其の弐 魅琴:中篇
友と別れた少年は再び静まり返った住宅街を俯きながら歩く。最早朱とは言い難いほど赤々とした夕日が彼の右前方に影を作っていた。
ただひたすらに歩いていた彼だが、三つ目の十字路に差し掛かるとぴたりと足を止めて顔を上げた。前方を見据え、ポツリと呟く。
「やっぱ狙いは僕か」
シャン……シャン……
彼の往くはずだった道からかすかに聞こえる鈴の音。だんだんと存在感を増すその音が幾分はっきりとした時、それは姿を見せた。
黒と藍を織り交ぜた巫女服のような装い、片手に携えた小柄な体躯に似合わない刃渡りの長い刀、そして顔に着けた一方が般若、もう片割れが小面の能面。
どこをとっても異様な容姿の少女らしきそれは、腰まではあるであろう白髪を揺らしながら歩いてくる。
「妖人が神職気取りとはね………」
それは少年の数メートル先で一度足を止める。互いに黙り込み、風が頬を撫でた刹那――
それは唐突に駆けた。
少年との距離を一気に詰め、軽く跳躍すると少年の首に向かい思い切りよく刀を振りかざす――が
「舐めんな」
ガキィン、と。
刃は少年の目前で金属同士がぶつかる様な音をたてながら撥ね返る。それは反動でよろけた様にも見えたが、着地と同時に体勢を立て直すと再び少年に突っ込む。
しかし、結果は変わらない。突き出された切っ先は少年に届く前に弾かれる。通用しないと理解したのか、それは少年から距離を取ろうと一歩後ろへ跳んだ。
「ク…ククク…ハハハハハハハハハハハハ‼」
少年が突如豹変し笑う。
「直で突っ込んでくるとか!雑魚かよ笑わせんな!結界すらまともに対処できない屑の相手なんかしてられっか!はーあぁ、あー…もう…冷めたわぁ」
少年はそれにむかってまっすぐに手を伸ばす。
「吹っ飛べ」
瞬時に小柄なそれの身体が宙を舞う。そして滑空の後、空中で何かに打ちつけられた。
「ぐがっっ……!」
それが呻く。何もない空間に突如現れた壁。退路を断たれたそれが少年から逃れる術はなかった。
「じゃあな、潰れろ」
今度は左右から、空間がそれに迫る。
「ッッッ‼くッッ!」
潰されまいと抵抗こそするが空間は圧迫を止めない。
「面倒臭ぇな……さっさと潰れとけ!」
少年の手がより一層力強く伸びると、抵抗するそれの両腕がミシミシと軋んだ。
「がッッ‼あああああああ!」
「ハハ!ハハハハハハハハハハ!……は?」
その時、短く風が吹いた。
同時にそれの身体は解放され、糸の切れた操り人形のように地面に力無く崩れ落ちる。それはそのまま気を失ったようだ。
左右にあった筈の壁は跡形もなく消え去っていた。
見ると、少年の手はもう伸ばされていない。いや、それどころか
「え……?」
「がッアああアアアああ!?腕が!は?え?なんで!?ッッあアアああ‼」
少年の腕はどこにも見当たらなかった。肩関節よりも少し先、二の腕の中腹あたりから、周囲を照らす夕日よりも一層濃い赤をボタボタと垂らしている。
断面は無理に引きちぎられたように汚く歪んでいた。
「全く……馬鹿正直に正面から突っ込んでどうすんだ。不意を衝くか局所展開を誘えとさんざ言っただろうが……」
諫めるような台詞を言いながら、少年とそれとの間に降り立ったのは装飾の少ない地味ながら小綺麗な和服を纏った長身痩躯の男だった。
男は切れ長な目をさらに細め、少し長めの髪をかきあげながらそれに呆れ顔を向けている。
しかし、やがて顔を正すと少年の方を向き直った。
「さて、そんななりにしておいてなんだが、お前に幾つか聞かなきゃいけねぇことがある。素直に答えるなら、拘束こそさせてもらうが命は保証してやる。どうだ?」
顔に似合わない粗暴な口振りで少年に問う。
一方はあはあと息を漏らす少年。何も答えはない。
「ん?やり過ぎたか?おい、答えるぐらい出来ーー」
「…………んな」
「…は?」
「舐めんなよ妖人風情が!」
言うや否や少年がもう片方の腕を振りかざす。しかし――
「遅ぇ」
男は少年の伸ばした、いや、伸ばそうとした腕の先にはもういない。少年の後ろからそっと肩に手を添えていた。
咄嗟に男を振り払おうとする少年だったが、彼にはそれをするための器官がもう存在しなかった。慣れない感覚にバランスを崩し、その場で転んでしまう。
「ッッああアあ‼何なんだよテメェはああぁぁ!」
「先に質問したいと持ち掛けたのはこっちなんだがなぁ。はあ……仕方ねぇ」
「ぐっ…!」
先ほどよりも一層呆れた様子で少年を見下したままその胸を踏みつけると、苦しそうな呻きを無視してそのまま足に力を込めた。
「忌鬼を何処へ移した」
「なっ、どこでそれを…がっ!」
「聞いてんのはこっちだ、何度も言わせんな。どこだ?」
少年の問いを遮るために力を込め直す。さらに増した痛みに苦悶する少年。
しかし、少しするとその表情は笑みへと変わる。
「何が可笑しい、さっさと答えろ。潰すぞ」
「……。ははっ。ばーか……。もう終わりだよ」
目を閉じ舌を出す少年。
その舌に描かれていたのは真っ赤な五芒星だった。
「……なるほど」
瞬間、少年の口元が光る。夕日の赤を搔き消すほどのその光は瞬く間に広がったかと思うとそのまま、消えた。