15-13 オペラハウスの公演日 アンゲル
オペラハウスのイシュハ公演の日。
ここは首都の大劇場。もちろん、アンゲルもヘイゼルもエブニーザも来ている。ホールの入り口前ロビーで、客がパンフレットを見たり、併設されたカフェでコーヒーを飲んだり、開演前に思い思いの時を過ごしている。
アンゲルは『エレノアの姿を見るの、これが最後になるかもしれないな』と思いながら、ヘイゼルに押し付けられたパンフレットをぼんやりと眺めていた。そこには、時代がかった衣装のエレノアと、誰が見てもむかつくほど美しいテノールが、並んで写っていた。
あたりを眺める。客はみな裕福そうな人たちばかりだ。仕立てのいいスーツやドレス姿、一杯10クレリンもするコーヒーを金の心配などせずに普通に注文し、高いオペラを何度も見に来て、去年の公演はよかった、あのソプラノはまずかった、と熱っぽく語る人々。
借り物のスーツを着て、もらったチケットで、シュッティファントの車に乗せてもらって(正確に言うと『無理やり押し込められて』)ここにいる自分が、一人だけ浮いているようにアンゲルには感じられた。
「エレノアに会いに行かないんですか?」
エブニーザが近寄ってきた。両手に高いコーヒーを持っている。
「いらない」
「僕だって2杯も飲めませんから」
エブニーザは不機嫌そうに言うと、アンゲルの顔面にコーヒーカップを押し付けた。アンゲルはあわてて受け取る。
珍しい、エブニーザが強引だ。
「きっと、会いたがってると思いますよ」
「公演が終わってから会えるよ。パーティだろ。フランシスの」アンゲルはなげやりな調子で言った「どうせまたヘイゼルが暴れるんだぞ」
「今日は暴れませんよ」
エブニーザが自信ありげに言った。
「なんでわかる?予知か?」
「もっとすごいことが起こるんです。ヘイゼルがケンカをする気もなくなるようなことが」
「何だよそれ」
「教えられません」
エブニーザは意地悪そうに笑うと、立ち上がって、オペラ談義をしているカフェの客に近づいて行った。かなり年配の老人が、エブニーザの顔を見て、笑いながら手を挙げた。どうやら知り合いらしい。二人でなにやら話をし始めた。やはりオペラの話をしているのだろうか。
アンゲルはコーヒーを一気に飲み、軽くむせながら立ち上がると、一人でホールの中に入って行った。席に座ってゆっくりと考えたかった。何を考えるかまでは決めていなかったが、とにかく、裕福な人たちがくつろいでいる場所から離れたかったのだ。
たぶん、オペラを見るのは、人生でこれが最後だろうな。
エレノアを見るのも。
数日前のエレノアの姿を思い出す。言われた言葉もだ。『あなたと一緒にいたい』と確かに言っていた。聞き逃すはずがない。でも、アンゲルが愛を告白した途端、エレノアの表情が固まってしまった。なぜだ?アンゲルはずっと考え続けているが、悪い答えしか出てこない。
エレノアは自分に好意を持っていたけど、いろいろな事情があることに気がついて、嫌になってしまったのではないだろうか、と。
アンゲルは管轄区人である。そして、心理学を専攻したというだけで、祖国から狙われる身になってしまった。大学を出て医者になれたとしても、将来はそう明るくない。殺される可能性だってある。現にエブニーザが『患者に刺される』と予言しているではないか。アンゲルはその予言を信じたくなかったが、エレノアが『こいつとかかわるといいことがなさそうだ』と判断するのには、今の自分の境遇で十分だとも思う。
しかも、エレノアはオペラハウスのマドンナで、もうスターなのだ。将来も約束されている。
「オペラは初めて?」
隣から声がした、見ると、上品そうな、白髪の老婦人がこちらを見て微笑んでいた。柔らかい印象で、頭にはウールの小さな帽子が乗っている。
「はい」
「だと思ったわ。なんだか緊張しているように見えたから」
「そうですか?」
「ええ。私がオペラに初めて来たときもそうだった。昔はね、今と違って、本当に裕福な一部の人しか、ここには入れなかったのよ」
今だって、一部の裕福な人しか入れませんよ!
アンゲルは頭の中だけで叫んだ。
「身分の高い人しか入れないところだったの。でもだんだん、一般人でも入れるようになって……今日のこの演目、私が初めて見たオペラなのよ。一生忘れられないわ。なんて美しい世界がこの世にあるんだろうと思ってね」
「そうですか」
「このオペラの内容をご存じ?」
「いえ」
「どこから来たの?」
「あの……管轄区の、クレハータウンから歩いて10キロくらいの……たぶんご存じないと思いますが」
「管轄区の方なの?」
老婦人が意外そうな顔をした。きっと、この会場に入れる管轄区人は、ほとんどいないのだろう。
「はい」
「そう」老婦人が笑いながら説明した「このオペラはね、遊び人の男が次々と女を落として破滅させ、人生を狂わされたある女の娘が復讐に立ちあがる、そういう話よ」
そんな話だったのか。アンゲルは内容を初めて聞いた。さきほど渡されたパンフレットにも書いてあったはずなのだが、別なことで頭がいっぱいで、気が付かなかったのだ。
「今でいう、人妻や女王とも関係を持つの、それも何人も……ほほほ。男の夢ってやつかしらね」
「復讐を誓った女はどうなるんです?」
「それはあなた、今日これからごらんなさいよ。結末を知っちゃつまらないでしょう」
老婦人はそう言ったが、アンゲルはなんとなく想像できた。エレノアの恋人役が美形テノールなのだ。きっと、復讐を誓った女もその男の手に落ちたに違いない。
管轄区の学校の女の子たちを思い出した。公務員の息子か、『かっこいい』男ばかりを追いかけていた女たち。
思わず深いため息が出る。席に人が増え始めた。ヘイゼルとフランシスは上方のVIP席にいる。本当はアンゲルもそこに席があったのだが『お前と一緒の部屋なんか嫌だ!』と言い張って一般の席に落としてもらったのだ。本当は、金持ちでもないのに特別な席でほかの観客を見下ろすのが嫌だったからなのだが。
この会場だけでなく、身の回りのありとあらゆることに、アンゲルは引け目を感じ始めていた。どう考えても自分に釣り合わない場所で、釣り合わないことをしようとしているという感覚が消えない。
父さんと母さんがここにいたら、きっと喜ぶだろうな。ほとんどの管轄区人は、オペラが大好きで自分で真似して歌うくらいなのに、実際にホールで聞くことはまずないんだ。だから、イシュハでオペラをじかに聞ける自分は、そうとう恵まれているはずだ。
アンゲルは自分にそう言い聞かせたが、それでも、違和感は消えてくれなかった。
「芸術には身分も国も、立場も、心ですら、関係がない」
つぶやくような声が隣から聞こえた。アンゲルははっとしてとなりを見たが、老夫人はまだ開いていない舞台の真ん中あたりをぼんやりと見ていた。昔見たオペラでも思い出しているのか、隣のアンゲルの存在など忘れているように見えた。




