10-23 エレノア 音楽科
エレノアは、久しぶりに音楽科の練習ブースに向かっていた。
もうずいぶん練習してないわ……。
昼過ぎまで寝ていたので、まだ頭がぼんやりしていた
図書館の近くを通った時、やはりカフェにアンゲルがいるのが見えた。大きな本で顔が隠れていたが、よれよれの服装と本の題名(心理学がどうとか)からアンゲルだとわかった。
……どうして毎日カフェにいるんだろう?
エレノアはしばし立ち止まり、カフェのほうを眺めながら考えた。
やっぱり私を待っているんだろうか?
本気で心配しているんだろうか?それとも、心理学を取っているから、患者として興味があるのかしら? 好奇心?
アンゲルに話しかけようか迷ったが、カフェに近づく勇気が出なかった。
また泣き出してしまったら困る……。
エレノアは歩き出した。アンゲルが本の影でこっそりため息をついているのも知らずに。
考え事をしながら音楽科の校舎に入ったエレノアは、受付の、
「あら、久しぶりね」
という笑顔にも反応せず、無言でカギを受け取ると、ブースに向かった。
途中で、あの、けたたましいギターの早弾きが聞こえた。エレキギターで、遠慮なくボリュームを出しているらしく、防音ブースの外にまではっきり音が聞こえてくる。
ケンタは、私がいじけて寝てる間にも、ずっと練習してたんだわ……。
大きく引き離されたような気がした。エレノアは指定のブースまで早足で歩き、入るなり、思いつきで適当なメロディーを歌った。最初は全然声が出なかった。
やっぱり、毎日練習しないとだめなんだわ……。呼吸ってどうするんだったっけ?
昔教わった腹式呼吸や、立つ姿勢などの指導を思い出しながら、エレノアは少しずつ、声を出す感触を思い出そうとしていた。
古い歌を、出来る限りの呼吸で、四角い空間に放つ。
もう何も起こりませんように。
打ちのめされた人間が願うのはそれだけ
浮かれ騒ぐ時 心安らぐ時は
もう過ぎた
そうして私たちは 現実を知り
空想の楽園から
少しずつ離れて行った
悲しむことはない
苦難を分かち合う人が傍にいる
それだけで、世界はどんな楽園より
優しい光に満ちて行く
もろ手を挙げて 奇跡を願う
そんな時代はもう過ぎた
これからは 愛しい人と
自らの手で 荒野を歩き始める時
エレノアは歌うこと、歌詞の世界に夢中になって、自分自身の存在をすっかり忘れてしまった。今までの事をすっかり忘れてしまい、歌うことそれ自体に幸せを感じていた。
我に返った時にはもう夜中の2時を過ぎていて、受付がブースのドアを叩きながら『もう閉めますよ』と叫んでいるのが聞こえた。




