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アンゲルとエレノア  作者: 水島素良
第十章

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201/294

10-23 エレノア 音楽科

 エレノアは、久しぶりに音楽科の練習ブースに向かっていた。

 もうずいぶん練習してないわ……。

 昼過ぎまで寝ていたので、まだ頭がぼんやりしていた

 図書館の近くを通った時、やはりカフェにアンゲルがいるのが見えた。大きな本で顔が隠れていたが、よれよれの服装と本の題名(心理学がどうとか)からアンゲルだとわかった。

 ……どうして毎日カフェにいるんだろう?

 エレノアはしばし立ち止まり、カフェのほうを眺めながら考えた。

 やっぱり私を待っているんだろうか?

 本気で心配しているんだろうか?それとも、心理学を取っているから、患者として興味があるのかしら? 好奇心?

 アンゲルに話しかけようか迷ったが、カフェに近づく勇気が出なかった。

 また泣き出してしまったら困る……。

 エレノアは歩き出した。アンゲルが本の影でこっそりため息をついているのも知らずに。

 考え事をしながら音楽科の校舎に入ったエレノアは、受付の、

「あら、久しぶりね」

 という笑顔にも反応せず、無言でカギを受け取ると、ブースに向かった。

 途中で、あの、けたたましいギターの早弾きが聞こえた。エレキギターで、遠慮なくボリュームを出しているらしく、防音ブースの外にまではっきり音が聞こえてくる。

 ケンタは、私がいじけて寝てる間にも、ずっと練習してたんだわ……。

 大きく引き離されたような気がした。エレノアは指定のブースまで早足で歩き、入るなり、思いつきで適当なメロディーを歌った。最初は全然声が出なかった。

 やっぱり、毎日練習しないとだめなんだわ……。呼吸ってどうするんだったっけ?

 昔教わった腹式呼吸や、立つ姿勢などの指導を思い出しながら、エレノアは少しずつ、声を出す感触を思い出そうとしていた。

 古い歌を、出来る限りの呼吸で、四角い空間に放つ。


  もう何も起こりませんように。

  打ちのめされた人間が願うのはそれだけ

  浮かれ騒ぐ時 心安らぐ時は

  もう過ぎた

  そうして私たちは 現実を知り

  空想の楽園から

  少しずつ離れて行った


  悲しむことはない

  苦難を分かち合う人が傍にいる

  それだけで、世界はどんな楽園より

  優しい光に満ちて行く


  もろ手を挙げて 奇跡を願う

  そんな時代はもう過ぎた

  これからは 愛しい人と

  自らの手で 荒野を歩き始める時


 エレノアは歌うこと、歌詞の世界に夢中になって、自分自身の存在をすっかり忘れてしまった。今までの事をすっかり忘れてしまい、歌うことそれ自体に幸せを感じていた。

 我に返った時にはもう夜中の2時を過ぎていて、受付がブースのドアを叩きながら『もう閉めますよ』と叫んでいるのが聞こえた。




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