12-22 エレノア オペラハウスの管轄区公演
しばらく、エレノアはテノール・グレンに追われて、逃げ回るのに苦労した。稽古中にも、やたらに体に腕を回して、変なところを撫でまわしたりする……しかも、恋人役でもあるので、飛びのいて文句を言うわけにもいかなかった。
練習が終わってからも、エレノアが楽屋で一人でぼーっとしているところにいきなり抱きついてきたり(もちろんこの場合は走って逃げるのだが)廊下でほかのスタッフと話しているときに、なれなれしい態度で割り込んで来て、ついでに尻に手を回したり……。
エレノアは、怒りを通り越して恐怖を感じていた。とにかく二人きりにならないようにした。スタッフやほかの歌手も気が付いていて、エレノアが一人にならないように気を配ってくれていた(そう、グレン以外の仲間はみんないい人だった!)
そんなストレスの多い練習期間を超えて、管轄区での初演が行われた。
このオペラにおけるソプラノの代表曲は、
あの男に近づいてはいけない!
捕まった女は地獄に落ちる!
天使の顔をした悪魔!
ワインのような言葉
聖者のような微笑みに
騙されてはいけない!
甘い香りで心を奪い
欲望のままに体を奪う……
という、友人に忠告する女の怒りの歌なのだが、エレノアは、グレンへの恨みを込めて熱唱。
……ふざけんじゃねええええええ!!!!!!!!
あまりの迫力に、曲が終わった瞬間から、会場はスタンディングオベーションに沸いた。
もちろん、エレノアは本当に怒っていただけだったのだが。
「お客様がエレノアに会いたいって、大量に押しかけてきてるのよ!」
公演が終わって、楽屋で化粧を落とそうとしていたエレノアのところに、スタッフが駆け込んできた。
「みんな熱狂していて、どうしてもあなたに一目会って何か言いたいらしいの。相手をしてやってもらえないかしら」
「わかったわ」
でも何をすればいいんだろう?
エレノアは今まで世界中で歌を歌っていて、いろいろな客を見てきたが『楽屋に『大量に』客が押しかけてくる』というのは初めてだった。
廊下から足音が聞こえてきたかと思うと、勢いよくドアが開き、そこには……。
全員、同じ髪型、同じスーツ、同じ帽子に同じ服の紳士が、何十人も現れた。
「いやあ、すばらしい!あなたの歌声は素晴らしい!」
「まさに歴史に残る歌声です!」
何人もの紳士が、エレノアの手を取って、半泣きの顔で叫んでいた。エレノアは圧倒されて、ただ、次々と差し出される手に握手しかえしていた。
どうして全員同じ格好なの?制服?でも髪型まで同じなんて。
もしかして別な劇団が、私をからかいにきてるんじゃないかしら?
エレノアがそう思うくらい、目の前の『管轄区の紳士たち』は、全員まったく同じ見た目をしていた。背格好まで同じなので、どれが誰なのか、名乗られても判別はできなかっただろう。
「管轄区よねえ~」
一時間ほどして、やっと紳士たちが帰り始めたころ、スタッフがドアを見つめながらため息をついた。
「どうしてみんな同じ格好なの?」
「さあ。こっちだと、あまり目立った真似はできないみたいよ。なんせ、こっちの女神イライザ様は、贅沢がお嫌いでいらっしゃるから」
いつも優しいスタッフらしくない、皮肉めいた口調だった。
「贅沢が嫌いだからってみんなで同じ服着なくても……」
「もしかしたら、店が一つしかないのかもね。一般人は貧乏で、ある程度地位のある人が行く店はみんな同じって聞いたことあるから」
「だからって……」
「それよりエレノア、さっさとここを出たほうがいいわよ。そろそろグレンが、紳士たちの対応を終えてこっちに来ちゃうから」
エレノアは慌てて立ち上がった。化粧を落とすのは帰ってからにしよう!
劇場の裏口から出ると、そこにはもう黒塗りの車が停まっていた。老年の運転手が車の前に立っていて、エレノアを見るなり、女王でも相手にしているかのような敬礼をした。
「急いでるの!」
エレノアはそう叫ぶなり、自分でドアを開けて中に飛び乗った。
「変な男が追いかけてくるのよ!困ってるの!」
運転手はぎょっとしていたが、すぐに自分も運転席に飛び込んで、車を発車させた。
車が走り出し、劇場が見えなくなったところで、エレノアはやっと落ち着くことができた。そして、自分が大きなことを成し遂げたことをやっと実感できた。
……あこがれていたオペラハウスの公演で、成功した!
「私も歌を聞いていましたよ」
運転手が急にしゃべりだした。エレノアは驚いたけど、すぐに嬉しくなった。
「ほんと?ありがとう」
「まさに女神の声です。祝福されておりますな」
「そう思う?」
「思いますとも!」
「ありがとう!ウフフ」
エレノアはいつになくはしゃいでいた。そして、こちらでは『女神』はアニタではなく、イライザだということを思い出した。イシュハとは違う神の国なのだ。
「こちらの女神様はかなり厳しいと聞いてるけど」
「厳しくなどありませんよ」
「お客さんがみんな同じ服を着ていたのよ。それが気になって」
「正しい身だしなみです」
エレノアは前に身を乗り出して運転手が来ているものを見ようとした、やはり、同じスーツを着ているように見える。
「あなたに言うことではないが、イシュハは今乱れているようですな。こちらの人間はみな、女神の教えに従って正しく生きているのです。それが証拠に、わしは今まで病気をしたことがない。女神様に守られているからですよ。イシュハの奴はちょっとかぜをひいたくらいですぐ病院とかいうものに行くそうじゃないですか」
「病院に行かないの?」
「病院なんてもんはこっちに存在しません」
エレノアは驚いた。信じられなかった。
病院がない?
「本当に、ないの?一件も?」
「ありませんよ」
運転手は、当然のことだと言いたげな、うんざりしたような口調で答えた。
「でも、心臓が悪くなったり、大きな病気になったらどうするのですか?」
「祈るのですよ!それでだめなら寿命だね。女神様が決めた期限なんだから、潔く従うべきなんですよ。それをイシュハの連中ときたら、贅沢に薬だなんだと悪あがきを……」
運転手はそれからずっと、イシュハの悪口を言い続けた。
ホテルに付いて、顔見知りのスタッフを見つけるなり、エレノアは飛びついた。
「管轄区に病院がないって本当!?」
「知らなかったの?有名な話なのに」スタッフはにやにやと笑っていた「だから、こっちで病気になっても治療できないよ。気をつけてね」
「どうして医者がいないの?」
「宗教で禁止してるからよ。未だに原始的な所があるのよ。でも、協会の幹部は普通にイシュハの病院に行ってるって話だけどね」
「えっ……」
「でも、一般の人が薬をもらったりすることには、まだ厳しいみたいよ……それより、公演大成功よね!おめでとう!お疲れ!」
「え?あ、そうね、ありがとう」
エレノアはどもりながら、自分の部屋のドアを開けて、中に入った。
そして、ベッドに座り、またため息をついた。
思ったより、強烈な国なのかも……。
そして、アンゲルのことを思い出した。
管轄区出身の彼が心理学や医学を勉強することが、いかに『特殊』で、
路上で襲われるほど『受け入れがたい』ことだったか。
エレノアは、やっとそれが理解できた気がした。




