琵琶湖に浮かんだ笹船①
フィクションです。登場する人物・団体・地名・施設等は全て架空の存在です。
実在する人物・団体・地名・施設等とは一切無関係です。
年末も押し迫り、修理の預かりも無くなったので本日は機械のメンテナンスや在庫部品の整理なんかをして一日が終わった。
今日の夕食は白菜や鶏肉、竹輪にネギに鶏団子、その他糸こんにゃくを鰹出汁で煮込んだちゃんこ風のごった煮だ。少し食べて具が減った鍋にうどんを入れても善し、具を食べきってから雑炊にしても善し。我が家の冬定番の料理だ。
「なぁリツコさん」
「な~に?」
リツコさんは俺のどてらを着てコタツから離れようとしない。足元が冷たい事だし今日はコタツで食べる事にしよう。
「今日安浦刑事が来てな、今都の話を聞いたんやけど物騒みたいやな。俺らの頃より危ないくらいと違うか?」
今日は珍しくお酒を呑まないリツコさん。体が冷えたのだろうか顔色が良くない。いつもなら料理をつつきながら呑むのに、今夜はちょこんと座ったままだ。
「どうしたん?」
「何だかムカムカするの……うっ!」
口を押えたリツコさんは、脱兎のごとく洗面所へ駆けていった。洗面台に突っ伏しているので背中をさする。
「ウエェェ……気持ち悪い……ううっ……」
「大丈夫?」
一緒に暮らし始めて数か月が経っている。結ばれて数か月間、俺達は何度も愛を確かめ合った。睾丸炎の後、検査結果を見た医師に子供が出来る可能性は琵琶湖に浮かべた笹船を上空から見て発見するような確率だと言われた。奇跡の様な確立だ。だが、もしかすると奇跡が起きたのかもしれない。
「リツコさん、もしかしていつもと違う物を食べたいとか無い?」
「ある……サッパリしたもの」
真っ青になって相当気分が悪い様だ。檸檬だろうか、それともグレープフルーツだろうか。もしかするとオレンジだろうか、酸っぱい物だろうか。
「サッパリしたもの?」
「土佐文旦……」
これはまた季節はずれな物を言ったものだ。
「ごめん、それは季節外れで用意できん」
「でも気持ち悪い……今日は寝る」
食いしん坊万歳のリツコさんが食事をせずに寝るとは相当気分が悪いに違いない。
「お風呂はどうしよう、入ってから寝るやろ?」
「シャワーを浴びてから寝る……ううっ……」
シャワーの為、ボイラーに火を点けている間もリツコさんは洗面台に突っ伏していた。
「今夜はリツコさんの部屋に布団を敷こうか? そのほうが落ち着くやろ」
「寂しいからイヤ、一緒に寝て。抱っこして寝て」
お湯が出るようになり、シャワーを浴びたリツコさんはモコモコのパジャマに着替えて布団へ潜り込んで行った。相当具合が悪いらしい。明日は病院へ連れて行こうと思う。
「リツコさんによそった分は……食っとくか、勿体ないしな」
久しぶりに独りで食べた夕食は味気なかった。俺一人が入るのに湯船に湯を張るのも勿体ない話なのでシャワーを浴びて布団へ入った。
「中さん、抱っこ」
「ん、抱っこ」
熱は無い様だ。もしかすると、もしかするのかもしれない。
◆ ◆ ◆
翌朝、バンのリヤシートを畳んで毛布を敷き、簡易ベッドの様にしてリツコさんを寝かせた。目指すは高嶋市民病院。寝不足でフラフラになったリツコさんを診察に連れて行く。受付を済ませ、呼ばれたリツコさんと診察室へ入って結果を聞く。
「おめでたですね。三週間と言ったところでしょう」
「へへっ……やっぱりね」
「子供が出来る確率は『琵琶湖に浮かぶ笹船を上空から見つけるような物』です」と医師に宣告されて十年以上になる。まさか四十を過ぎて結婚をして、子供まで授かるとは思わなかった。
「嬉しいんですが、悪阻がひどいのは何とかなりませんか?」
「気持ち悪いです~」
「悪阻のメカニズムは詳しく解明されていませんが、旦那さんが甘い御夫婦は酷いようです」
「……」
心当たりがある。
◆ ◆ ◆
ブロロロロロン……。
バンの荷室に寝かされた私はエンジン音を聞きながらウトウトしていた。床下から伝わるエンジンの鼓動が心地よい。夢見心地で揺られて十数分、お家についたみたい。
「リツコさん、歩ける?」
「うん、中さんは大丈夫?」
吐き気で眠れなかったからだと思うけど、フラフラする。
「力が入らない、抱っこ」
「落としたらアカンから支える」
昨夜はトイレと布団の往復だった。体は怠いけれど、抱っこは万が一のことを考えるとダメか。彼に支えられて布団まで戻った。
「リツコさんは休んでおいて、お腹が空いてるやろ?何か食べられそうな物は有るか?」
「パン粥なら食べられそう。甘~いパン粥が食べたい」
「チョットだけやらなアカン事が有るから。その後で作るしな」
中さんはそう言いながら先月のカレンダーとマジックを出して来た。『本日、臨時休業いたします』と書いて、テープを片手に外へ行ってしまった。
「さっき仕事場には連絡をしてくれてたし、休ませてもらおうっと」
一応、竹ちゃんにもメールを入れておく。すぐに返事が返ってきた。
「なぬ?『鬼の攪乱ですねw』だと? 悪阻が治まったら折檻だ」
怒ろうにも体に力が入らない。仕方が無いので眠ることにした。昨夜は大騒ぎで寝るどころじゃ無かった。……眠い……。
◆ ◆ ◆
「リツコさん、パン粥が炊けたで」
三十分ほど眠ったのだろうか、中さんの声で目が覚めた。甘い匂いがする。
「あ、ゴメンね。寝ちゃった」
「大丈夫か? 食べられるか?」
食パンを砂糖と牛乳で煮込んだパン粥。そう言えば去年、インフルエンザで寝込んだ時も作ってもらったっけ。まさか今年も食べる事になると思わなかった。
「熱いしフーフーしてから食べるんやで……ア~ンして欲しいか?」
まるで子ども扱いだ。だったら甘えちゃおう。
「あ~ん」
「ちょっと熱いかもやで」
パンと牛乳の香りのおかげで食欲が出て来た。
「美味しい」
「そうか、良かった」
熱々のパン粥を食べていると、ガス欠になった体にエネルギーが染み渡って行くように思える。甘いパン粥を食べた後は苦い薬を飲んで、歯を磨いてから再び布団へ入る。お互いにトイレに行ったりすると落ち着かないからと、一緒に寝るのではなくて布団を並べて敷いて寝る事にした。布団から何から全部してもらって何だか申し訳ない。お互いの布団に入ってウトウトしながら会話をする。
「ねえ、中さん。昨日『何か食べたいもの』って聞いて来たけど、もしかして酸っぱい物とか思ったりしたの?」
洗面台に突っ伏してゲーゲーしていた私に彼は何か食べたいものは無いか聞いて来た。多分だけど、中さんが望んだ答えは『酸っぱい物』だ。鈍感な私でも分かる。
「なぁリツコさん、俺は奇跡って信じん人間なんやけどな」
「うん」
中さんが言う奇跡とは赤ちゃんが出来る事だろう。彼は若い頃の病気が原因で子供の出来る確率が限りなく低い。いつだったか『琵琶湖に浮かべた笹船を空から見つけるようなもの』って笑ってた。分母が大きいなら分子を増やせばよいと思って、私は積極的に彼を抱いていたし、彼も応えてくれていたと思う。
「今回ばかりはな」
「うん」
「驚いた。努力って実るんやな」
少し前、中さんが台所で生卵をジョッキに割り入れて飲んでいる姿を見た事が有る。映画でボクサーがやっていたスタミナをつけ方を真似したのだと思うけれど、その後でお腹を壊していた。スタミナ飲料の瓶が捨てられていたのも見た。彼は私の為に見えない所で必死に頑張っていたのだ。
「奇跡が起こってほしいと思った。まさか起こるとは思わんかったで」
「中さん、そっちのお布団に行くね」
こんなにうれしそうにする中さんは結婚式以来だ。
「俺は愛する女の願いを叶えられんアカン男や。ナンボ頑張っても、もう子供は出来んのや……そう思ってた」
「中さんはアカン事無いよ」
「そうか、俺はアカン事無いか」
「そうよ……自信を持って。パパになるんだから」
中さんを抱きしめているうちに眠ってしまった。
翌朝、目を覚ました私は一人で中さんの布団に寝ていた。
「ふんふんふ~ん♪」
台所から鼻歌が聞こえる。中さんだ。この匂いはお粥かな?
「中さん、おはよう。大丈夫?」
「おはようさん、あ、そうそう。学校には休みますって言うといたさかいな。俺も今日は休む。ゆっくりしような」
「……うん」
中さんはいつもと同じ様に鼻歌を唄いながら台所に立っていた。




