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アンゲルとエレノア  作者: 水島素良
最終章

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280/294

15-4 エレノア 図書館に行ってみる

 朝。

 目覚まし時計が鳴っている。それも大量に。

 起きなきゃ、とエレノアは心だけでうめいていた。しかし、体が全く動かない。何かで縛られているみたいだ。重い。

「ちょっと!いいかげん起きなさいよ!」フランシスがドアを蹴りながら叫んでいる「もう十分以上鳴り続けてるわよ!うるさいっつの!」

「ちょっと待って……」

 やっとのことで絞り出した声。エレノアは少しずつ目ざめ、そして少しずつ、昨日のことを思い出した。エブニーザにナイフを突き付けられて、フランシスがそのエブニーザを殴って……。

 エレノアが起き上がり、たくさんの目覚まし時計をすべて止め終えたのは、さらに三十分ほど経ってからだった。

 寝ぼけた顔でドアを開けると、フランシスはいなくなっていた。テーブルの上に、

『先に食べてるわよ!!』

 と乱暴な字で書かれたメモがあり、おそらく投げ捨てられたのであろうと思われるペンが、床に転がっていた。

 朝食……食べる気しないわ……。

 椅子に座り、ぼんやりと窓の外を見つめる。快晴、雲ひとつない。いつもなら嬉しいはずの良い天気。でも、今はこの空の果てしなさが、朝の静寂が、どこか空しい。

 エブニーザのことを思い出す。

 過去だけでもあんなに過酷なのに、未来にも苦しめられている。

 しかもその未来は、自分にしか見えない。

 誰にも信じてもらえない。わかってもらえない……それは、そうとうな苦しみだったろうなと、今頃になってエレノアは理解した。もう遅いかもしれないが。

 そしてアンゲルのことを思い出した。エブニーザにナイフを突き付けられた時、ためらわずに自分の前に立ちはだかって、守ろうとしてくれた……。

 エレノアはしばし、昨日のことを思い出しながらぼんやりしたあと、おもむろに部屋に戻り、お気に入りのワンピースに着替え、ばっちり化粧をして、外に出た。

 快晴で日が照っているが、気温は低い。エレノアはくしゃみをした。スカーフを巻いて来るんだった。喉をいためては歌が歌えない。

 でも戻る気がしなかった、一直線に図書館に向かい、奥の通路をまっすぐに歩く。

 向かっているのは、あの資料室だ。

 そこには、エブニーザがいた。

 いつものように、何もなかったみたいに、怪しげな古代の本を読みふけっている。

 エレノアは入口から、しばらくその様子を見ていた。話しかけるべきか迷った。もしまたパニックを起こして、昨日のようなことが起きたら、自分一人で対処できるのだろうか?

 ……いや、誰が来てもエブニーザに対処なんてできないだろう!

 エレノアはそんなことを思って天を仰いだ。

 どこかにいるという夢の『女の子』は、いつかこの、救いようもなく不安定な少年を支えてくれるのだろうか?

 そんなことができる人間がこの世にいるとは、エレノアには思えなかった。

 そうだ、たった一人の人間に、自分の弱さすべてを支えてもらうことなんて、できないのだ。一人の人間が正気を保ちながら生きて行くためには、何人も仲間が必要で……そのうちの、基本になる家族や、いざというときに頼れる人間が、エブニーザには常に欠けている。

 エレノアは彼の不幸を思い、そして、常に家族に守られていた自分の幸運を思った。

 立ち去るか、中に入っていくか。

 迷った末に、エレノアは中に入っていくことにした。

 何か起きたら走って逃げようと思いながら。

「エブニーザ?」

 エレノアが声をかけると、エブニーザがびくっと全身を震わせて、おそるおそる、ゆっくりとエレノアの方を向いた。

「あの……」エブニーザが不思議そうな顔でエレノアを見上げた「あんなに、ひどいことをしたのに、どうして話しかけてくるんですか?」

「ひどいこと?」エレノアはわざと、白けた顔で気取った声を出した「ああ、そうね、人にナイフなんか突き付けちゃいけないわね……」

 エブニーザがまた、びくっと身体を震わせた。

「でも、あなた『誰も傷つけたくない』って言ってたじゃない?その『誰も』には私も入っているでしょう?だからもういいの。過ぎた事は……いいことを教えてあげるわ」

 エレノアは、エブニーザの目をまっすぐに見た。

 そして思った。

 みんな心配してるってことが、このほとんど色のない目に、ちゃんと伝わればいいのに。

「過去も未来も、関係ないの。辛い目に会っても、犯罪者でも、何か思い出したくないことにさいなまれていても、逆に、病気で未来がなくても、寿命のほとんど残っていないお年寄りでも、同じなの。そんなことどうでもいいの。私は旅先で色々な人に会ったから、はっきり言えるわ。過去も未来も関係ない……大事なのは、今よ。今、こうやって、あなたとちゃんと向かい合って話ができているってことなの」

 エレノアはエブニーザの目を見つめ続けた。エブニーザも目をそらさなかった。ただ、エレノアが伝えようとしたことがちゃんと心に届いたのかは、わからない。表情がまるで変わらないからだ。ずっとぼんやりした顔をしている。何かを見ているようで、何も見えていないような……。

「みんな心配なの、あなたが。エブニーザ。あなたが誰かを傷つけてしまうって心配しているのと同じ。みんな心配なの、自分があなたを傷つけているんじゃないかって。周りを傷つけているんじゃないかって」

「ヘイゼルは?」

「ヘイゼル……」エレノアが笑顔のまま顔をしかめた「確かに自分の事しか考えていないように見える……でも、誰にも興味がなかったらあんな変なことばかりしないわよ」

「そうですね」

 あいかわらず無表情だ。

「ねえ」エレノアが少し後ろに身を引いて、言った「アンゲルが刺されるって、私に話したでしょ?」

 エブニーザの表情が少し動いた。ほんの少しだ。エレノア以外の人間なら気がつかなかっただろう。

「どうして私に話したか、考えてたの……あなた、私の未来が見えたのね?」

 エブニーザが瞬きして、驚きと不安が混じったような顔でエレノアを見た。

「アンゲルの近くに、私がいたのね?」

 エレノアが笑った。エブニーザは困ったように目をきょろきょろと動かして顔をそらせた。秘密を暴かれてあわてているような様子だ。

「言っちゃいけないと、思って、黙ってたんです」

 顔をそらせたまま、エブニーザが言った。聞こえるか聞こえないか、すれすれの小さな声で。

「やっぱりそうなのね?」

「僕が見ている未来では」エブニーザがエレノアの目をまっすぐ見た。珍しいことだ「アンゲルとエレノアは、いつも一緒にいるんです」

「……そう」

 思った通りの答えだった。

 エレノアは深呼吸して、気を鎮めようとした。

「だから、僕が二人の近くにいると邪魔になる」

「なぜ?」

「なぜって……」

「だから、私を避けたの?ヘイゼルの別荘でも……」

 エブニーザは気まずそうに、視線を窓の外に向けた。

「……それ、変よ。友達でしょう?二人とも」

「でも……」

 エブニーザは何か言いたそうにしているが、ためらっているようだ。

「もうそんなことする必要ないわよ、わかった?」エレノアは笑って、ドアを開けた「私、歌のレッスンがあるから、また明日ね」

「明日……」

 エブニーザは少し考え込んでいたが、

「そう……そう、だね」ぎこちなく笑った。ひさしぶりの笑顔だ「また、明日」

 エレノアも微笑みを返して、部屋を出た。

 レッスンがあるなんて、嘘よ。

 エレノアは、ドアにもたれて、深く息を吐いた。

 ああ、これからどうしよう?

 いや、やらなければいけないことはもうわかっている。

 でも。

 エレノアはしばし、その場にとどまって考えていたが、そのうち、意を決したように歩き出した。

  


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