其の玖 鬼の力
みっともなく白澤様の胸で泣いて、その後でノウマにみっちり扱かれてまた泣きそうになった明くる日の朝、私は前日の疲れをとろうとゆっくり眠っていた。
いや、眠る予定だったのだ。
「おい、起きろ」
「むぅ……ん…」
「おいこら、早く目ぇ開けろ」
「んん…まだ…あと少し…」
「……起きろっつてんだろうが!」
「!?」
唐突に身が空を舞う。目を開くとすぐそこには畳が迫っていた。そして――
「ひあ!?…いったぁ……」
「起きたか?」
畳に強打した眉間をさすりながら無理矢理覚まされた意識を声の方に向ける。そこには私がついさっきまでくるまっていたはずの布団を片手に携えたノウマが仁王立ちしていた。
「…なんでノウマがここに…………って、なんで!?」
完全に目が覚めて状況こそ整理できたが、理解は到底追いつかない。
とりあえず傍に転がっていた枕を膝と一緒に抱え込み、開けかけた着物の前部を隠す。
ノウマは何をやってるんだとでも言いたげな顔で私を見ていた。
「呼びに来たんだよ。さっさと着替えて庭に降りてこい、五分以内だ」
「え、ちょっ待って…」
それだけ言うと返事も聞かず彼は部屋を出ていった。
残されたのは訳も分からず呆然とする私と、無惨に放られた布団一組のみだった。
大急ぎで着替えを済ませ髪もまともに整えずに庭に出た。
昇ったばかりの朝日に目を細めながらノウマを探す。彼は涼しげな顔で池のほとりにある岩に腰かけていた。
駆け寄るときらきらと陽光を反射する水面から私に目線を移す。
「来たか、よし、それじゃあ始めるぞ」
そう言って腰を上げた。
「始めるって…何を?」
「何って、鍛錬に決まってんだろ」
「え」
軽く足がすくんだ。
走っては素振り走っては素振りを延々と繰り返すだけだった昨日の鍛錬は正直今までで一番きつかった。
それが完全にトラウマになっている。
「安心しろ。今日は昨日みたいな基礎鍛錬じゃねぇから」
「あ、そうなんだ」
ホッと胸をなでおろす。
「……まあ、もっときつい可能性はあるが」
ぼそりと、聞こえるか聞こえないかの瀬戸際の小さい声でノウマが言った。
「え、ねえ今なんて――」
「よし、まずは…」
「聞いてよ!?」
一切聞く耳を持つ気はないらしい。そのまま説明が始まる。
「今日からは妖力制御重視の鍛錬に移る。だから昨日は妖力一切使わせなかったんだ。取り敢えず鬼化してみろ」
ひょいと片手に持っていた刀で私を指す。
不満はあったが、私は抗議の声を上げることを早々に諦めた。瞼を閉じ意識を集中させる。
すると、体の内側から熱が湧いてくるような感覚が訪れる。そして次第に私の髪が白く染まっていく。
ふう、と一つ息をしてノウマを見た。
「これでいい?」
「…まだ遅すぎるが鬼化するだけなら大分安定してできるようになったな」
「えっと、体の内側の妖力を全身の表面に押し上げる……だっけ?それ正直言ってまだよくわかってないんだけど…」
「……まあいい」
ノウマは一瞬眉をひそめたが、すぐに表情を戻した。
「まずは…そうだな。俺らみたいな妖人は体内が妖力で満たされてる。だがお前は半妖だ、体の全てが妖力で満たされているわけじゃねえ。だから妖力を自分で操作して強化したい部位に偏らせる必要がある。ここまでは分かるか?」
「う、うん。出来るのかな…」
私には鬼の血が半分しか流れてない。
だから、鬼の身体能力を引き出すだけでも鬼化という手段を要する。この時点で既にある程度妖力の制御は行っているのだ。
ノウマが言っている事はその上での更なる妖力の操作、容易なはずもなかった。
「出来る。てか出来なきゃ話にならねぇ。お前一昨日白澤に言われた時似たような事出来てたろ?」
「あれは…鬼化ほぼ解けてたから…」
「いいから、やってみろ。こいつを素手で握り潰せる様になったら次の段階に進む」
そう言ってノウマは懐から小さな人形を取り出して、私に向けて放る。それは土に見える様な茶色い物質で出来ていて、見た目は土偶に似ていた。
「え、なんか凄い脆そうだけど…」
「超小規模な結界みてぇなもんだ。力技じゃ絶対に壊せねぇ」
持った感じはただのボロ人形だった。
言われるがまま手に力を込める。しかし
「…何これ、変な感じ…」
握ったそれは決して堅くはなかった、むしろ石なんかに比べると柔らかい様に感じる。
だがその形は一切変わらず、ビクともしない。
「そんなんじゃ壊れねぇよ、もっと掌に意識集中させろ。…あぁ、鬼化は解けねぇようにしろよ。下手に解きかけて妖力弱まると弾かれるからな、それなりに痛ぇぞ」
「そういう怖い事はもっと早く言ってよ!」
掌の物体が急に恐ろしく感ぜられる。
こうなっては逃げ道はない、必死に右手に妖力を送り込もうと意識を纏める。
幾度か繰り返すうちに掌に熱を感じられる様になったりもしたが、それが妖力に依るものなのかは分からない。
そして試行錯誤の末にニ十分余りの時間が過ぎた。
「んっ……はぁ…。ね、ねえノウマ?いつになっても割れる気配がないんだけど」
「ああ?」
とうとう弱音を吐いた私に再び岩に腰かけなおして眠たそうに欠伸をしていたノウマが機嫌の悪そうな声を出す。
「仕方ねぇな…」
ノウマは腰を上げると私の傍らに立った。
そして私が人形を握っている右の手を包み込むように手を重ねてきた。彼の手の温もりが伝わってくる。
何をするのかと思っているとその手の温度が急激に上がったような感覚に襲われた。
「何これ…?」
「ここに血を集中させるつもりでやってみろ」
「血…?」
「妖力は液体とイメージが近い、勿論実体はねぇけどな」
「?…分かった」
正直そんなにイメージが掴めた訳ではなかったが、取り敢えずやってみる事にした。
軽く呼吸を整える。
血管を流れる血と自分の心臓の鼓動に意識を集中する。すると鬼化をする時に湧き上がってくるような熱が全身を巡っているように感じた。
(不思議な感じ…でも、これなら…!)
血に自分の熱を乗せて、一気にノウマの手の熱さめがけて流し込む。そしてーー
バキン!
急に手の中の人形が弾けとんだ。
「ッ!いったぁぁぁ…」
掌に鋭い痛みが走り、思わずノウマの手を払い除けブンブンと宙で扇いだ。
爆竹が手の中で爆発した様な衝撃だった。人形は跡形もなく崩れている。
「え…何?何で?」
「…砕くのと同時に鬼化が解けかけたんだよ。たっく中途半端な事しやがって…まぁ及第点か」
何が起きたのか分からず狼狽る私にノウマがやや不服そうに言う。
しかし、どうやら合格らしい。そう思うと、掌のヒリヒリとした痛みに達成感を感じずにはいられなかった。
「じゃあ次だな、着いて来い」
「…ですよね」
やはり休みは与えて貰えないらしい。短い付き合いだった、さらば達成感。
さっさと歩いて行くノウマを追いかける。
もう早朝とは呼べない時刻になっていて、庭には目を覚ましてきた物の怪が跋扈していた。
しばらく歩いて館の玄関から正門へ続く石畳の道のすぐ傍の古木の前でノウマは足を止めた。
「こいつだ」
「…枯れ木?」
これまたさっきの人形と同じく古い脆そうな見た目をしている。葉や花は勿論、枝もそう多く付いていない。
「ただの木じゃねぇ、幼木の時から妖力を大量に吸わせてきた。殆ど物の怪みてぇなもんだ、だから…」
「⁉︎」
目の前を刃が物凄い速さで通り過ぎる。
ノウマは突然持っていた刀を抜いて思い切りその木を斬りつけたのだ。
刃はいとも簡単に幹を上下に切り離し外へと抜けた。しかし、その木は倒れない。瞬く間に切り離された部分を根のようなものが取り巻くと元通りくっ付けてしまった。
「こんな風に妖刀でもない刀じゃ斬ってもなんの意味もねぇ…ってどうした」
腰を抜かしてへたり込んでいる私に漸く気付いた様だ。
「な、なんでもない…」
斬られるかと思った…吃驚した…。
「まあいい、じゃあこれでこいつを斬り倒してもらう」
そう言うと彼は持っている刀を私に向けて放った。よろめきながら立ち上がろうとしていた私は危うくそれを落としそうになる。
「わ!ちょっ!…ってこれじゃ斬れないんじゃないの?しかも…この刀軽過ぎない?」
黒く何の装飾もない鞘に収まったその刀は長さが違うとはいえ、私がこの前の勤めで使った刀の半分の重さもないように思えた。
先程ノウマは簡単にやってみせたが、この刀ではあの木の幹を両断出来る気すらしない。
「そいつは空ノ刀だ。妖刀でもねぇし、普通に扱えばただの鈍以下になっちまう。だが鬼族が使うとなると話は違う。そうだな…ん、丁度良い、おい、氷雨!ちょっといいか?」
ノウマは私の後方を見て軽く手を上げる。振り返ると丁度玄関から一人の女性が出て来た所だった。スーツを身に纏い美しい黒髪を後ろで一つに束ねた彼女は呼び掛けられた事に気付くと真っ直ぐ此方に歩いてくる。
髪や服装に相反する真っ白な肌とやや吊り目型な目の中で蒼く光る瞳に思わず見惚れてしまう。
彼女は氷雨さん、雪女だ。ノウマや白澤様程ではないがこの館の古株でお母様が生きていた頃からの仲間らしい。
彼女は私の傍に立つと私に軽く会釈をしてからノウマに向き直る。
「何か…御用でしょうか」
表情を一切変えずにノウマに問う。格好良くて凛とした雰囲気を纏う彼女に私は憧れと共にどこか苦手意識も抱いていた。
「ああ、こいつに妖力の使い方を教えるのにまずは一般の妖人の力を見せようと思ってな。何か急ぎか?」
「いえ、同盟の方々への挨拶と報告ですのでそれ程では」
同盟というのは直人ながら妖人に協力的な人々の団体だ。私達の生活に必要な資金や物資の援助をしてくれている。
何故同盟の人々が私達の味方をしてくれるかは皆それぞれで、かつてから妖人と協力関係を築いていた地域に住んでいた家の人や過去妖人に命を救われた人、中には妖人と結ばれた人も居るらしい。
妖人と同盟との協力関係は一般には知られていない。同盟は直人社会から頭のおかしなカルト教団程度にしか見られていないらしい。
「そうか、じゃあ頼む、これを」
ノウマはごそごそと懐をまさぐり、先程と同じ様な人形を取り出すと天高く放り投げ、
「砕け」
そう雑に言い放った。
突然の要求に氷雨さんは慌てる様子もなく少し顎を上げ上を向くと口元に手を添える。
そして人形が視認できるくらいまで落ちてくると同時にふぅっと軽く息を吐いた。
彼女の吐息の中にはキラキラと陽光を反射する小さな欠片の様なものが見えた。
それが人形に触れた途端、人形は一瞬にして氷を纏い、跡形もなく砕け散る。
残った氷の破片が降り注いだ。
「わあ…」
すごい、さっき私があんなに苦労して砕いた人形をこんなにあっさり…。
「何か気付いた事ねぇか?」
氷に心を奪われていると、ノウマが私に問い掛けた。
「え…何かって?」
「何でアレが砕けたか分かるかって意味だ」
「何でって…氷雨さんの口からなんかキラキラしたのが出て、それがくっついたから…?」
「ああ、つまりはそういう事だ」
「??」
何を言ってるかが全然分からない。それが一体どうしたというのだろうか。
「私の吐息の中の氷片が付着した"から''凍ったというのが重要なんです」
見かねた様に氷雨さんが声を上げた。
「私達妖人は力を使う時に妖力を体内で一度変換する必要があるんです。例えば、私だったら対象を凍らせる為には直接触れるか先程の様に体内で変換した氷片が対象に付着する事が必要な条件になります」
「…なるほど」
ノウマが何を示したかったのかは何となく分かった。
今まで妖力をまともに使った事のない私はそんな制限があるなんて考えたこともなかった。
「同時に、体内で変換した力は外界で長い時間力を保つ事が出来ません。私の氷片も体外に出て少し経つと霧になって消えてしまいます」
それを聞いて疑問が生まれた。
「え、だとしたら結界は…?」
この前の勤めの時も、何より現在この隠里御亭の周りにも結界が張られている筈だ。
妖人が体外でその力を保てないのなら、結界を張るなんて芸当が出来る訳がない。
それまで涼しい顔で黙っていたノウマが少し表情を変えた。なんだか少し驚いた様な顔をしている。
少しの間沈黙が訪れた。
なんだこの雰囲気、何かまずい事を聞いてしまったのだろうか。
「え、ど、どうしたの…?」
「いや、お前思ったより頭回るんだな…」
「はあ⁉︎」
もの凄い心外な事を思われていたらしい。
ノウマだけでなく氷雨さんまで何も言わなかったのがショックで仕方がない。
「それくらい考えるよ!」
「お、おう、悪りぃ」
軽く地団駄を踏みながら抗議する。
「もう…それで、何で結界が張れるの?」
「ああ、それが鬼族の妖力の特殊なとこだ」
「私達の…?」
「そうだ、お前、その刀持ってる方の手にさっきと同じ感じで妖力込めてみろ」
彼は私の手に握られている刀を指差し、催促する様に顎を上げる。
疑問は尽きなかったが、言われるがままに掌にもう一度意識を集中させる。
ノウマの指標がない分、いまいちイメージは持ち難かったが、少しずつ妖力の流れが手に集まって行くのが分かった。
だが、先程とは様子が異なる。
「あれ…?」
掌に妖力がたまる感覚がない。絶えることなく流れていく筈の妖力がまるで消えてしまうかの様だった。
「そのままこの木を斬れ」
「う、うん」
そう言われて目の前の古木に目を向ける。枯れ果て廃れた様子に見えていたそれは先程の再生を見た後だと、禍々しい生命力に包まれている様に感じた。
刀を振り上げ右上から左下へ振り下ろす。
「えいっ!」
ガッと乾いた音がして刃は木の表面の皮を傷つけた程度で止まった。掌にじんわりと衝撃が広がる。
刃を引き抜き、石で引っ掻いたのとそう大差ない傷跡をまじまじと見つめる。
こうなると思ってはいたが、いっそ両断できるかも知れないとほのかに期待もしていたためなんだかがっかりしてしまった。
「…だめじゃん」
「だめじゃねぇよ、よく見ろ」
不満を口にした私にノウマはもう一度木の傷を見るよう顎で促した。
言われてよく見てみると、傷の表面が少し蠢いている。先程も見た根のようなものが傷をゆっくりと覆おうとしているのだ。
しかしその速度はノウマが両断したその時よりも遥かに遅かった。
「傷が…」
「例外なんだよ、鬼は。妖力を体内で変換する必要がねぇんだ。それだけじゃねぇ、直接体外で作用させた妖力を長く保持出来る。…そうだ、それ貸してみろ」
ノウマが私に刀を渡す様に促す。
彼の手にそれを預ける。
すると彼は私がつけた傷と丁度重なる様にして再び古木を斬りつけた。
古木はまたもやあっさりと両断されたが、さっきと同じ様にすぐに再生した。
しかし、私がつけた傷だけはそこに残った。
「空ノ刀は中に妖力を溜め込むための細工がされてある、鬼専用に打たれた刀だ。送り込んだ妖力によっては何よりも上等な妖刀になり得る。同じ様に鬼専用に作られた道具がいくつかある、結界用の札もその一つだ」
なるほど、さっき掌から妖力が消える様に感じたのは刀の方へ流れ込んでいたせいだったのか。
そこで気付いた。
私が鬼の妖力について詳しく知ったのは今日が初めてだ、前に妖力をまともに使った試しもない。
だとしとら…
「じゃあ今使ってる結界って…」
「ああ、先代…菖蒲様が遺した札を使って張ってる。十五年も経ってんのに未だに力が失われてねぇんだよ」
「お母様の…」
なんて強大な力だ。道具に与えただけの力が十五年も私達を守り続けているなんて。
一方で私はこんな古びた木さえまともに斬れない。
思わず足元に目を向けてしまう。
そんな私を心配したのか氷雨さんが傍に寄ってきた。
「…魅琴様はまだ鍛錬初日です。諦めなければいずれ菖蒲様の様にーー」
「だよね!」
突然顔を上げ、大きな声を出した私に氷雨さんはビクッとして一歩下がった。
「お母様にだって絶対追いつける。だって…あのお母様の娘だもん」
力の差も、弱さも、昨日全部認めた。それがちょっと具体的になったからって今更落ち込んでなんていられない。
「…ええ、勿論です」
氷雨さんの口元が少しだけ緩んだ様に見えた。
「まぁ、そんな簡単じゃねぇけどな。ほれ」
ノウマがニヤリと笑いながら私に向かって刀を投げる。
「分かってるよ!だから頑張るの!」
今度はよろめくことなくしっかり両手で受け止めた。
刀を鞘から抜いて古木の前に今一度立ち、構える。
刀が妖力を溜め込むなら妖力を流れ込ませるのは掌じゃない、その先だ。私は意識を刀にだけ集中させる。
まるで刀が自分の一部であるようにイメージする。
「ふぅ…」
目を閉じて息を整え、刀を頭上に構える。
(…よし!)
開眼して刀に向かい一気に妖力を流し込ーー
「おい待て!そんな急に妖力送ったら鬼化がーー」
「え?」
言われた時にはもう遅かった。
鬼化が解けると同時に妖力不足に陥った私は唐突に平衡感覚がなくなり、体が後ろに倒れていく。
薄れゆく意識の中で最後に見たのは額に手を当てあきれ返っているノウマと表情を崩さず駆け寄ってくる氷雨さん、それに宙にそよぐ私の黒髪だった。
「だから…そういう怖い事は…もっと…」
早く言ってよーー
そうノウマに文句を言おうとして私の意識は途切れた。