桜の季節
フィクションです。登場する人物・団体・地名・施設等は全て架空の存在です。
実在する人物・団体・地名・施設等とは一切無関係です。
高嶋市には桜の名所が有る。最も有名なのは海都大崎の桜だろう。
「桜が綺麗なのは良いけど、危なくて仕方が無いや」
「ホントに危ないもんな。マナーもへったくれも無いんやから」
桜の開花時期に合わせて酷くなるのが高嶋市の市役所バスの利用者のマナー。
追い抜きざまに窓から降ってくるゴミで事故を起こす事も在る。
後から迫って来ないかミラーを見ながら走らないと危ない。
「葛城さんが前のビョンビョンを傷めたんやったっけ?」
「プロでも危ないんだから、僕たちはもっと慎重に走らないと」
去年、リトルカブに乗る絵里が市役所の無料観光バスの窓から捨てられた酒ビンでヘッドライトを割っている。今年の理恵達のバイクにはドライブレコーダーが装備してある。何か有れば証拠を突き出す事が出来る。今までの様にに泣き寝入りはしない。
「絵里みたいに怖い目に会いたくないもんね」
「桜が無い道を通れば市役所のバスは通らないはずだよ」
市役所の無料観光バスの目当ては海都の桜。花見へと向かう今都の住民を乗せて走る。
理恵達はミラーを見て周囲に注意を払い、慎重に161号線バイパスを走行した。
今年の高嶋高校はバイク免許取得・バイク通学規定が強化された。
例年よりも新入生がバイク通学を始めるまでが遅い。それが幸いしたのだろう。
市役所のバスから投げられる酒瓶や空き缶で事故や怪我をする高校生が少ない。
花見シーズンは特に多い修理だったが、今年は皆無に等しい。
「いつもやったら新入生がバイクを壊したりで忙しいのに、ちょっと暇やな…」
さて、そんな桜の季節だが、中は桜がそれほど好きではない。
◆ ◆
今でこそ禿げかけたおっさんの中だが、青春時代は有った。
海都大崎の満開の桜並木の下でデートした事も在った。
『桜さ~ん!』
『中ちゃん!こっちこっち!』
ねだられて買った団子を桜を観ながら食べたあの日…
『ずっと一緒だね…』
『そうやな』
語り合った日々は二度と戻らない思い出だ。
(ずっと一緒…そう思ってたのにな…今度こそはずっと一緒に居たいもんや)
◆ ◆
中は桜よりも花見シーズンに出る季節の菓子が楽しみだったりする。
「桜の季節か…団子でも買うか、それとも饅頭…両方かな?」
今年は高嶋高校のバイク通学の規則が厳しくなったものの売れ行きは悪くない。昨今の排気ガス規制の影響で新車の値上がりが有った分、手頃な中古車に流れてきた顧客も多い。経営に余裕が有れば心にも余裕が生まれる。ささやかな利益とつつましい日々の生活。
(結局、ウチはボチボチやるしかない。金持ちへの道は遠いな)
◆ ◆ ◆ ◆
高嶋高校の図書館はいつの時代も生徒の憩いの場。今日も理恵達仲良しグループは課題をこなしたり本を読んだり。速人の助けもあって早々に課題を片付けた理恵は本を読み始めた。
「理恵ちゃん、何か調べ物?」
「ん~何となく…メカメカした本が読みたくてね~」
理恵は自分の進路について悩んでいた。自分が将来何になりたいのか、何をしたいのか。それが何かが分からない。ただ、何となくだが速人がエンジンを組み立てているのを見るのは好きだったし、オイルの匂いも嫌いではなかった。だが、理恵は女の子。自分がその様な世界へ入って行けるとは思えなかった。
「ふ~ん。また『ゴリちゃんのエンジンをDOHCにして!』とか言うと思った」
「それはお金が掛かるから無理。おっちゃんに止めとけって言われて終り」
ビッグキャブ・ターボのどちらも駄目出しされた理恵はゴリラのスピードアップは諦めた。特に細かな理由は言われなかったが、調べれば調べるほど大島の言う事が理にかなっていることが分かった。
「ちょっと進路について悩んでるんだよね…」
珍しく悩む理恵だったが綾と亮二はいつも通りツッコミを入れる。
「理恵が?珍しい。雨でも降るんじゃない?」
「桜が散ってしまうな」
2人につっこまれたが笑う気にならない。理恵は再び『メカメカした本』を読み始めた。
そんな理恵を優しい目で見る速人だった。
◆ ◆ ◆
ヴロロロロ…プスン
今日もリトルカブ90は快調。湖周道路の桜を眺めながらリツコは帰宅した。
「ただいま~お腹空いた~晩御飯は何?」
「キャベツが美味しい季節やから『重ね煮』やで」
重ね煮はキャベツとひき肉をミルフィーユ状に数段重ねてコンソメで煮た料理。
中お得意の『巻かないロールキャベツ』だ。
「おおっと、久しぶりの重ね煮ですな。ありがたいありがたい」
1人で暮らしていた頃には夢に思わなかった家庭料理。高価な食材が使われている訳ではない。どちらかと言えば大雑把で簡単に作った無骨な料理だ。だが、その料理がリツコの空っぽになった胃袋を鷲掴みにする。完全に餌付けされたニャンコ状態になったリツコは中の背中に抱きついた。
「幸せだなぁ。私は中さんと居る時が一番幸せなんだ。もうあなたを離さないぞ」
「若大将じゃないんやから。冷蔵庫の中のもんを適当に出して」
中に促されて冷蔵庫を覗くと煮物や漬物の他に饅頭と花見団子が有った。
「御饅頭とお団子が有る」
「ご飯を食べたら夜桜見物に行こうかと思ってな」
「行く?」
「行く!」
夕食後、中の運転する軽バンで堤防へ向かう。堤防では満開の桜が2人を出迎えた。
軽バンのテールゲートを開けて並んで腰掛ける。即席のベンチだ。
「桜を見ながら花見酒やったな?俺は運転するからお茶と団子」
「私はホットウイスキー。私だけ呑んでゴメンね」
「こういう静かな花見も悪くないね♪」
「そうや。きれいやなぁ」
桜を観られるのは海都大崎だけではない。数は少ないが安曇河町にも桜は有る。
しかし、大島の眼には桜を観て目を輝かせるリツコの方が美しく見えるのだった。