2-6 エレノア 音楽科
エレノアは音楽科のある校舎に向かい、音楽を専攻するための手続きをしようとした。彼女にとっては夢の第一歩だ。にこにこしながら窓口にやってきた。
しかし、受付の女性の言葉でその笑顔は消えた。
「その顔なら女優か娼婦でもやったほうがいいんじゃない」
エレノアは耳を疑った。聞き違えたのかと思った。しかしそうではなかった。
手続き済みの受領書を差し出しながら、受付の女性はさらに、
「どうせ男が見つかったらやめるんでしょ、歌なんて」
と、吐き捨てるようにつぶやいたからだ。
何なの!失礼すぎるわ!
エレノアは怒りのあまり、書類をひったくって廊下に飛び出してしまった。数人の学生にぶつかりそうになり、
「ごめんなさい」
と謝って通り過ぎようとすると、後ろから声が聞こえた。
「外国人?」
「フェスティバルに出るんですって?審査員に体でも売ったんじゃない?」
……何だって?
エレノアがふり返ると、学生たちはくすくすと意地悪に笑いながら去って行った。
フェスティバルに出ることをどうして知ってるの?フランシスの知り合い?
校舎を出てやみくもに早足で歩いたが、体が震えているのがわかった。見ず知らずの人間にいきなり侮辱めいた言葉を浴びせられるなんて、納得がいかないからだ。
なぜこんなひどいことを言われなきゃいけないの?
そう思いながら、今度はコミュニティの集まりに向かう。新入生を獲得しようと、部活動や、各国のコミュニティが張り紙を出したり、勧誘担当の生徒が話しかけてきたりする。
エレノアはまず。父の国であるドゥロソのコミュニティに行った。しかし、
「国籍がイシュハ?だめだね」
とあっさり断られてしまった。
「どうして国籍が必要なの?」
「あのね、ここは、ドゥロソからイシュハに来たばかりの、何も知らない人のためのコミュニティなんだ。今紛争が起きていて政情が不安定なのは知ってるよね?」
「もちろん」
イシュハとドゥロソは常に紛争をしている。誰だって知っている。
「ドゥロソ人への差別も激しい。経済的にも困難な学生が多い。そういう人たちが助け合うためのコミュニティなんだよ。君は最初からイシュハに住んでいるんだから、入る必要はないだろう?」
「でも、さっきイシュハの人には外国人って言われたわ」
「イシュハ人は細かいところを見る目がないらね」軽蔑のこもった目で、ドゥロソの学生が言った「とにかくここはだめ。アケパリのほうに行ってみたら?」
「……そうね、その方がよさそうだわ」
ちょっととげのある言い方で別れを告げた後、今度はアケパリのコミュニティに向かった。他の国とは全く違う、独特の雰囲気があたりを包んでいる。
アケパリからの留学生は最近激増しているので、コミュニティもかなり人数が多い。エレノアの視界に入っているだけで、その場に50人以上はいただろう。そのうち半分は、着物や浴衣、異様に長い髪の女性、じゃらじゃらと数珠のようなものを首に幾重にも垂らして『伝統的なアケパリ人』をアピールしている学生、残りは普通に、イシュハ人と変わらない現代の恰好をしている。スキニージーンズにワンピースの女子学生が妙に多い。
「あーだめだめ。アケパリから来た人じゃないじゃん」
黒髪をポニーテールにした受付の女の子が、軽い発音でそう言った。
「そうだけど、母はアケパリ人で、年に2,3カ月はアケパリで仕事をしていたわ」
エレノアは流暢なアケパリ語を発した。
「うわ、めずらしー。超上手いじゃんアケパリ語。イシュハ人って外国語ヘタなのに」
受付の別な子(こちらは髪を金髪に染めていたが、明らかに似合っていない)が叫んだ。
「でもさー、あんた、どう見てもアケパリ人に見えないんだよね」
ポニーテールが言った。
「そうだね~。髪黒いけど肌が白すぎるしさ、目が青いし。美人過ぎるよね」
金髪がポニーテールに向かってつぶやいた。
「わるいけどさ~、あんたはアケパリのコミュに入るような人じゃないと思う」
ポニーテールはエレノアに手で『どいて』という合図をして、後ろに並んでいた別な学生の受付を始めてしまった。
エレノアはがっかりしながらその場を後にした。
大丈夫よ。別にコミュニティに入らなきゃいけないって決まりがあるわけじゃないし、私はここに、音楽のためにやってきたんだから。
音楽。そうだ。
歌おう。
気晴らしに歌いはじめた。思いつくメロディーを適当な発声で。
しかし、歌を口ずさみながら帰り道を歩いていると、通りすがりの学生に、
「うるさい!」
と怒鳴られてしまった。
あわてて走り、女子寮の自分の部屋で歌った。
すると今度はフランシスがエレノアのドアを開け、凄まじい目つきで睨みながら『うるさい!』と怒鳴る と、乱暴にドアを閉めた。その振動で部屋中の空気が揺れた。
窮屈すぎる。そして他に行くところもない……。
エレノアは枕の上に突っ伏してうめいた。
それまで、歌は普通に、エレノアの生活の中に溶け込んでいたからだ。
歌う場所がないなんて苦痛すぎる!
「世の中って言うのはそういうもんだよ」母に電話をすると、そんな答えが返ってきた。「一つ成長したじゃないか」
母ヤエコ・ノルタは優しい女性なのだが、エレノアが甘えたいときに限って妙にそっけない態度を取るのだ。そんなことたいしたことないじゃない、何を悩むの?と。
ため息をつきながら受話器を置くと、フランシスが後ろに立っていた。
「今の誰?」
「母」
「いいわね」
「何が?」
「なんでもないわ」
「フランシスのお母さんは何をしているの?」
エレノアは何気なく訪ねたのだが、フランシスの顔色が急に変わった。
「何って……ただのご婦人よ!そんなこと聞かないでよ!」
と叫んだかと思うと、自分の部屋に閉じこもってしまった。
……散歩でもしよう。ここにいても気分が晴れないわ。
エレノアは帽子を手にとって、外に出た。
図書館の近くまで歩く。あいかわらず暑い。汗が頬や背中を流れてくる。
手の甲で汗をぬぐいながら、ふと前方を見ると、大きな楽器ケースを持ち歩いている生徒が目に入った。エレノアは走り寄って声をかけてみた。
「音大の学生ですか?」
「へ?」いきなり声を掛けられてびっくりしたのか、学生が背負っていたケースがぴくりと揺れた「ああ、そうですけど、何か?」
「私、音楽科に入学したばかりなんですけど、練習する場所がないんです。部屋で歌うと『うるさい』って言われてしまうし……」
「ああ、そういうこと」学生の表情が急に優しげになった「俺が入学した時も困ったんだよ。音楽科の中に防音ブースがあって、授業が始まる前でも使えるよ」
「本当?」
エレノアの目がきらきらと輝いた。今日初めて何かが上手くいきかけていると感じたからだ。
「誰も教えてくれないから、俺は気付くのに1カ月かかったけどね」学生が苦笑いした「どうも、ライバル心と言うのか意地悪というのか、あの音楽科には異様な雰囲気があるよ。入ってみればわかると思うけど」
もう十分意地悪なことを言われたわ!
とエレノアは思ったが、口には出さなかった。
「ありがとう!」
エレノアは音楽科に向かって走り出した。校舎にたどり着き、壁の案内図を注意深く見る。確かに『防音ブース』と書かれている場所があった。
「ああ、空いてますよ、ピアノは必要?」
受付のおばさん(こちらは普通に愛想がいい)の声は妙にのんびりしていた
「あったほうがいいけど、なくても平気よ」
エレノアは逆に早口でそわそわしていた。一刻も早く大声で歌いたい!
「7番が空いてるわ。これカギ。狭くて、ピアノは電子だけど」
「かまいません!」
エレノアはカギをひったくると、目指す部屋に向けてすさまじい勢いで走って行った。
7番と書いてあるドアを開け、中に飛び込んで勢いよくドアを閉めた。そして歌いだすどうでもいい歌。自分でも何が言いたいのかよくわからないでたらめな歌詞で、思いつくままにメロディーを歌った。エレノアにとってはこれが息だった。呼吸ができなくなったら人間が死んでしまう。エレノアは、自分が窒息しかけていたことに気がついた。あまりにも長い間(といっても数日だが)『息ができなかった』から!
一時間ほど歌っただろうか。そろそろ喉に負担がかかってきたと思い、エレノアがブースを出ようとドアを開けた……そして、はっとした。
ドアの前に、たくさんの学生が集まって、一斉に自分を見ていたからだ。驚きと、軽蔑と、嫉妬のこもった目つきで。
何?何が起きてるの?
エレノアは一瞬ひるんだ。心臓がバクバクと打ち始めた……が、すぐに廊下を歩きだした。
「あいさつもしないの、態度悪い」
「才能があるからってお高ぶってんじゃないよ」
後ろからそんな声が聞こえた。それでも歩き続けた。
人混みからはすぐに離れたが、なかなか落ちついて息ができなかった。
音楽科は異様だ、とさきほど言われたことを思い出した。確かに、何かがおかしい。でも、何がおかしいのだろう?はっきりと原因がわからないことが、エレノアをますます混乱させていた。一体なぜ、音楽科の生徒たちはあんな目で自分を見るのか?どうして知りもしない人間にあんな悪口を言えるのか?
夢中で歩いているうちに、図書館の近くのカフェにたどりついた。そうだ、コーヒーでも飲もう。少しは落ち着くだろう……。




