2-5 アンゲル オリエンテーション→コミュニティ
試験の結果はすぐに出た。アンゲルは上級の2年。エブニーザはなんと3年(最高学年だ!)に入っていた。
アンゲルは『心理学ができる!』と喜んだが、発表を横で見ていたエブニーザは逆に、怯えたようなひきつった顔をしていた。
次の日。アンゲルは、心理学を専攻する生徒のオリエンテーションに参加したのだが、説明をしていた講師が生徒の名前と出身地を確認し始めた。席を回って一人一人に「名前は?国籍は?」と尋ねて歩いている。
他の教科ではこんなことなかったけどな……何だろう?
疑問に思っていると、アンゲルの前にも講師が現れた。
「名前は」
「アンゲル・レノウス」
「国籍は?」
「管轄区です」
講師が疑惑の目でアンゲルを睨んだ。
「管轄区?」
「はい」
講師だけでなく、周りの生徒までアンゲルのほうを見た。
「本当に、心理学を専攻するのかね?」講師は眉をひそめ、念を押すように、アンゲルの顔を覗き込んだ「本当にいいのかね?」
「え?ええ、はい」
「でも君、管轄区から来たんだろう?」
講師が手元のメモを見ながら言った。
「はい」
「本気かね?大丈夫なのかね?」
講師だけでなく、まわりの生徒も妙な目つきで自分を見ていることに気がついたアンゲルは、
「大丈夫……だと思いますけど」
と控えめに答えた。
おそらく、管轄区の教会が医学や心理学を嫌っていることを、こちらの人間も知っているのだろう。
講師は不安げな顔のまま壇上に戻っていき、残りの説明を再開した。しかし、アンゲルの耳にはその説明がほとんど入って来なかった。
気になることがたくさんあった。講師の不安に満ちた態度と言葉、『管轄区』という単語に反応して、周りの学生が自分に向けた、妙なものを見るような視線。
オリエンテーションが終わって部屋を出る時にも、アンゲルは自分のあとを追ってくる不自然な視線を背中に感じた。会場を出る直前に中をふり返ってみると、何人かの学生があわててそっぽを向いたり、別な方向に歩きだしたりした。
……変だな。
気になったのだが、一人一人に『どうしてそんな目で俺を見るんだよ?』などと聞くわけにもいかない。アンゲルは早足で廊下を歩いた。今日行かなければいけないところは他にもたくさんある。
この学校には、いわゆる部活動以外にも「コミュニティ」というものがある。外国からの留学生が多いので、出身地ごとにグループがあり、情報交換が行えるようになっている。
もちろんアンゲルは管轄区出身の学生が集まるコミュニティに参加する……はずだったのだが、入学案内に従って入り込んだ部屋(よりによって、古臭い旧校舎の中でも一番奥の、妙に日当たりの悪い暗い部屋)には、異様な空気が漂っていた。
みんな、机に向かって、手を組んで祈っていた。
テーブルの上に白い、小さな女神像(管轄区の家には必ずある安物の)が置かれていて、それを囲むように 学生たち(わざと選んだんじゃないかと思うくらい地味で暗そうな顔ぶれの)が、無言で、目を閉じてうつむいていた。
アンゲルがドアを開いたことに誰も気づいていないのか、単に祈りの最中だから動かないのか、とにかく、全員が同じポーズで、人形じゃないかと思うくらい見事に固まっていた。不気味なほどの静けさが部屋を満たし、息づかいさえ聞こえてこない。
……このままドアを閉じて、何も見なかったふりをして帰ろう。
とアンゲルは思ったのだが、壁に「アルバイト情報」と書いてある紙がいくつも貼ってあるのが目に入った。
そうだ、アルバイトを探さなきゃいけないんだった。
アンゲルがため息をついたのと、ドアに一番近い学生が目を開けたのがほぼ同時だった。
「誰?」
緑色の目に茶色の髪の、地味な、管轄区にはいくらでもいる平凡な少年が、アンゲルを見て警戒の顔をした。
他の学生も、目を開けて顔を上げ、一斉にアンゲルを見た。
「あ、えーと」走って逃げたいと思いながら、アンゲルはなんとか声を出そうとした「アルバイトを探しに、えーと、俺はアンゲル・レノウスといって、新入生で、一応管轄区から来たんですけど……」
「アンゲル・レノウス?」
一番奥に座っていた、年長そうな大柄な男が立ち上がってアンゲルに近づいてきた。
「もしかして」別な席の、痩せた生徒が叫んだ「ヘイゼル・シュッティファントと同室になった奴か?」
「は?」
なぜここでヘイゼルの名前が出てくるのか、アンゲルは不思議に思ったが、聞き返す間がなかった。
目の前の管轄区人たちが一斉に喋り始めたからだ。
「怒鳴り合ってたって本当?」
「へ?」
「大丈夫なのか?相手はシュッティファントだぞ?わかってるのか?」
「はい?」
「管轄区でいうシュタイナーだぞ?」
「えっ?」
「お前の家はそんなに偉いのか?」
「はぁ?」
「首都に愛人がたくさんいるらしいけど本当……いてっ」
好奇心で飛び出してきた小柄な生徒が、年長の男に小突かれた。
「あんなのと同じ部屋で大丈夫なのか?」
おそらくまとめ役なのだろう、一番落ちついた雰囲気の学生が、坐ったままアンゲルを見上げて質問してきた。
「相当乱暴だって噂じゃないか。校内の物をいくつも破壊してるし、ルームメイトをサンドバッグ代わりに殴りまくって、危うく殺しかけたって話じゃないか」
「ええっ!?」
アンゲルは本気で驚いた。そんな話は聞いたことがない。そもそも、シュッティファントなる単語が何を意味しているのかも、イシュハに来るまで知らなかったのだから(今だってなんのことだか、実はさっぱりわからないのだが)
その場の全員が、今やアンゲルに注目していた。どんな返事を期待しているのかはなんとなく想像がついた。『そうなんですよ。あいつら異教徒は非常識なんです。なんたってアニタ教ですからね。常識も秩序もない』だ。
でも、アンゲルはそうは答えなかった。
「そこまで酷い奴じゃないですよ。確かに性格はおかしいし、喋り出すと延々と止まらないし、髪染めるの失敗してるのに気付いてないし、人の話は全然聞いてないみたいでしたけど……」
部屋はシーンと静まりかえっている。全員がアンゲルを『お前何?』という疑惑と非難の目つきで睨んでいた。
「あ、あのー」気まずくなったアンゲルは撤退することに決めた「アルバイトの広告だけもらって帰りますから」
からみつく視線をふりはらうように、アンゲルは壁際に積んであるアルバイト情報を数枚ひったくり、ドアに向かって走った。
しかし、誰かに服の背中をつかまれ、部屋に引き戻されてしまった。
「まあ待て、ちょっと話をしようじゃないか」
「いや、あの、俺、急いでますんで」
そこでアンゲルは妙なことに気がついた。
「あのー」
「何だ?」
「俺以外に、新入生は来てないんでしょうか?」
「最近の学生は信仰が足りないからな。すぐイシュハに染まって、我々の集会には出てこないのだ」
……俺も最初から来るべきじゃなかった。
アンゲルは心の底から後悔したが、遅かった。
このあと、管轄区のコミュニティメンバーたち、つまり『敬虔なる女神イライザの信徒たち』は、一斉にアンゲルに向かって『アニタ教の奴らをイライザ教に改宗させよう』だの『布教活動に協力してくれ』『女神のために奉仕するんだ』『イシュハに染まった奴を正しい道に引き戻そう』だのお説教を始めてしまった。
アンゲルは、異常に熱のこもった彼らの演説を聞きながら、うすら寒いものを感じていた。目の前の学生は、この自由主義のイシュハにいるこの若者たちは……管轄区本国にいる学生よりも、数段、狂信的で、信仰に熱心に見えた。何がそうさせるのかはアンゲルには見当がつかなかったが、少なくとも、管轄区で一緒だった学生たちのほうが、まだ信仰に対しては、冷めていた。毎日のルーティンになると、どんな伝統でも信仰でも、つまらなくなるものだ。うまくサボる方法も知っている。それが、この目の前の学生たちときたら……まるで、布教活動が自分の使命だとでも言いたいような熱烈な目つきと態度で、延々と『女神様』だの『道徳』だの『イシュハ人の放蕩』だのを語るのである。
いや、本気なんだ。こいつらはあくまで本気なんだ。本当にそれが『正しい』ことだと思ってるんだ。
俺だって管轄区の人間だ。それはわかる。
しかし何だろう、この得体の知れない不気味さは。
説教からようやく解放されたあとで時計を見ると、3時間以上過ぎていた。
廊下を歩く足がふらついた。軽い吐き気すらしてきた。
気晴らしに敷地内の大型の本屋に入ることにした。管轄区では禁止されている本がたくさんあるはずだ。
こちらにいられる間にできるだけ読んでおこう……。
と思ったのだが、入口から入ったとたん、卑猥な(イシュハ人にとってはごく普通の、水着の宣伝なのだが)女性のポスターに驚いて、アンゲルは外に飛び出してしまった。
何だ?何だ?今のは何だ?どうして入口にあんなものが?いくら自由主義でもあんな露出はないだろう!?いくらアルターが暑いからって!
と思ったら、目の前をほとんど下着のような格好で歩く女性の集団が通り過ぎた。災いなるかな、ビキニやビスチェを普段着として投入するのが、このアルターの最近の流行なのだ。
再び飛びのいたアンゲルは、入口から出てきた男性に衝突した。
男性に謝って、頭を抱えながら帰り道を歩き出すと、今度は女神アニタに扮した女優が、腰に紫色の布を巻いている以外ほぼ全裸で映っている巨大な広告(ビールを手に持っているので、飲料関係の宣伝だと思われる)が目に入った。大きなビルの壁を覆うほど大きく印刷されて、『アニタが愛したビール』なんていうキャッチコピーが、妙にくねくねした字体で、女優の体の線に沿うように添えられていた。
おいおいおい、なんだあれは?しかもアニタって、女神だろ?
アンゲルのために説明すると、管轄区には写真を使った宣伝がほとんどない。女性のスカートの長さはくるぶしより下と決まっている。女神を広告に使うことは禁じられていないが、それは『そんなことを思いつく不敬な人間がいるはずがない』からだ。
アンゲルはしばらく、この『不謹慎な』広告を見上げて呆然と立ち尽くしていた。
イシュハの『異教の女神』は確かに強敵だ。
自ら脱いでまで、自由をうたっているのだから。
アンゲルは頭を抱えた。
いくら自由な国でも、女神を宣伝に使うなんてどうなってるんだ?
こんな国で本当にやっていけるのか?




