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アンゲルとエレノア  作者: 水島素良
第二章 

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2-9 エレノア 音楽科→女子寮の部屋

 音楽科のオリエンテーションが終わった。

エレノアは困り果てていた。学科の内容がわからないからではない。新入生テストの結果は上級1。音楽科に所属するには問題のない成績だ。問題は……他の学生が、エレノアを避けるのだ。話しかけようとして近づくと逃げて行き、無視され、どこからか消しゴムや、丸めた紙が飛んでくる……。

 ぐったりした顔で建物から出た時、

「おーい、そこの青目に黒髪の美人さん」

 という、時代がかったアケパリ語が聞こえてきた。

 声がした芝生の方向を向くと、見るからにアケパリ人らしい、細いつり目、黒いツンツンした短髪に浅黒い肌の青年が近寄ってきた。目の端にばんそうこうが貼ってあり、ギターのハードケースをしょっている。

 青年はケンタ・タナカと名乗った。前日、ギターの練習中に、エレノアの歌声が隣のブースから聞こえてきたのだが、

「あまりに素晴らしい歌声だったから、本人に伝えたくて」

照れ笑いしながらそんなことを言うケンタに、エレノアは嬉しくなった。音楽科でまともに話してくれる人間に初めて出会ったからだ!

「私の母もアケパリ人なのよ」

「じゃ、これ、読める?」

 ケンタはギターケースの中からぼろぼろのプリントとペンを取り出し、裏に自分の名前を漢字で書いてエレノアに見せた。

 田中健大。

「これ『ケンダイ』じゃないの?」

「いや」ケンタがにんまりと笑った「人名の場合はこれで『ケンタ』なんだ。漢字が読めるってことは本物だな」

「それ、どうしたの?」

 エレノアはケンタの目の端についているばんそうこうを指さした。

「アケパリ嫌いのイシュハ人に襲われた」

「えっ?」

「財布取られた。でも、ギターと腕を守ったから俺の勝ち」

 ファイティングポーズを取って笑うケンタ。エレノアもつられて笑う。

 なんだかおもしろそうな人だわ。

 ケンタはこれからギターの練習があると言って、校舎に入って行った。

 寮に帰ると、フランシスがキッチンのテーブルに分厚い本を何冊も広げて何か書いていた。政治学の宿題らしい。

「フランシス」

「何?」

「一つ聞いていい?」

「何?」

「お金持ちなのにどうして寮に入ってるの?」

「そういう規則だからよ」本から顔を上げずにフランシスが答えた「学生は全員寮に入るって決まってるの。親の財産は関係なくね。自立を促すんだったか何だったか知らないけど、そんな理由よ。それくらいで自立できたら誰も苦労しないわね。そう思わない?」

「そうね」

 フランシスの言葉には妙なとげがある。機嫌が悪いのだろうか?

 あまり刺激しないほうがよさそうだと思い、エレノアは自分の部屋に向かった。

「ただ、ノレーシュの姫君だけは例外で、別荘から車で通ってくるの」

「ノレーシュの姫君?」部屋に戻ろうとしていたエレノアがふり返った「学校にいるの?」

「紹介してあげるわ。家同士でつきあいがあるから……でも、変人だから覚悟しといてね」

 フランシスは最後まで顔を上げなかったが、エレノアは気にしていなかった。

 本物の王族に会える!

 エレノアは興奮してその日は眠れなかった。窓辺でぼんやりと街の明かり(なんて綺麗なんだろう!そして、この明かりの数だけ、まだ起きている人がいるということなのだ!)を眺めていると、部屋のドアが急に開いて、古風なネグリジェ姿のフランシスが入ってきた。

「眠れないのよ」

 フランシスは小さな声でそうつぶやきながら、エレノアのベッドの端に座った。

 エレノアも起き上がって、フランシスの隣に座った。

 それからしばらく、フランシスは下を向いたまま、何も話そうとしなかった。手だけが何か、落ちつかないような、迷っているような仕草でたえず動いていた。

 どうしたんだろう?

 エレノアはしばらく、フランシスの隣で何かが起きるのを待っていたが、いくら待ってもフランシスが動かないので、

「私、寝るわ」

 と、ベッドの中に戻ろうとすると、突然フランシスがエレノアの手をつかんだ。

「お願いだから出て行かないで」

フランシスらしくないセリフだ。

 エレノアは驚いた。出て行こうなんて一度も言ったことがないし、考えたこともなかったからだ(追い出されそうだなと思ったことは何度もあるが)

 しかも、今目の前にいるフランシスは、別人のように弱々しい。

「自分がヒステリーなのはわかってるのよ。何にでもイライラする、でも自分でもどうしてかわからないの」

 エレノアが何を言っていいかわからず黙っていると、フランシスがさらに続けた。

「命令されるのが嫌いなの。自分で決めたいの。家に帰ったら何でも親に決められてしまう。人の言うとおりにすると不安になる。たいしたことじゃなくても、相手の方が正しいってわかってても、『いやだ』と言わないと、そのまま相手の意思に取り込まれて、自分がなくなってしまいそうで……」

「それで、ルームメイトを何人も追い出したの?」

「追い出したんじゃないわ!勝手に出て行ったのよ!」

 金切り声で叫び出したので、エレノアは慌てた。

「落ちついて」エレノアはできるだけ優しい声でそう言って、フランシスの背中をさすった「私は出て行かないわ」

「本当?」

「本当。だからもう叫ばないで。寝ましょうよ」

 エレノアはブランケットを広げ、フランシスを寝かせると、自分もそーっと隣にもぐりこんだ。

 そのうち、フランシスは寝息を立て始めた。嘘のようにあっさりと。

 ……何だろう、この人。

 すごく、さみしがりやなのかしら、それとも単に成長してないのかしら?

 なんだか知らないけど、これから面倒なことになりそう……。

 エレノアは、静かに眠っているフランシスの顔を眺めながら、これから来るであろう災難(具体的に何が起こるかはわからないが)を思って身をよじらせた。



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