君が言うほど -5
第五話
-その五
桐得はC組から帰ってくると、まず最初に、夕季の小言は反論ができるようなところで言うものだという説得力のあるような無いような言葉を聞き、そんな達者な口で反論させる気があるというのは出鱈目もいいところだと呆れた。気持ちが顔に出ていたのか、不平を言う前に先手を打たれてしまった。桐得はまさにポーカーフェイスであるからして、気持ちを読み取られるというのは稀なことである。
五限目の現代社会の時間は、他の時間に比べて苦痛な時間だった。たんたんと教科書を読みすすめて、重要らしい語句の説明を黒板に書き連ね、それをノートに写していくだけの授業だ。桐得にとっては、この程度は苦痛でも何でもなかった。笑うところは表情には出さずに笑うのだが、基本、淡々と授業を受けているので、淡々とした授業もいつもどおりに受ける。しかし、今日は少し違っていた。時折右手にもったペンを動かすのをやめ、明後日の方向を見ている。雲の流れを見ているようで、体育館の屋根から滑空を楽しむカラスを見ているようで、日光浴をする背の低い木を見ているようで、しかし、結局は何にも焦点を合わせてはいないのだった。その後ろの美少女も頬杖をついて、やはり、明後日を見ていた。学校が終わればすぐ、被疑者に会いに行く。その方法や場所は全て桐得に任せていて、夕季は何も聞いていなかった。ただ一言、今日行くぞと言われただけだった。少しだけ不安だった。桐得は賢いのは分かっているが、信頼できるかと言われるといいえと答えるだろう。それなのに夕季が少し程度の不安しか覚えないのは、持ち前の図太さ故といったところか。
「さて、行こうか」
桐得の低く響く声が夕季を促した。放課後になってから、時計の針はまだ、数歩しか歩みを進めていない。三人の七城生は、これから面倒事へ、一歩ずつ、時計の針のごとき正確さで歩みを進めるのだ。
薄緑のブレザーの後ろを、数十センチの距離を置いて、白のセーラーが追いかける。逆方向にもう一人のブレザーが歩いていく。桐得の身長が小さいからか、はたまた、夕季の身長が大きいからなのか、その男女二人の身長差はあまりない。しばらく行くと、高校生の姿は減った。古い民家が立ち並ぶ細い裏通りだ。あたりに誰もいないことを認めると、夕季はさっと近づいて、桐得に並ぶ。
「ねぇ、どこいくの?」
「被疑者、もとい犯人に会いに」
桐得は背を向けたままやる気のない声を出した。
「どこ?」
夕季は苛立つ。
「そこ」
桐得は無感動。しかし、夕季の語気の強めた問いに、立ち止まると、通りの奥のほうにある家を指差した。古い民家ばかりだが、まわりのと比べてさらに痛み古んでいる。屋根はところどころかわらがはげ、鉄か何かでできた小さな門はさび付いて、傾いて、かざりにすらなっていない。雑草は邪魔者のいない環境で、その執念深いほどの生命力を思う存分発揮していた。黄色と黒の縞模様の蜘蛛が数匹、白濁糸と足を伸ばしているのが嫌でも目に付いて、夕季は気分を害した。虫の気配はあるが、人の気配は無い。
「誰もいないわよ。どういうこと?」
言っておいてはっとした。この高慢きちな馬鹿は、事件を解決するという名目で夕季を人気の無いところに連れ出しておいて……。自分でも馬鹿げたことを考えていると思ったが、何を考えているのか分からない奴なので、一概にありえないとも言い切れない。ありえないと言い切れないのならば、顎に手を添えて何かしら考え込んでいる、その細い背を注視すべきだ。妙な行動を起こせばいつでも逃げられるように準備をしておくことも大切だ。
「確かに、誰もいないな」
桐得が夕季に向き直った。いつもどおりの無表情だ。
「確かにここに呼び出したんだが、寝坊でもしているのか?」
「ふざけないで。呼び出したって、どういうこと?」
桐得はしかし、無表情というよりはのんきだった。対して夕季は緊張感と憤りを真剣な表情に表す。
「脅したんだ。メールで。犯行がばらされたくなければ、五千万用意しろと」
ため息が聞こえた。それは夕季のもので、思わず口からこぼれ出てしまったらしい。それほどに夕季は呆れているようだった。とりあえず脅す、などという安易な方法で犯人はのこのこでてくるものだろうか。そもそも、なぜこんな場所を選ぶのだろう。人気が無い場所、といっても他にいいところはあるはずだ。この高慢の言うことはどうも怪しい。現に、犯人はきていないのだ。
「まぁしかたない。帰るか」
そういって、桐得は歩き出した。薄灰色のズボンのポケットに手を入れて。眉根を寄せながらも、桐得から目を離さないようにして、夕季も歩き出した。ふと、桐得が瞼を下ろして、ふっと口元だけで笑った。嘲笑だ。誰に向けての嘲笑かは分からない。合図か何かか、そう考えて夕季は身構える。それもつかの間、何か大きな塊が、家と家の隙間から現れ、桐得のわき腹付近に直撃し、そのまま打ち倒した。桐得は仰向けに倒れて動かない。その頭に、足を置いて、すらり、というよりはもやしみたいに細長い男が立っていた。やせこけた顔の上半分は、艶のある黒い髪で覆われていた。雨でもないのに百五円あれば買えそうな安っぽい半透明なレインコートを着ていて、その裾から青いジーンズが見えている。右手にはナイフを握っているようだ。
犯人だ。桐得の言っていた特徴、そして能力、そのものだ。だとしたら、次は右手に持ったナイフを飛ばしてくるに違いない。さて、それをどうやって避けるか。逃げ出したかったが、車にも追いつくような速度のナイフに追い掛け回され、結局刺し殺されるのは目に見えている。犯人と自分との距離は二メートルほど。これならば、三番目の腕でどうにかして奇襲するほうが、何とかなるかもしれない。桐得は絶望的な状態だ。今すぐにでも刺し殺されそうな状況だが、おそらく人質として使われるのだろう。顔は見えないうえに、体はぴくりとも動かないから、意識があるのかどうか怪しい。ただの足手まといだが、この際、桐得を殺させて、自分は逃げると言うのもいいかもしれない。どちらにしろこのとき、夕季の頭にはとりあえず助かろうということしかなかった。それは死にたくないという欲でもあったし、ここで無闇に被害者を増やすよりは、他の二人に少しでも情報を伝えるほうがいいという戦略的な思考でもあった。もっとも、二人が戻らないというだけでも、犯人を確定させる情報にはなりえるのだが。
犯人は夕季を品定めするように見ていたが、しばらくして、足元の桐得を見た。頭を踏んでいた左足をはなすと、体を軽く蹴るようにしてひっくり返した。平らなアスファルトに押し付けられていた顔に細かい土が付いている。制服も泥っぽくなっていた。
「七城か。高校生なんかに脅されるとは、驚きだね」
子供のようなやわらかい声だったが、あまり好きにはなれそうにない声でもあった。嘲るような口元とそこから吐き出されたため息が、鬱陶しく感じられる。
「それで、五千万は用意しなかったよ。まぁ、こんな隙だらけで人から金を脅しとろうなんて、まさにガキだ」
あんな簡単な罠でのこのこ現れる方もどうかと思うのだが、確かに、男の言うとおり、簡単にのびてしまう方もどうかと思われる。
「とりあえず、ここに来たって事は、その手に持ったナイフで、人を殺してきたことは認めるのね?」
言いながら、夕季は両腕を自然に投げ出すようにしていた。身構えるといっても、何かファイティングポーズをとるわけではない。素人が素人なりに構えたって、意味は無いのだ。それに、相手は、物理法則に反して縦横無尽に軌道を曲げるナイフを投げてくる。玄人が構えたって、意味は薄いだろう。
「そうだ」
男は足元の桐得から、夕季に視線を戻した。
「三十台前半の会社員、山下敬之を超能力を使ってナイフで後ろから刺した。そして、別の日、高校生だか中学生くらいの少女を、走行中の車のタイヤをパンクさせ、歩道に突っ込ませる形で殺した。間違いないかしら」
「間違いないな」
夕季はゆっくりと問いを立てる。時間を少しでも稼いで、何かしら、この状況を脱する方法を考えているのだ。
「どうして殺したの?」
もしこれで、犯人が動機を語ってくれれば、これほど嬉しいことはない。この男は、夕季の時間稼ぎであるとは気づかないのか、嬉々として語り始めた。
「簡単なことだよ。悪を裁く。それだけのことさ。山下は数々の女性の心を踏みにじり、あまつさえ、一人の女子高生を自殺にまで追い込んでいる。それなのに、捕まっていない。知られていない。君も、女性だ。殺されて当然だと思うだろう?」
「思うわ。でも、もう一人は?」
「もう一人は同級生を殺している。上手くやったんだ。証拠を残していない、完全犯罪だ。そして、良心の呵責ってやつもなく、のうのうと生きている。立派な悪人だよ」
「でも、二人ともあんたには関係ないわよね」
「無い?確かにそうだ。だが、悪を許すことは出来ない。そういう悪の存在を知ったとき、心の奥底からそう思うんだ。今までの俺には何も出来なかった。だが、今は違う。神様だか何だかがくれたんだろう超能力がある。俺は悪を裁く」
漫画の受け売りだ。犯罪者を超能力で裁く、いや、殺していく。そして、いつか人々は犯罪者が裁かれていることに気づき始め、行いを正していく。そういう考えの下に人を殺して神になるというあの有名な漫画だ。その考え方、行動は、正真正銘の馬鹿だが、こっちのはさらにタチが悪い。思想だけでなく頭脳も馬鹿であるらしく、世間一般に犯罪者であると気づかれていない者を殺している。その結果、何か超能力のようなもので人が殺されている、もしかしたら次は自分かもしれないと思わせているだけで、犯罪は減らないだろう。むしろ、増えるかもしれない。
「ところで、君、超能力の存在を認めることが出来るということは、つまり、君自身も超能力者なんだろ?今ここでのびている馬鹿も、やっぱりそうなんだろう?」
男は右手にもったナイフをひらひらさせながら言った。長い前髪のせいで顔全体は見えないが、口元を見るかぎり、親しげな笑みを浮かべているようだ。夕季は男の意図をはかるように無言のままじっと見つめていた。
「黙っていても意味はない。君らが超能力者であるということは分かってるんだ。とにかく、君、俺の仲間にならないか?」
予想外の言葉だった。だが、面食らうわけでもなく、夕季はただ呆れることにした。だが、これは状況打破には絶好の機会だ。うなずいて懐に飛び込めば、立場を逆転させることなどわけない。男の足元の桐得はまだ伸びていて、加勢は頼めそうにないし、ここは素直に従うのが吉だろう。
「嫌よ」
ここで二つ返事に了解してしまっては、相手が馬鹿であろうとも怪しまれるものだ。
「なぜだ?悪を憎いとは思わないのか?君たちだって、俺を悪だと勘違いしてここにいるんだろ」
少しずつ相手に説得されていくようにすれば、うまく信じ込ませることができる。だがしかし、時間がかかる上に、何より、夕季は、
「善悪とか関係ないのよ、私は。自分の身が可愛いのと、引越しした先が見えない殺人鬼におびえる陰気な町だったなんて落ちは嫌だってこと、その二つだけよ。それにあんたは悪。殺人は悪。親から習わなかったのかしら」
下に見られるのはたくさんだ。この細身の男の口調、声、態度から感じられる自己への陶酔と、他人への見下しは腹が立ってしかたがない。大体、桐得に対しても下に見られるつもりは無い。突飛な脅迫と、何を考えているのか分からない危険な性格に対して、とりあえず怯んでやっているだけだ。
痩せ型男の仕方が無いというようなため息に、夕季は呆れる。誰が見たって、男のそれはただの気取りだ。子供が背伸びをして、大人のふりをするのと何ら変わらない。
「交渉決裂か」
「はなっから交渉なんてしてないわよ。お馬鹿さん」
夕季は消していた表情を開花させた。肩を上下させ、口元を横に伸ばし、ふふふと嫌な音を立てると、滑稽な痩せ型を嘲った。男も真似をするのだが、頬のあたりがひくひくと痙攣し、上手くいかない。上手くいかないからか、次の瞬間には嘲笑作りを投げ出し叫んだ。馬鹿はどっちだ!右足を大きく踏み出し、それと同時に、自然にたらしていた右腕を下から上へ、逆袈裟に振り上げた。細く筋の無い腕から投げられたものとは、いや、人間が投げたものであることは想像できないような速度で、ナイフが一直線に飛ぶ。疾風迅雷。矢よりも早く。二メートルの距離は一瞬でゼロになった。ナイフは夕季の眉間に撃ち刺さり、あまった勢いでその体を持ち上げると後ろへ数十センチ引きずった。夕季の嘲笑が消え、驚愕に目が見開かれるよりも、その体がアスファルトの地面へ叩きつけられる方が早かった。ナイフがあるためか、血は噴出しこそしないが、そのかわり、眉間から鮮やかな血がその白い顔を染めていった。