15-4 エレノア 図書館に行ってみる
朝。
目覚まし時計が鳴っている。それも大量に。
起きなきゃ、とエレノアは心だけでうめいていた。しかし、体が全く動かない。何かで縛られているみたいだ。重い。
「ちょっと!いいかげん起きなさいよ!」フランシスがドアを蹴りながら叫んでいる「もう十分以上鳴り続けてるわよ!うるさいっつの!」
「ちょっと待って……」
やっとのことで絞り出した声。エレノアは少しずつ目ざめ、そして少しずつ、昨日のことを思い出した。エブニーザにナイフを突き付けられて、フランシスがそのエブニーザを殴って……。
エレノアが起き上がり、たくさんの目覚まし時計をすべて止め終えたのは、さらに三十分ほど経ってからだった。
寝ぼけた顔でドアを開けると、フランシスはいなくなっていた。テーブルの上に、
『先に食べてるわよ!!』
と乱暴な字で書かれたメモがあり、おそらく投げ捨てられたのであろうと思われるペンが、床に転がっていた。
朝食……食べる気しないわ……。
椅子に座り、ぼんやりと窓の外を見つめる。快晴、雲ひとつない。いつもなら嬉しいはずの良い天気。でも、今はこの空の果てしなさが、朝の静寂が、どこか空しい。
エブニーザのことを思い出す。
過去だけでもあんなに過酷なのに、未来にも苦しめられている。
しかもその未来は、自分にしか見えない。
誰にも信じてもらえない。わかってもらえない……それは、そうとうな苦しみだったろうなと、今頃になってエレノアは理解した。もう遅いかもしれないが。
そしてアンゲルのことを思い出した。エブニーザにナイフを突き付けられた時、ためらわずに自分の前に立ちはだかって、守ろうとしてくれた……。
エレノアはしばし、昨日のことを思い出しながらぼんやりしたあと、おもむろに部屋に戻り、お気に入りのワンピースに着替え、ばっちり化粧をして、外に出た。
快晴で日が照っているが、気温は低い。エレノアはくしゃみをした。スカーフを巻いて来るんだった。喉をいためては歌が歌えない。
でも戻る気がしなかった、一直線に図書館に向かい、奥の通路をまっすぐに歩く。
向かっているのは、あの資料室だ。
そこには、エブニーザがいた。
いつものように、何もなかったみたいに、怪しげな古代の本を読みふけっている。
エレノアは入口から、しばらくその様子を見ていた。話しかけるべきか迷った。もしまたパニックを起こして、昨日のようなことが起きたら、自分一人で対処できるのだろうか?
……いや、誰が来てもエブニーザに対処なんてできないだろう!
エレノアはそんなことを思って天を仰いだ。
どこかにいるという夢の『女の子』は、いつかこの、救いようもなく不安定な少年を支えてくれるのだろうか?
そんなことができる人間がこの世にいるとは、エレノアには思えなかった。
そうだ、たった一人の人間に、自分の弱さすべてを支えてもらうことなんて、できないのだ。一人の人間が正気を保ちながら生きて行くためには、何人も仲間が必要で……そのうちの、基本になる家族や、いざというときに頼れる人間が、エブニーザには常に欠けている。
エレノアは彼の不幸を思い、そして、常に家族に守られていた自分の幸運を思った。
立ち去るか、中に入っていくか。
迷った末に、エレノアは中に入っていくことにした。
何か起きたら走って逃げようと思いながら。
「エブニーザ?」
エレノアが声をかけると、エブニーザがびくっと全身を震わせて、おそるおそる、ゆっくりとエレノアの方を向いた。
「あの……」エブニーザが不思議そうな顔でエレノアを見上げた「あんなに、ひどいことをしたのに、どうして話しかけてくるんですか?」
「ひどいこと?」エレノアはわざと、白けた顔で気取った声を出した「ああ、そうね、人にナイフなんか突き付けちゃいけないわね……」
エブニーザがまた、びくっと身体を震わせた。
「でも、あなた『誰も傷つけたくない』って言ってたじゃない?その『誰も』には私も入っているでしょう?だからもういいの。過ぎた事は……いいことを教えてあげるわ」
エレノアは、エブニーザの目をまっすぐに見た。
そして思った。
みんな心配してるってことが、このほとんど色のない目に、ちゃんと伝わればいいのに。
「過去も未来も、関係ないの。辛い目に会っても、犯罪者でも、何か思い出したくないことにさいなまれていても、逆に、病気で未来がなくても、寿命のほとんど残っていないお年寄りでも、同じなの。そんなことどうでもいいの。私は旅先で色々な人に会ったから、はっきり言えるわ。過去も未来も関係ない……大事なのは、今よ。今、こうやって、あなたとちゃんと向かい合って話ができているってことなの」
エレノアはエブニーザの目を見つめ続けた。エブニーザも目をそらさなかった。ただ、エレノアが伝えようとしたことがちゃんと心に届いたのかは、わからない。表情がまるで変わらないからだ。ずっとぼんやりした顔をしている。何かを見ているようで、何も見えていないような……。
「みんな心配なの、あなたが。エブニーザ。あなたが誰かを傷つけてしまうって心配しているのと同じ。みんな心配なの、自分があなたを傷つけているんじゃないかって。周りを傷つけているんじゃないかって」
「ヘイゼルは?」
「ヘイゼル……」エレノアが笑顔のまま顔をしかめた「確かに自分の事しか考えていないように見える……でも、誰にも興味がなかったらあんな変なことばかりしないわよ」
「そうですね」
あいかわらず無表情だ。
「ねえ」エレノアが少し後ろに身を引いて、言った「アンゲルが刺されるって、私に話したでしょ?」
エブニーザの表情が少し動いた。ほんの少しだ。エレノア以外の人間なら気がつかなかっただろう。
「どうして私に話したか、考えてたの……あなた、私の未来が見えたのね?」
エブニーザが瞬きして、驚きと不安が混じったような顔でエレノアを見た。
「アンゲルの近くに、私がいたのね?」
エレノアが笑った。エブニーザは困ったように目をきょろきょろと動かして顔をそらせた。秘密を暴かれてあわてているような様子だ。
「言っちゃいけないと、思って、黙ってたんです」
顔をそらせたまま、エブニーザが言った。聞こえるか聞こえないか、すれすれの小さな声で。
「やっぱりそうなのね?」
「僕が見ている未来では」エブニーザがエレノアの目をまっすぐ見た。珍しいことだ「アンゲルとエレノアは、いつも一緒にいるんです」
「……そう」
思った通りの答えだった。
エレノアは深呼吸して、気を鎮めようとした。
「だから、僕が二人の近くにいると邪魔になる」
「なぜ?」
「なぜって……」
「だから、私を避けたの?ヘイゼルの別荘でも……」
エブニーザは気まずそうに、視線を窓の外に向けた。
「……それ、変よ。友達でしょう?二人とも」
「でも……」
エブニーザは何か言いたそうにしているが、ためらっているようだ。
「もうそんなことする必要ないわよ、わかった?」エレノアは笑って、ドアを開けた「私、歌のレッスンがあるから、また明日ね」
「明日……」
エブニーザは少し考え込んでいたが、
「そう……そう、だね」ぎこちなく笑った。ひさしぶりの笑顔だ「また、明日」
エレノアも微笑みを返して、部屋を出た。
レッスンがあるなんて、嘘よ。
エレノアは、ドアにもたれて、深く息を吐いた。
ああ、これからどうしよう?
いや、やらなければいけないことはもうわかっている。
でも。
エレノアはしばし、その場にとどまって考えていたが、そのうち、意を決したように歩き出した。




