15-5 アンゲル エレノア カフェ
図書館のカフェ。
アンゲルは本を眺めながら悩んでいた。一晩中起きていたのに全く眠気が起きないのだ。
やっぱり管轄区はおかしい。大学を出て医者の資格を取ったら、管轄区に戻らずにイシュハにとどまるか……でも、あの国はどうなるんだ?誰かがなんとかしないといけないんじゃないか?でも、肝心のシュタイナーがそんな恐ろしいことをしているなんて……。
アンゲルは、シュタイナーとイライザ教会を慕う自分の両親や、地元の友達、近所の人……などのことを思い出していた。
みんな、何も知らないんだな。
俺はもう前みたいに彼らを尊敬できない。でもどうすればいいんだろう……?
立ち向かうには相手が悪すぎる……。
「アンゲル」
アンゲルが顔を上げると、エレノアが立っていた。
「きのう、眠れなかった?」
「まあね」アンゲルが困ったように笑った「帰ってから、ヘイゼルにとんでもないことを聞かされて……」
「とんでもないことって?」
「いや、ヘイゼルの作り話かもしれないんだけど……本当だったら、俺は故郷を失うかもしれないな」
「……どういう意味?」
アンゲルは、昨日ヘイゼルに聞いたとおりの内容をエレノアに説明した。
エレノアもショックを受けたようだ。しばらく、運ばれてきたコーヒーに手をつけず、じっとカップを見つめながら無言で何か考えていた。
「それが、本当なら」ようやくエレノアが、とぎれとぎれに話し始めた「犯罪よ。国家的犯罪じゃない?もしかして、人さらいも教会のしわざなんじゃ」
「それは考え過ぎだ……でも、それでも大して悲惨さに変わりはないな」
アンゲルが遠くを見つめる、カフェでくつろいだり、友達とおしゃべりしている学生を眺めているようだ。
「俺はもう、ああいう平和な学生には戻れそうにない」アンゲルが寂しげな笑いを浮かべた「たかが『心理学』のために変な連中には襲われるし、家にも教会のお偉方がやってきたっていうし。そのうえ昨日のエブニーザの話だろ?管轄区って国の実態が、わからなくなってきた。もう信用できないんだ。親も友達もいて、俺のほとんどの人生があそこにあるのに……。でも」
アンゲルがエレノアの方に向き直った。
「もう帰れない。少なくとも、ホームに帰るっていう感じじゃない。永遠にアウェイになったような気分だ。昨日一晩中悩んだ。大学を卒業したら俺はどこへ行くべきか。イシュハに残ろうかとも思ったけど……資格を取ったら、管轄区に戻ろうと思うんだ」
「戻る?」
「あの国を変えたいんだ」
「変える?」
「相手が最高権力者じゃ、できることなんてないけど。底辺にいる困った人間を助けることなら、できると思う。未だに何万人も餓死してる国なんだ。ちゃんと資格を持った医者になって、治療を始めてしまえば……そうすれば、今は理解されていなくても……」
「アンゲル……」
「ああ、ごめん。また俺がしゃべりすぎた。そうだ、エブニーザのことが聞きたいんだろ?今朝見た時はまだ目覚めてなかったけど……」
「さっき会ったのよ」
エブニーザじゃなくて、あなたの話がしたかったんだけど……とエレノアは思ったのだが、聞かれたことには答えることにした。
「そうなの?」アンゲルは驚いたようだ「てっきりまだ寝てるのかと思ってた。どこで?」
「図書館のいつもの場所」エレノアが冷めたコーヒーを口にして顔をしかめた「またパニックを起こすんじゃないかって怖かったけど、話しかけてみたら、静かだったわ。まるで昨日何もなかったみたいに」
「そうか」
「エブニーザは、これからどうするの?」
「恐ろしい話だけど、本人はシュタイナーを慕ってるんだ。殺し屋を雇うような男だって知ってるはずなのに」
「でもそれじゃ……」
「俺が考えたのは、①ヘイゼルに頼んで、シュッティファント家の全力を使ってエブニーザをシュタイナーから引き離す」
「ヘイゼルにそんなことできる?」
「シュタイナーに対抗できる人間がいるかって考えたら、シュッティファントかシグノーしか思いつかないんだよ。それでも資産は10分の1以下だって言ってたけど」
「できるの?」
「ヘイゼルは『無理だ』って言ってたね。おかげで一時間も無駄に怒鳴り合いだ」
「他の手段は?」
「②エブニーザ本人に、シュタイナーと関わらないように気をつけてもらう」
「できるの?」
「俺はできると思う。経済的に自立するだけなら今でも出来てるんだ。予知能力で儲けてるから。問題は、本人がシュタイナーを慕ってることと、シュタイナーのほうからもエブニーザに近寄ってくるってことなんだよ」
「あとは?」
「③行方をくらまして、誰にも知られていない国に亡命してもらう。クーに頼んでノレーシュにかくまってもらうとかね。タフサ・クロッチマーはイシュハ国籍を取って、実質亡命してるんだ。他にも、教会から迫害されて逃げた奴はたくさんいる……これは最近調べて初めて知ったんだ。俺は本当に、自分の国のことを何も知らなかった……」
「あとは?」
アンゲルがさらに沈んだ顔をしたので、エレノアはあわてて次を促した。
「④妄想の女の子に出て来てもらって『あなたは一人でも生きていけるわ。シュタイナーとは縁を切って』と言ってもらう」
「冗談でしょう?」
エレノアが苦いものでも噛んだような顔をした。
「半分冗談で、半分本気」アンゲルがにやけながら顔をしかめた「妄想だとしても、エブニーザが一番影響を受けてるのがその女の子なんだよ。彼女が本当に存在してたら、思うがままエブニーザを操れるだろ?シュタイナーなんて吹っ飛ばせる」
「本気?」
「本気。本当に好きな女の子のためなら、男は無謀なことを平気でするもんなんだよ」
「アンゲルもそうなの?」
エレノアが真面目な顔で、アンゲルの目を覗き込んだ。
アンゲルはエレノアの青い、澄んだ眼から視線をそらせなかった。
しばらく無言で見つめ合う二人。
「あー」先に目をそらしたのはアンゲルだった。真っ赤になって横を向く「まあ、そう、そうかもね。……とにかく、エブニーザにはこれ以上余計な苦労をしてほしくないと思わない?」
「そうね」
エレノアはがっかりしながら答えた。私に何か言ってくれると思っていたのに!
「昨日の殺しの話だって、あいつのせいじゃない。俺だって同じ立場だったら……」
アンゲルが暗い顔でうつむいた。エレノアも、これ以上何かを質問する気分にはなれなかった。気持ちを伝えたいと思っていたのに、言い出せなくなってしまった。
国の問題、権力の問題、犯罪、過去……。手に負えないことばかりだ。




