プロローグ/夢の真ん中を大行進
彼らの日常賛歌
-プロローグ
判戸町には不思議がいっぱい。
「遊びましょ。朝来るまで」
彼らにとって、その一言がこの世で一番待ち遠しいものだった。
雲ひとつ無い空は青色をしていなかった。真っ黒で、点々と小さな光をちりばめている。そんな中に一つ大きく黄金の円。月は太陽の力を借りて、その妖しく美しい姿を惜しみなく晒していた。判戸町は都会的、田舎的な場所が同居している。都会的な場所というからには、こんな夜も窓の奥から光は漏れでていたし、田舎的な場所というからには、真上の黄金を残して、光を全て失っていた。
光のない世界というのは案外不気味かもしれない。確かに月はあるが、山の中、木々に覆われたこの場所まで届くわけはない。不気味だ。今にも何か出てきそうだ。少年はただただ歩いていく。山の中の神社への一本道。こんな夜に一人で、手には小さな懐中電灯をもって。ようするに肝試しである。
雰囲気だけで、何もしなくても十二分に怖い。だが、雰囲気だけだ。何もでてこない。でてきたとしてもそれは友達の悪ふざけにすぎない。そうやって自分を奮い立たせながら少しずつ歩く。土の道を踏みしめながら。クシャックシャクシャというその一定のリズムに自分ひとりであることを感じなが、ら?……少年は立ち止まる。止まっても、少しだけ音は続いた。誰か居る。
友人の悪ふざけだ。どうせ。だが、振り向くのにかなりの勇気が必要だった。しかし、なけなしの勇気をかき集めて、ようやく振り向こうとしたとき、振り向くことはできなくなっていた。高く、やわらかく、幼くて、甘い。だが不気味な声が、彼の体を凍りつかせたからだ。
「危ないよ。こんな夜に。危ないよ。こんなところにいちゃ」
聞いたことのない声だ。後ろから聞こえてきた。後ろから。もし逃げるとしたらもっと奥にいくことになってしまう。額に首筋に、体中に汗が伝う。それこそ滝のような汗が、流れ出る。手が震えて、思考が震えて、かき乱される。
クスクスと笑い声が聞こえて、小走りに何かが近づいてくる。近づいてくる、といってももとから近かったのだが。それよりも、はやく逃げなければ、友達の悪ふざけだったとしても、これはやばい。逃げなければ、と思っても足は動いてくれなかった。逃げなければ、と思うほど足は震えていく。
震える顔の右側、少年のやわらかい頬に、痩せ細った小さな白い右手が触れる。そのまま、顔を後ろにぐいと引っ張られる。同時に体も、顔と一緒に捻られて後ろを向いた。そこには、その少年よりも小さく、そして白い肌をした少女がいた。その唇は薄く笑いの形に歪んでいたが、どこか凶暴さを秘めている。
「遊びましょ。朝来るまで」
それが全ての合図だった。少年は震えるまま、呼吸の整わないままに、だが、走り出した。足がもつれて、こけそうになりながら、転がるように走り出す。少女は少年の後ろにいた。だから、まっすぐに逃げるということは、より山の奥に入ってしまうことになる。少年はそんなことにも気づかなかった。気づく余裕なんてなかった。怖かった。ただそれだけで、走り続けた。
少年にとって不幸なことと幸福なことが一つずつあった。不幸なこととは、さっきの少女の一声が、少年の逃げるための合図ではなかった。たしかに、体は動き出したが、しかし、他に動き出したものがある。気配がする。逃げることに夢中で、それ以外考えることのできなかった少年にさえ、はっきりとわかる。なぜわかるのか、理由は簡単だ。多い。多いのだ、気配が。横から後ろから獣が短くハッハッと刻む呼吸の音が分かる。手入れのされていない草をかき分けて、だが、呼吸を乱さずに、何人か走っている。人も獣も、いろんなものがいる。
死ぬ。そう思った。幽霊だとかそういう類のものがいて、取り殺される。そう思った。絶望に胃が、心臓が締め付けられて痛くてたまらない。おまけに少しずつ思考が戻ってきた。そのせいで、走らずとも、自分の体に絡みつくような形で、何かが憑いていることを知った。気がつけば、両手両足に手錠か何かがかけられていた。当然、足がもつれて、前のめりに倒れた。体をよじって、どうにか視界を確保する。何人か、何匹かが自分を覗き込んでいることに気づいた。何か冷たいものが体に触れている。怖くて怖くて、でも、どうすることもできないから、夢だと思うことにした。そうやって瞼を閉じる前に、一瞬だけ二本の角のようなものが猛スピードでこちらに向かってきているような気がした。
少年にとって幸福なこととは、助けてくれるヒーローがいたことだ。
翌日、少年は自分の家、自分の部屋、自分の布団で目が覚めた。肝試しは、一体どうなったのだろうか。他にも友人と一緒に来ていたはずだが、その友人は一体……。あぁ、と少年は気づく。あまりにも臆病な自分は山の中で気絶でもして、そして、夢でも見ていたのだろう。それを彼らは発見し、家まで送ってくれたのだろうと。恥かしくなった。恥かしくなったが、助けてくれたことには感謝しなくては。
少年は、後々、友人たちにその旨を話すのだが、少年を除いて、山に入った者はおらず、また、少年が山から出てくるのを見た者もいなかったという。
プロローグ第二段。
しかし、夢の中を突っ走るとは。
Q.一体何を考えているのだろうか。
A.既にキツネは考えるのをやめている
うむ。今回も不可思議でいいですね。これの意味が分かるのは、これが意味を成すのは、0話もプロローグも終わってから、物語が動き出してからのようです。