兄さんは素晴らしい人です
「“兄さんは素晴らしい人です”
あの子は昔から、口癖のようにそう言っていたわ。でも、それが果たして本心であったのかどうか……」
それは彼女が初めて自分の恋人である彼の家を訪ねた時の事だった。大きな応接室で一人彼を待つ彼女のもとに、彼の母親を名乗る人物が突然現れたのだ。
彼からそんな話を聞いていなかった上に、あまりに唐突だったので、彼女は嘘ではないかと疑いかけたのだが、よく見ると彼に似た顔立ちをしている。
恐らく、本当に彼の母親なのだろう。
母親は好ましからず者を見るような目つきで彼女を見つめていたから、気に入れられてはいないのだろうと彼女は思ったのだが、それからその母親から出た言葉は、意外にも彼女を心配するものだった。
ただし、彼女は素直にそれを喜べなかった。何故なら、母親はこんなことを彼女に言ったからだ。
「あの子とこれからも付き合っていく…… 結婚を考えているというのなら、気を付けなさい。
あの子はとても恐ろしい人間なのですから」
自分の息子に対して、随分と酷い事を言うものだ。そう彼女は思った。
ただ、多少は思い当たる節があった。彼女は彼から家族についての良い話を聞いた事がなかったのだ。
――兄のこと以外は。
彼女の恋人は資産家の息子で、彼には兄がいるのだが、兄には家を継ぐ気は微塵もないらしく、実質的に彼が後継者と言って良かった。
そして、家督を自分に譲ったとも言えるその兄を、弟である彼はとても尊敬しているようなのだった。
が、母親は奇妙な事を言う。
「恐らく、兄を駄目にしたのは、弟であるあの子なのです」
何を言っているのだろう?
そう彼女は不思議に思った。それを察したのか、そんな彼女の疑問に答えるように、それから母親は語り続けた。
「あの子の兄は、中等部になるまでは非常に素晴らしかったの。勉強も運動もできて、人格も高潔。リーダーシップもあって、私達夫婦は家督を継ぐのは兄しかいないと思っていたわ。だから、心血を注いで育てた。
ところが、中等部にいる間で突然変わってしまった。家督を継ぐ気などないと言い始め、勉強をしてはいたけど、学校のテストとはまったく関係のないような事ばかりに熱心になっていて、当然、成績は落ちたわ。私達はとても落胆した。
だけど、そんな兄のことを弟であるあの子は“素晴らしい”と言い始めたのよ。何を言っているのか分からなかったわ。
でもある時に気が付いたの。
あの子は、堕落し自分に家督を譲る気でいる兄を素晴らしいと表現しているのだと。駄目な兄を称揚し、そうする事で兄を駄目にし、そして自分が家督を継ぐ気なのだと。
思えば、兄ばかりに気をかけ、私達夫婦は弟の方はぞんざいに扱っていたかもしれない。あの子はずっとそんな兄を妬んでいたのね。それであの子は蛇蝎のような計画を立てたのだわ。言葉巧みに兄を騙し、堕落させてしまった。兄は頭が良かったけれど、とても純心だから、その老獪な計画を見抜けなかったのよ……」
それだけを語ると、母親は非常に満足をしたような表情を見せた。何故かゆっくりと二回ほど頷いた。
「あの子と一緒になると言うのなら、よくよく気を付けるのよ」
彼女はそれにどう反応したら良いのか分からず、ただ「はぁ」とだけ返した。それをどう受け止めたのかは分からなかったが、それから母親は応接室を出て行った。
奇妙な心持ちのまま、彼女は一人、そこに残された。
ただ、それからちょっとの間の後に、また扉が開いたのだった。顔を見せたのは、使用人だった。中年の女性で、気が弱さそうだった。
その使用人はまるで直訴でもするような様子で怯えながらこう言った。
「申し訳ございません。聞いてはいけないと思いながらも、奥様の話を聞いてしまいまして、差し出がましい真似かとも思ったのですが、どうしてもお伝えしたいと思い……」
言い訳でもするかのような口調で、その使用人はそう言った。彼女は多少戸惑いながら、こう返した。
「落ち着いてください。私はこの家の者ではありません。だから、そんなに畏まらなくても大丈夫です」
それを受け、「はい。分かりました」と言う使用人は、やはり畏まっていた。それから彼女が「それで、なんでしょう?」と尋ねると使用人は語り始めた。
「“兄さんは素晴らしい人です”
弟様が言われているこの言葉は本心なのです。決して、お兄様を貶める為の策略から出た言葉ではありません。
ご両親に充分な愛情をいただけない弟様を、お兄様はずっと可哀想に思っておいででした。それでお兄様が中等部の頃、お兄様はこう弟様に提案したのです。
“自分は家督を継がない。学校の成績も下げる。そうすれば、きっとお母さんもお父さんもお前を大事にするようになるだろう”
もちろん、弟様はお兄様のことを心配しました。それではお兄様はどうなってしまうのか?と。お兄様は、こうお答えになったのです。
“自分はもっと他にやりたい事がある。だから、むしろ家は邪魔なのだ”
と。
実際、お兄様は今、ご自分が為すべき事の為にがんばっておいでです。弟様は、そんなお兄様を心より尊敬しているのです」
そう語り終えた使用人は、とても嬉しそうな表情を浮かべていた。が、それから急速に表情を曇らせるとこう続ける。
「ですが、そのようにお兄様が気にかけてくださったにもかかわらず、ご両親は弟様に充分な愛情をそそいではくださいませんでした……
そして、弟様にとって尊敬できる家族は唯一、お兄様だけになったのです」
それから使用人は請うような視線で彼女を見ると、こう言った。
「信じていただけますでしょうか?」
それを受けると、彼女はゆっくりと頷く。
「はい。なんとなく、そうではないかと思っていました」
そしていつも見せる彼のどこか少し影のある笑みを思い浮かべたのだった。
或いは彼は、恋人である自分に救いを求めているのかもしれない。
そして、そう彼女は思った。