琵琶湖に浮かんだ笹船②リツコの回想
フィクションです。登場する人物・団体・地名・施設等は全て架空の存在です。
実在する人物・団体・地名・施設等とは一切無関係です。
私と中さんが二度目のパン粥を食べた日から二十年以上が経った。あの後、幸いな事にお腹の子供は順調に大きくなり、すくすくと成長を続けて中さんが修理したバイクに乗って高嶋高校へ通い、大学を卒業して就職した。今春から大津の高校で教師生活を始める。まるで若い頃の私を見ている様だとご近所に言われているし、私もそう思う。
「……と言う事で、あなたが生まれた時のお父さんったら感動してわんわん泣いてたのよ」
「ふ~ん、ほんで可愛がってくれたんや」
アルバムには笑顔の私達と中さんが写った写真がたくさん有る。
ここは滋賀県高嶋市。だけど中さんと過ごしたバイク屋さんが有った安曇河町では無い。私の実家がある高嶋町だ。今日は娘が旅立つ日。大津のアパートへ引っ越す日だ。
◆ ◆ ◆
私達を愛してくれた中さんは六十五歳を過ぎた頃に体調不良を訴えた。
「腹具合が変やから診てもらおう」
「そう言えば食欲が無いわねぇ」
そんな事を言いながら気楽に受けた診察だった。だけど、結果は思わしく無い物だった。中さんを見てくれた医師はかつて常連だった真野澄香ちゃんだった。
「おじさん、リツコ先生……お久しぶり」
パソコンの画面見た澄香ちゃんの表情が固まった。その表情は検査結果が良くないことを語っていた。
「澄香ちゃん、おっちゃんは覚悟できてるから教えてくれるか?」
「おじさん、リツコ先生……悪い状況です」
それから亡くなるまでの一年足らずの間、中さん後継者を見つけて一切合財を片付けた。店の跡継ぎは私達が知り合った頃に店に来ていた本田君だ。大学を卒業後に県外の大きなバイク部品の会社へ勤めていたみたいだけど、ストレスで体調を崩して高嶋市へ戻って来たのだ。今では中さんのお店は『本田サイクル』と名前を変えて夫婦で営業している。全部をきちんと片づけて逝ってしまった辺りが中さんらしい。
◆ ◆ ◆
娘は幸いな事に娘は私の様に料理下手にはならず、自動車の運転も普通に出来るようになった。
「本当に付いて行かなくって良いの?」
「大丈夫やって、心配し過ぎやで。何か有ったら電話するしな。行ってきます」
お父さんっ子だったからか話し方が中さんソックリだ。私と違って関西の大学へ進学したからだろう。関西訛りが抜ける事無く成長した。
ブロロロロ……。
中さんに『また一人になってしまう』と言われて二十数年、結局私は一人に戻ってしまった。この二十数年で料理は出来るようになったし友人も増えた。だけど、家に戻れば私は一人。覚悟はしていたけれど寂しい。
◆ ◆ ◆
娘が巣立って数日が経った。寂しさは増すばかり。でも再婚しようとは思わない。今さらな気がするのと、中さんが亡くなった時に他の男に抱かれまいと心に決めたからだ。
「寂しくなんか無いも~ん。お酒が有ればいいも~ん」
縁側でビールを呑みながら日向ぼっこが心地よい。
「ハァ……ひとりで呑んでもつまんない」
カサッ……カサカサッ……。
スルメを肴にビールを呑みつつボ~っとしていたら可愛い侵入者が現れた。
「ニ~……ニ~」
「何だお前は? お母ちゃんとはぐれちゃったの?」
「ニ~」
庭に現れたのは白い仔猫だった。
「……」
「ニ~」
今思うと私は中さんの家に迷い込んだ仔猫のようなものだった。餌付けされて居付き、抱きしめられて愛し合ったあの日々は私の最高の思い出だ。そして、中さんの温もりはもう感じる事が出来ない。
「おいで」
「ニ~」
私はこの白猫に『ミドル』と名付けて飼う事にした。
ここは琵琶湖の西にある高嶋市。若者のバイク離れが進む中、当然の様に高校生がバイクの免許を取りバイク通学をする珍しい街だ。この街にはかつてバイクに魂を吹き込むと言われた小さなバイク店が有った。その店のバイクは常にライダーに寄り添い、ライダーを笑顔にしていたそうだ。今でもその店は有る。もしもバイクが欲しくなったのなら安曇河に有る小さなバイク屋さんへ行ってごらん。バイク修理の名人のおっちゃんと、元気なおばちゃんが出迎えてくれるはずだ。
「いらっしゃい、速人~!お客さんやで~」
「バイクが欲しい? で、どんなふうに使う? 予算は? ……条件を聞こうか」




