其の陸 母の遺志:前篇
ふと枕元に陽がさしているのに気付いた。
昨晩、あれからほぼ一睡も出来ずに朝を迎えてしまったらしい。左腕の調子を確かめるともうほとんど痛みはなかった。
もぞもぞと起きだすと着たままだった務め用の装束を脱いで内着に着替え、自室を出て階下の浴場へ向かう。
屋敷は主に一階が公共の場(浴場や食堂)と一部の古株(ノウマや白澤様など)の自室、二階がその他の面々の自室になっている。そのため階段のすぐ傍にある私の部屋の前は人通りも多く、夜な夜なその足音にも悩まされたりもしていたのだが。
(昨日は…全然気にならなかったな……)
そんなことをぼんやりと考えながら脱衣所の戸を開ける。朝早いこともあって、誰もいないようだった。
脱衣かごに脱いだものを入れ、洗い場へ向かう。
入り口の戸に手をかけた時、鏡に映る自分の姿に目がついた。細身の手足と体躯、全体的に華奢で一般に鬼と呼ばれるそれとは著しくかけ離れた自分に嫌気がさす。
(…弱っちそう……)
無意識に漏れ出た溜息。した後でハッとして、ぶんぶんと頭を振ってから気を取り直して洗い場へ入った。
次々と生まれる自己嫌悪を振り払おうと頭から水をかぶり、湯に切り替えて全身を隈なく洗う。昨夕の細かな擦過傷は幻のように消え去り、不快感は感じずに済んだ。
あらかた洗い終えてから湯気の立ち込める浴場内を進み、外湯へと続く硝子戸を開け外に出る。まだ夏が終わったばかりとはいえ、山奥の早朝の外気は冷たく身に沁みた。
身を震わせながら小走りで乳白色の湯に向かい浸かると、そこで初めて口から息が漏れた。未だ軽く震える体を落ち着かせながらも己が黒髪が白い湯に雑じっているのに気付き、急いで髪を上げる。
この湯は近くで湧いている温泉をそのまま引っ張ってきているものらしい。昼夜問わず住人が日々の疲れや傷を癒すために浸かっているので、こんなに静かなのは珍しかった。
私はそんな状況に甘んじてゆったりと朝風呂を楽しむ事にした。
昨晩の寝不足から来る微睡みに身を任せ、ただぼーっと湯に浸かる。まだ昇ったばかりの朝日が湯気を白く反射させ、私の意識をより一層遠退けた。
うつらうつらと船を漕ぎながら睡魔と戦っていると、
「あら?魅琴ちゃん、ずいぶん早いのね」
後ろから声をかけられた。
「あ……白澤様、おはようございます」
その声で我に帰って振り返ると、外湯の入り口からこちらに向かって白澤様が歩いて来ていた。色白で妖艶な雰囲気を醸し出す彼女に一瞬目を奪われたが、すぐにハッとして目の前の湯に視線を戻す。
彼女は私のすぐ隣に入ると私がしたのと同じように小さく息を漏らした。
「怪我の調子はどう?昨日はよく眠れ……た様には見えないわね。どうしたの?まだ痛むのかしら?」
私の表情を確認しようと顔を軽く覗き込みながら言う。隈でも出来ていたのだろうか。
「あ、いえ、違くって、ちょっと考え事を……。傷の方はもう大丈夫です」
「…本当に?いくら鬼族と言っても甘くは考えちゃダメよ?些細な事でも何かあったら直ぐに教えてね」
頰に手を当てながら心底心配そうな表情をする白澤様。嬉しさと共に少しの罪悪感が芽生える。
「本当に大丈夫ですって!ほら、こんなに」
わざとらしく左腕をぐるぐると回しながら努めて明るい表情をしてみたが、彼女の眉はより下がるだけだった。
加えて、あはは…と乾いた笑い声を出してみる。しかし彼女は表情を崩さず、じっと私の顔を見つめている。訪れる沈黙。途切れることなく汲まれ続ける水音が耳に響いて痛かった。
そんな空気に耐えられなくなって、この場を離れようと立ち上がる。
それだけじゃない、明らかな落胆を見られ続けるのも、なんだか恥ずかしかったのだ。
「あ、あっつい!私もうずいぶん長いこと浸かってて。のぼせちゃいそうなので先に失礼しますね!」
これまたわざとらしく明るい声で告げ、立ち去ろうとする私だったが
「待って」
すぐに呼び止められた。振り返ると彼女は先とは打って変わって優しい笑みを浮かべていた。
「朝ごはん、食べ終わってからでいいから、私の部屋に来て頂戴。一応経過を見ておきたいし……。なーにーよーり、お面、忘れていったでしょ?ノウマに怒られちゃうわよー」
茶化す様なトーンで彼女が言う。
「あー……ごめんなさい。わかりました、ご飯食べ次第すぐに向かいます」
「ええ、待ってるわ」
ひらひらと手を振る彼女に軽く一礼して脱衣所へ戻り、下着だけ着ると再び鏡の前に立つ。
ああ、なんてことだ、こんなに長くお母様の面のことを忘れていたなんて……。
正直言って驚いた。いつもは少し手放すだけであんなに落ち着かなかったのに。
気に病みすぎだ。戻って来い私。
「…しっかりしなきゃ」
ペチペチと頬をはたきながら鏡に映る自分に言い聞かせるように呟き、身支度を整えて脱衣所を後にした。
しばらくして、私は白澤様の部屋の前に立っていた。
一度声を掛けてみたが、彼女はまだ部屋に戻ってないらしい。
食堂にある、誰がいつ持ち込んだのかも分からない古びたテレビで朝のニュースを観ながら割とのんびり食べていたつもりだったが、それでも少し早過ぎた様だ。
さて、どうしよう、一度部屋に戻って髪でも整えて来るか。なんて考えていると。
廊下の向こうに歩いているノウマの背中が見えた。
あっちには創院様がいる離れしかない筈だ。昨日に続いてまた何か報告に行くのだろうか。
昨日彼がした報告には少なからず私についての事が含まれているだろう。しかし、それだけじゃない。
彼は確かに昨日、気になる事がある、と言っていた。
その言葉が異様に気にかかった。一体何を…?
すると自然と彼の後に足が続いた。褒められない事だとは思ったが、昨日の報告には本来私も同行するはずだったのだから、と自分に言い聞かせる。
花瓶や柱に隠れながら後を尾ける。話しかけようとも思ったが昨日盗み聞いた会話が何故かそれを躊躇わせた。それに、白澤様にまで内容はぼかしていたのだ。正直におしえてくれるかは怪しい。
足音を立てない様にそろそろと、慎重に。するとすぐに彼の背中が離れへと続く出口の方へ曲がるのが見えた。
よし、今。タッと花瓶の陰から飛び出して彼の消えた角に向かおうとした、その時。
「わぷっ⁉︎」
何かに思い切りぶつかった。ふわふわとした柔らかさの中にも弾力のあるそれは急に目の前に現れた。
正体が掴めない。何だこれは。改めて手でその感触を確かめながら顔を上げるとーー
「これは…何事かしら?魅琴ちゃん?」
「………ひえっ」
状況を理解するのに数秒。そこから言葉(そう呼んでいいかは怪しいが)が出るまでにさらに数瞬かかった。
そこには湯上りな事も相成って頰が微かに紅潮した白澤様の顔があった。
相変わらず綺麗なーーじゃなくて!
「わぁぁ!えと、あのこれはその…」
急いで彼女の胸から飛び退くと手と首を振りながら必死で言い訳の発案に思考を巡らす。が、先程の夢見めいた心地と焦りのお陰で何も頭には浮かばない。
「………まさか自分よりよっぽど年下の女の子からセクハラされるなんて思ってなかったわ……」
「へ⁉︎あ、いやそれはほんとありがとうござ…じゃないごめんなさい!全く故意はなくてですね…」
悩ましげに溜息をつく彼女。
ほんと、何しても絵になる人だ。
…さっきから思考回路がずっと変だな、私。
「まあ、とりあえず」
彼女はするりと私の横を通り過ぎ、振り返る。
「中で詳しい話を聞きましょうか?」
奥にある自室の襖を指差しながら、浴場で見たのとそっくりな笑顔を見せる。だが裏に潜むものに大きな差があるのは明らかだった。
「……はい…」
とうとう観念した私は大人しく彼女に促されるまま、部屋に向かうのだった。