1-5 アンゲル ポートタウンの列車
なんだここは。車だらけじゃないか!
国際都市ポートタウンで列車を降りて外を見たとたん、アンゲルは都会の風景に圧倒された。
どこまでも連なる真新しい家、信じられないくらい高いビルの連なり、地面を埋め尽くすように密集しているアパート……そして、無限に走っては消えて行く大量の自家用車。空気からは排気ガスのくぐもった匂いがし、遠くの地平線近くの空気も黒っぽく淀んで見える。
ポートタウンは南半分が管轄区領、北半分がイシュハ領で、駅はその境界線に建っているのだが、アンゲルが見ているのはイシュハ側だ。
アンゲルが育った小さな町では、車はめったに通らず、持っている人間も、教会の関係者か公務員くらいだったので、この、だれもが車に乗って移動している光景は、アンゲルにとってかなりの衝撃だった。乗り換えの時間も忘れて、しばらく外の光景を呆然と眺めていた。
こんなところで、やっていけるんだろうか……?
ホームの人の多さにも圧倒されていた。列車の発車時刻が近づくと、アンゲルが今まで見たことのある人間の総数よりもさらに多い人の列が、一斉にホームに現れる。そして、列車が到着すると、入れ替わりにもっと多い数の人間が列車から吐き出される。
いや、とりあえずアルター行きの列車に乗らないと。
アンゲルは頭を振って、額に手を当てた。頭の芯が締められるように痛みだした。ふらふらと外に出るための通路を探し、駅員に『アルター行きはどこですか』と聞き、あと5分で発車すると言われて、あわてて全力疾走して4番ホームまで走り、ドアが閉まるぎりぎりのところで列車に飛び込んだ。
疲れた……。
そのまま通路に座り込んでしまいたかったが、ドアの横に立っている客が、不審なものを見る目でこちらをうかがっていることに気がついたので、座席を探すことにした。
急に走ったせいで、荒くなった息がなかなか落ちついてくれない。とにかくどこかに座りたかった。3つほど車両を通り過ぎたが、混んでいて、開いている席がない。
次がだめだったら通路で倒れてやろうと思って4両目のドアを開けると、二人掛けの椅子の背もたれから、帽子らしきものが出ているのが目に入った。
隣の席には誰の頭も見えない。
「ここ、空いてますか?」
前に回って女性にそう聞いた時、アンゲルは驚きで息が止まった。
なんという美人だ!
そこにいたのは、アンゲルと同じ年頃の女性――しかし、全く別の世界から来たかのように美しい――だった。頭には古風な、花飾りのついた、紺色の、つばの広い帽子をかぶっている。黒髪は美しいつやをもっていて、肩の周りにゆるやかなウェーブを描いている。目は快晴の空のような濃い青だ。肌は光を放っているように見えるほど白い。黒髪と青い目という組み合わせをアンゲルは初めて見た。それに、穏やかな笑みを浮かべているその顔は、まるで聖女のようだ。服装は変わっていた。昔の絵本や芝居で見るような、古びた、乗馬服のようなスーツを着ている。まるでこの座席だけが、何百年も前に戻って、貴族の令嬢と向かい合ってしまったかのようだ。
「空いてるわ……どうしたの?」
アンゲルは、女性が不思議な顔つきで『座れば?』というしぐさで手を動かしているのにようやく気がついた。それまで彼女の顔を見たまま動けなかったのだ。
「すみません」
アンゲルは真っ赤になって席に着いた。隣の女性から何か、嗅いだ事のない香りがただよってくる。香水か?化粧か?アンゲルは女性の横顔をじっと見つめた。美しい。
「私の顔に何かついてる?」隣の美女が彼に笑いかけてきた「人の顔をじーっと見るの、失礼じゃありません?」
「いや、あの、すみません」アンゲルはその微笑みにすっかり心を奪われた「どこに向かっているんですか?」
「アルターの学校に行くの。入学許可が……」
「俺もアルターの学校に行くんです!」アンゲルは頬を紅潮させて叫んだ「これはすばらしい偶然だ!何を学ぶんですか?いや、大学までは専攻なんてないか、俺は心理学をやるんですよ」
「心理学?」彼女は、アンゲルの興奮した様子を怪しんでいるのか、目元を引きつらせて苦笑いをした「人の心を読むの?」
「ああ、みんなそう言うんですけど、ちょっと違うんですよ。人の行動を分析して『こういう傾向がある』っていうことを探る。べつに心を読むわけじゃないんです。それに、俺が目指してるのは心理療法士、臨床心理士っていうんです。聞いたことがないですか?」
「殺人事件の被害者のカウンセリングをしてる人?」
美女が少し首を傾けた。ますます可愛らしく見える。
「そうそう、でも、ほんとうはもっと一般的な悩みも扱うんですよ。離婚とか浮気で悩んでいる人とか、仕事上のストレスとか、試験前にうつ状態になった学生とか、そういう人を援助するんです。そういえば、学校にもカウンセラーが配置されているでしょう?」
「そうなの?」
「そういう時代なんですよ。病気を治すだけじゃなくて、心のほうもみてやらないといけなくなった。特にイシュハは精神病患者が激増してるらしい。だから学問も進んでいる。これはたぶん急激な近代化の弊害……あ」
アンゲルは、自分ばかり延々としゃべり続けていることに気がついた。
「しゃべりすぎたみたいだ。君は何を学びに?」
どうせ結婚するまでの暇つぶしだろうな、とアンゲルは頭の片隅で思った。女性なんてのはみんなそうなんだろう。
町の女の子たちを思い出す。何もかもが遅れている管轄区でも、学校はずいぶん前から男女平等になっているのだが、アンゲルの知っている同級生の女子たちはみな、学校の勉強なんて『花嫁修業』の一環くらいにしか思っていないように見えた。何か集まりがあると、町で一番かっこいい男とか、財産のある家の息子とか、公務員の息子なんかに女の子が群がっていく。アンゲルとその他『財産も地位も容姿も何も持ってない』男の子たちは、遠巻きに彼らを眺めているしかない。
「音楽よ」
エレノアが即答した。
「音楽?」
「私、歌手なの。両親が旅芸人で、私も一緒に仕事をしてきたわ」
「じゃあ、もうプロなんだね?」
「プロよ」美少女が足元に置いてあった小さな赤いバッグから、カードを取り出した「エレノア・フィリ・ノルタ。フィリはドゥロソ人の父、ノルタはアケパリ人の母。どっちもマイノリティーだけど、私はオリジナリティーだと思っているの」
「素晴らしいね!」
何が素晴らしいのかはアンゲル自身よくわからなかった。でも、今目の前にいる美女は、過去に出会った女の子たち(管轄区の、真面目に勉強しない、ほぼ全員『公務員か金持ちの花嫁希望』の)とは、全く違うタイプの人間だということは理解した。
満面の笑みを浮かべながらエレノアのカードを受け取る。そこには、ピンクの地に赤い文字で彼女の名前が印刷してあり『歌の仕事、大歓迎』と小さな文字で添えてある。
「あなたの名前を聞いていないわ。心理学者さん?」
「アンゲル・レノウス」アンゲルは握手を求めて手を差し出した「母親がこの子は天使だって、それがそのまま名前になった、かなり恥ずかしい」
「アンゲル」エレノアが彼の手をとった「いい名前だわ。戯曲に出てきそうね」
アンゲルはその手ごとエレノアをひっぱって、抱きしめたい衝動に駆られたが、そんなことをしたらただの変態だと思って、必死で耐えた。
「実際古典には出てくるが、天使なんてみんな脇役で出番が少ないよね」
「まあ」
エレノアは自分の話を面白がっているようだ。アンゲルは嬉しくなって、彼が目指している心理療法士の話を始めた。エレノアは、音楽大学に行ってオペラ歌手になるのが目標だと言った。アンゲルは、
「心理療法士も、修士号がないと資格が取れないから、俺たちって似たようなもんだね」
と、無理矢理エレノアと自分を関連づけて喜んでいた。
そんな話をしているうちに列車はアルターにたどり着いた。アンゲルは、エレノアの大きなスーツケース(『何が入ってるの?』と聞いたら『衣装よ』と答えた)を駅の出口まで運んであげた。エレノアは昔の貴族のような大げさな一礼をして、それが服装とあまりに合っていたのでアンゲルが大笑いした。ついさっきまでイシュハの街に圧倒されていたことも忘れて、二人でアルターの学校の門をくぐり、女子寮の前で別れた。
「きっとまた会えるよね?」
「同じ学校だもの。見かけるわよ」
エレノアが女子寮の中に入っていく。その後ろ姿を見ながら、アンゲルは、
『これは運命だ!運命なんだ!』
と、若い男にありがちな勘違い発言を、頭の中で繰り返していた。