました。本当に、申し訳なく思っています。私のせいで先生、大学を首になってしまわれたし、本当に、どうやってお詫びしたらいいか……」
白々しい。
偶然、叔父の遺産が入ってこなければ、私は社会的に完全に死んでいたのだ。
「百万なんて不可能だ」
「センセッ! 昔、おっしゃいましたよね。情熱さえあれば何でもできるって。それに先生は頭いいんですから、絶対に大丈夫です。私、信じてますから」
「なぜだ、いったい、どうしてこんな事するんだ」
私は歯噛みした。
「先生のロボットだって、充電、必要ですよね、バッテリーの交換、必要ですよね」
そう言って、彼女は私の頭を撫でた。
彼女が研究室を出てから、三、四十分。私は頭を抱えて悩んだが、このまま、ここにいても仕方ないと思って、とりあえず、一階へ上がった。
客室で蓮見さんと話ができたのは良かった。悩みを打ち明けることはできなかったが、彼女はいつも私に寄り添い、励ましてくれる。真剣に話を聞いてくれる。
私に本当に必要なのは、彼女のような人なのだ、私はそう思った。