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アンゲルとエレノア  作者: 水島素良
最終章

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291/294

15-15 アンゲル フランシス ヘイゼル 劇中

 オペラは、意外な方向に話が進んでいった。

 遊び人の男と関係を持ったせいで城を追放された女が自らを恥じて命を絶ち、娘が復讐のために男を殺しに行く。ここまでは老婦人から聞いたとおりだ。

 娘が恋に落ちるのは遊び人本人ではなく、その息子だった。父親の放蕩を恥じている真面目な青年である。

 舞台の上では、不自然なくらい綺麗な顔のテノール・グレンが歌っている。彼はイシュハではもう(いろいろな意味で)名の知れた存在である。

「あいつが遊び人のほうがよかったんじゃないか」

 後ろの席から、誰かのささやきと、『シッ!』と注意する声が聞こえてきた。

「だから言ってるじゃないの、芸術には立場も心も関係ない」隣の老婦人が舞台から目を離さずにつぶやいた「人間のクズみたいな男でも、歌だけはすばらしい。そういうことはよくある」

「そんなにひどい奴ですか」

「あんなクズはめったにいないわね。女は襲う、親にも暴力をふるっていたという話。親に暴力をふるう男はね、いつか、自分の妻や子供にもふるうの。だからああいうのとはぜったいにかかわりを持っちゃいけない。麻薬をやっているという噂もあるわ。ゴシップ雑誌の悪い話の常連よ」

 もちろんアンゲルもグレンが嫌な奴だとは知っていたのだが(エレノアを襲おうとした男だ!)そこまで有名だとは思っていなかった。

 舞台の上では、エレノアとグレンがレチタティーヴォで会話中。お互いの親について話しているのだ。自分の父親のせいで娘の母が死んだことを知ると、青年は衝撃を受けて、自分が死んで償おうとする、娘はもちろんそれを止める。

 アンゲルは、自殺したクラウスのことを思い出していた。何が彼を死に追いやったのだったか。信仰か、周囲の理解のなさか。親のせいでないことは確かだ。管轄区の親たちに『女神が信じられない』などという言葉を理解しろと言っても、不可能だ。

 女神の仕業か。

 アンゲルはそこまで考えて、頭を振って下を向いた。そして、舞台に集中しようと顔を上げた。

 すると、エレノアとグレンが抱き合っているのが見えた。思わず目をそらすと、老婦人がなぜかこちらを見ていて、目があった。

「あなた、さっきから全然舞台を見ていないわね」

「いえ、あの」アンゲルは正直に言うことにした「あの、ソプラノが、僕の友達なんです」

 友達、という言葉を使っていいのだろうかと、口に出してから思った。

「あら、ほんと?」

 大して驚いてもいないようだ。老婦人は舞台に目を戻した。アンゲルもおそるおそる舞台を見た。ちょうど、グレンが『父親と話をする』と歌いながら舞台を去っていくところだった。

 場面は次の章に移った。もう遊ぶのはやめてくれ、と頼む息子を、遊び人は笑い飛ばす。

『この人生は何のためにあるのかね。楽しむためにあるのだ!』

 大きすぎる付け髭が印象的な大男が、せせら笑うように歌う。この曲は、なんと、イシュハの国歌でもあるのだ。『品がない』『独裁的だ』と世界各国から非難されているその歌詞はこうである。


『豊かな土地は?俺のもの!

 快楽は?俺のもの!

 この世の良きものすべては

 俺のもの!俺のもの!俺のものだ!

 女神がすべてを欲している!

 女神はすべてを認めている!

 だから俺も欲するのだ!』


 なんか、ヘイゼルみたいなやつだなあとアンゲルは思った。そういえば誰かが『シュッティファントはイシュハそのものだ』と言っていたっけなあ。VIP席にいるヘイゼルは、いったいこのオペラをどう見ているのだろう……いや、見てないな。きっと寝てるか、フランシスと言い合いをしているかどっちかだな。

 アンゲルがどうでもいいことを考えていると、舞台の上では取っ組み合いのけんかが始まった。息子がめずらしく(たぶん人生で初めて)父親に殴りかかったのである。

 その物音を聞いて、衣装箱の中に隠れていた娘が悲鳴を上げる。

『今、小鳥のような声が聞こえた』

『小鳥だって?』息子が慌てている『そんなことを言ってまた僕を馬鹿にしているのか?』

『いや、確かに聞こえた。女神を地上に呼び出した歌うたいのような声だ』

『歌だって?ハハハ(わざとらしい笑い方だ)耳がおかしくなったんじゃないのか?』

『いいや、俺の耳が女の声を聞きのがすはずがない』

 男が衣装箱を開けると、そこにはもちろんエレノアがいる。

 そして、3人でのアリア(怒鳴り合い)が始まった。

「下世話な喧嘩をお上品にできるのが、オペラのいいところだわね」

 老婦人がまたつぶやいた。

 話の展開など、アンゲルにはもうどうでもよかった。エレノアしか見えていなかった。激怒の顔で金切声のような高声のアリアを延々と歌い続けていても、エレノアは美しかった。そして、あまりにも遠かった。

 もう、会えなくなる。

 どうしたらいいんだ?

 舞台が暗転した。アンゲルは音をたてないように立ち上がった。

「どこへ行くの?まだ休憩じゃないわよ」

 後ろから老婦人の声が聞こえた。アンゲルはほかの観客の邪魔にならないように身をかがめてホールの隅まで移動し、出口に向かった。


「どこへ行く気?」

 廊下に出た途端、アンゲルの目の前に立ちふさがったのは、フランシス・シグノーだった。真っ赤なドレスを着て、目に悪いほど鋭い光で輝く白いダイヤを、首にも腕にも幾重にも巻いていた。そして、顔はいつものフランシスらしく、意地悪くアンゲルを睨みつけていた。

 目を合わせたくないアンゲルは下を向いたが、フランシスの赤いドレスの裾が大きく破けて、白い足が太ももの真ん中まで丸見えになっていることに気がついて、慌てて顔を上げた。

「またヘイゼルとケンカしたの?」

「どこへ行く気?」

 フランシスに、アンゲルの話など聞く気があるはずがない。

「ちょっと気分が悪くなってきたから、休憩しようと思っただけだよ」

「どうかしら」

 フランシスはせせら笑うような笑みを浮かべ、横目でアンゲルを睨んだ。

「エレノアが美しいテノールといちゃついてたから嫉妬したんじゃなくて?」

「違うよ」アンゲルは開いている椅子を探しながら顔をしかめた「ここは俺みたいなのが来るところじゃない。どうにも気後れする……お前らには理解できないだろうな」

「お前らって何!?私とヘイゼルを一緒にしないで頂戴!」

「ちょっと黙っててくれる?頭痛い」

 アンゲルは頭を手で押さえながら、ロビーの椅子に座った。座り心地のいい椅子だ。前に行ったヘイゼルの別宅を思い出した。確かあの椅子は俺の授業料一年分?いや、生活費だったかな?どっちにしても不愉快だ!余計なことを思い出してしまった……。

「いいことを教えてあげましょうか」

 フランシスが隣の椅子にどさっと身を投げ込んで、ふうーっと長い息を空中に向かって吹いた。

「あたし、オペラが大嫌いなの」

「は?」

「大昔のジジイの妄想じゃないの。古臭い音楽と甲高くて耳障りな声!」

「管轄区でそれを言ったら大変なことになるんだよ」

「ここはイシュハなのよ!!」

 フランシスがすさまじい声で怒鳴ったので、アンゲルは椅子から飛び上がった。耳がひりひりする。まるでヘイゼルだ!やはりこの二人は良く似ている!

「いいこと、ここはイシュハなのよ?おわかり?」

 フランシスはアンゲルの服の襟をつかみ、無理やり椅子に引っ張り戻した。そしてアンゲルの耳元で、

「あなたは今イシュハにいるのよ、イ・シュ・ハ。おわかり?」

「何だよ!?わかってるよ!手を離せ!」

 アンゲルはもがいたが、フランシスはがっちりとアンゲルの首元をつかんでいた。

「ほんとにわかってんの?ここは自由の国なのよ。新しいものの国なの。ポップスとヒップホップの国なのよ。どんな薄汚い意見でも発言は自由なの。何をしようと自分の勝手なの。どんな服を着ようが、どんな学問を学ぼうが、誰を愛そうがね」

 フランシスの声は低くて怖かったが、アンゲルはもがくのをやめた。何を言おうとしているのか、なんとなく察しがついたからだ。

「なにが『管轄区だったら』よ?ばかばかしい」

 フランシスはアンゲルの首から手を放すと、指をぱちんと鳴らした。

 通路の向こうから、タキシード姿の男が現れた。ワインボトルとグラスを持って。

「オペラの最中に飲むのかよ」

「うるさいわね。私の勝手よ。どうせ見てないからいいのよ」

 男がワイングラスにワインを注ぐ。フランシスは注ぎ終わるのを待たずにグラスをつかんで、一気に飲み干した。口の横から赤い液体が垂れている。

 まるで大きな子供だ。アンゲルは顔をしかめながら笑った。こんなのと一緒に暮らしていたエレノアは、きっと大変だったろうなと思った。そして、こんな女にちょっかいを出し続けるヘイゼルの気持ちも、少しだけわかった。

「言いたいことはわかるんだけどさ」アンゲルは独り言のように言った「俺は管轄区の人間なんだよ。実際狙われてるのは知ってるだろ?自由の国に来たからって、イシュハ人と同じように何でもできるってわけじゃない」

「フン。そんなのは言いわけよ。エレノアに振られるのが怖いのね」

「かもね~」

 反論する気も起きなかったので、アンゲルは曖昧な返事をした。

「ヘイゼルが前に言ってたよ。人は育った国や家や環境と分かちがたく結びついているものだと」

「ヘイゼルのくせにそんな偉そうなことを?」

 口の周りに赤い液体が付いたフランシスは、まるで吸血鬼のようだ。

「俺が『家の名前を自分から外して考えてみろ』なんて余計なことを言ったからだよ」

「確かに余計ね」フランシスは容赦がない「あんたも、余計なこと考えてるわよ」

「何だよ」

「エレノアをなめてるのよ」吸血鬼がアンゲルの目前に迫ってきた「『俺は問題だらけだからエレノアは別な人を選ぶだろう』と思ってるわね?」

 アンゲルは黙っていた。フランシスは本当に吸血鬼のような、獲物を狙っている目でアンゲルを睨みつけながら、

「エレノアは、あんたをずっと待ってたわ。今も待っているのよ。そんなこともわからないような頭なら、どんな学問をやったって無駄ね」

 冷たい声でそう言った。

 幕間の休憩に入ったのか、ホールから観客がぞろぞろと出てきた。アンゲルとフランシスは、しばらく黙ったまま、目の前を行きかう人々を見つめていた。その中に、二人並んで、仲良く微笑みながら歩いていく男女の姿があった。誰が見ても、相思相愛だとわかる暖かさをあたりに発しながら、二人はカフェカウンターの方向へ歩いていく。

「あんたたちだって、ああなれるわよ」

 フランシスがつぶやいた。アンゲルがフランシスのほうを見ると、無表情で空中を見つめていた。

「ばかばかしい抵抗をしなければね。ほんと、くだらない……」

「おお~ここにいたかご令嬢よ!!」

 ヘイゼルが歩いてきた。フランシスは勢いよく立ち上がると、同時にワインボトルをつかんでヘイゼルのほうに投げようとした。

「やめろって!」

 アンゲルがうしろからつかみかかって止めた。フランシスは意外とおとなしくワインボトルを下ろした。ヘイゼルはあいかわらずだ。ニヤニヤしながら近づいてくる……が、よく見ると、スーツの袖が取れかかって、縫い目の糸が怪物の歯のように見えていた。どうやら、劇中のケンカは相当派手だったようだ。

「エンジェル氏、いいかげんこっちの席に来ないかね。席は常に空いてるのだぞ」

「やだよ。ケンカに巻き込まれたくない」

「途中で出て行ったようだが、何かあったのかな?」

 ヘイゼルがニヤニヤしながらそんなことを言ったので、アンゲルはぎょっとした。

「俺の行動を監視しないで舞台を見ろよ!」

「あんな狭い席で呼吸困難にならないかね?」

「狭くなんかない。あれが普通だ!」

 アンゲルはこれ以上ヘイゼルと話したくなかったので、ホールの中に戻ることにした。後ろから、聞き覚えのある『お二人とも何をしているのですか!?』という声が聞こえてきた。白ひげだ。これから長い長い説教が始まるのだろう。

 アンゲルは自分の席を探しながら、考えていた。

 エレノアはあんたを待ってたわ。今も待っているのよ。

 フランシスは確かにそう言っていた……。

「どこに行ってたの?いい場面を見逃したわよ。娘が遊び人を殺そうとしてね……」

 アンゲルが席に着くと、老婦人が過ぎた場面の説明をしてくれた。でも、アンゲルはもうオペラのことは考えられなかった。せっかくの説明もほとんど頭に入らない。


 本当に、エレノアが自分を望んでいるなら、自分はそれに答えたい。

 でも、本当に?



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