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アンゲルとエレノア  作者: 水島素良
第二章 

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2-7 アンゲル エレノア カフェ

「アンゲル?」

 夕方、アンゲルが図書館の近くを通りがかった時、どこからか自分を呼ぶ声がした。回りを見渡すと、大きなつばのある紺色の帽子をかぶった女性が、カフェの前のベンチに座って、こっちに向かって手を振っていた。

「エレノア!」

 アンゲルは久しぶりにさわやかに笑った。頭に付きまとっていたコミュニティの暗い雰囲気が、一瞬で消えた。

 しかし、エレノアが沈んだ顔をしていることに気がついた。

「何かあったのか?」

「ダメだったわ」

 エレノアが寂しそうに笑って下を向いた。手に持っているコーヒーカップを無意味にくるくると回している。

「何が?」

「音楽科の人が意地悪で仲良くできそうにないし、それに……」

「それに?」

 エレノアは視線を下に向けて、何かを迷っているように見えた。

「コミュニティよ!」突然思いついたようにエレノアが叫んだ「アンゲルは管轄区出身だから、管轄区のコミュニティに入れるでしょう?」

「ああ、あれか」アンゲルはさっきの『狂信的な女神の信徒の集会』のことを思い出して顔をしかめた「そんなにいいもんじゃない。出身は同じでも、気が合わない奴ばっかりだ。俺は関わりたくないね」

「そんなこと言わないでよ。どこにも入れない人もいるのに」

「どういう意味……あ」アンゲルは突然あることを思い出した「エレノア、たしかご両親が違う国の出身だよね?」

「それよ」

 エレノアがアンゲルの目をまっすぐに見つめた。やはりどこか心細いような表情をしているが、そんなエレノアもやはり美しくて、アンゲルは見とれた。

「アケパリのコミュニティに行ったら『目が青いからダメだ』って言うの。ドゥロソに行ったら『国籍がないからダメ』って」

「心の狭い奴らだな」

 アンゲルはこころもち横を向いて笑った。まっすぐ見つめられると本心を見抜かれてしまいそうだ。それにしても、目の色?国籍だって?たかがコミュニティに?

「エレノア」アンゲルはできるだけ優しげな表情を作った「君って、どこの国籍も持っていないの?」

「私はイシュハで生まれたから、国籍はイシュハなの」

「イシュハ」

 管轄区だったらよかったのに、とアンゲルは思ったが、黙っていた。

「でも両親は自分の国の国籍を持ったままよ。だから、バラバラなの」

 エレノアが、いつかの列車の中のように、ベンチの隣を指さして『座ったら?』という仕草をした。

 アンゲルは勧められるままに隣に座った。やはり花のような香りがする。

「ずっと旅をしてたの?」

「そうよ。世界中を回ったわ。管轄区以外ね」

「えっ?」

「父はドゥロソ人なのよ?ドゥロソはイシュハと同じ女神アニタを信じていて、管轄区の女神イライザが気に入らないみたい。私も母もそんなのくだらないって言ってるんだけど、頑なに嫌がるの」

「ええっ」

 そんな頑固な父親がいるのか。説得するのが大変だ……待て。

 俺は何を考えているんだ?

 アンゲルが、空想を追い払うように頭を勢いよく振った。

「どうしたの?」

「いや、いや、俺は管轄区の出身だから、ちょっとした衝撃を受けた」

「そう……でも、私は管轄区に行きたいと思ってるのよ」

「ぜひ来てほしいね」アンゲルが乱れた髪を整えながら、エレノアに笑いかけた「イシュハの連中は、メルヘンだとか遅れてるとか田舎だとかさんざん言うけど、いいところだよ」

 熱烈なイライザ信者がいること以外は!とアンゲルは心の中でだけ付け足した。

「アンゲルはどうしてイシュハに?」

「え?」

「管轄区にも心理学を学べるところはあるでしょう?」

「ないよ」

 アンゲルはうんざりしながら答えた。あまり考えたくなかったが、事実だ。

「ない?」

 エレノアは心から疑っている顔をした。

「人間の悩みは女神イライザと関わりがあるってことになってるんだ。何か意味がある。女神が何かを伝えようとして人間に苦悩を与えているとか、困難には女神の意思が働いているとか、何かの罪で病気になるとか何とか。何でもそんな調子だ。だから心理学どころか、医学だってたいして進んでない。医者なんてめったに見かけない。小さな国でもやってるような、当たり前の医療保険もない。カウンセリングなんて誰も知らないよ」

「そうなの?」エレノアは本当に驚いているようだ「管轄区って、精神的にとても真面目なイメージがあるけど」

「真面目」アンゲルがうんざりしたようないいかげんな発音で、その単語を発した「まるで他にいいところがないみたいだな」

「そんなこと言ってないわよ」

「今までで、一番良かった国はどこ?」

「え?」

 いきなり話題が変わった。アンゲルはこれ以上管轄区の話をしたくなかった。遅れていて、古臭くて、真面目。それは、アンゲル自身うんざりするほど味わっているあの国の欠点だった。

「今まで……アケパリ。人がみんな親切だわ。あまり感情を表に現さない国だから、曲芸にも歌にも歓声をあげたりしないの。曲芸の最中もシーンとしているし。歌っている間も、奇妙な目つきでじっと私を見つめているだけ。歌が気に入らないのかしらって不安になったわ。でも、みんな真面目に見てくれていて、ぜんぶ終わってから、地面が揺れるようなすごい拍手をしてくれるの。しかも気前よく贈り物をくれたり、舞台に向かってお金を投げたりするのよ!(曲芸師に向かって小銭を投げる習慣があるらしいわ)雇い主にもらった報酬より、観客が投げた金額の方が多かったの。本当よ」

「アケパリ」アンゲルはこの国のことをほとんど知らなかった「イシュハと戦争してたよね?」

「そう。おかげで私、イシュハ人にいじめられるの」エレノアがそう言いながら苦笑いをした「フランシスも……同じ部屋の子も、最初の日に『アケパリとドゥロソ?どっちもイシュハと戦争をした国じゃないの!』みたいなことを言ってたわ」

「そんな奴気にする必要ないよ。管轄区なんか百年も戦争してたぞ」

 アンゲルは100年戦争を思い出す。

 イシュハと管轄区、女神アニタと女神イライザの戦いだ。お互いの信仰をかけた熾烈な殺し合い。しかし現代では『女二人のケンカ』などと揶揄されている。

 いるかどうかもわからない『女神』のために、100年も、殺し合いをしてたんだな。

 アンゲルは考えずにいられない。

 その、無駄に費やされた年月と、失われた人命を。

 戦争ではうまく引き分けに持ち込んだのに、今じゃこんなに差がついている。

 どういうことだ?

 アンゲルは、何もかもが進んでいるイシュハと、自分の国の古臭さを比較して、気分が暗くなった。

「100年戦争ね。イシュハって、どの国とも戦争してるわね」エレノアが立ちあがった「話を聞いてくれてありがとう。コミュニティなんてなくても私は一人で歌うわ。それとも、『マイノリティー限定』のグループでも結成しようかしら?」

「俺も入れてよ」

 俺は女神を信じてないんだよ、だから管轄区の連中と同じところにはいられないんだ。アンゲルは心の中でつぶやいた。

「あなたは必要ないでしょ」エレノアがまぶしいほど美しい笑いを浮かべて、駈け出した「フェスティバルで歌うことになったの!聞きに来て!」

 アンゲルは走っていくその後ろ姿を見ながら、一人考えていた。

 女神アニタ……強敵だな。国籍と親父をつかんでいるとは。

 でもいい感じじゃないか?明らかにエレノアは俺に好意を持ってるぞ……。そうじゃなきゃ、あんなすばらしい笑顔ができるもんか!管轄区に行きたいって言ってたし……。

 やはり何かを勘違いしながらニタニタと笑い、一人うきうきしながら道を歩くアンゲルを、何人かの学生が、不審な顔で遠巻きに眺めていた。 


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