2-3 アンゲル ヘイゼル エブニーザ 男子寮の部屋
試験終了後、アンゲルはエレノアの姿を探したが、見当たらなかった。学生の数が多すぎて、人ごみに紛れてしまったようだ。エブニーザは試験終了と同時にカウンセラーにさらわれていった。たぶん今から面談でもするんだろう。
見学させてくれって頼んでおくべきだったかな。
アンゲルは思った。試験の最中に気がついたのだが、心理学、特にカウンセリングを学ぶと言うことは、問題のある人間、つまり、エブニーザみたいな人間に対応しなくてはいけないということだ。
人づきあいは嫌いではないが、問題を抱えている人間に対応する自信がない。
今のうちにいろいろやっておかないと、困るだろうな……。
他のたくさんの学生にまぎれて外に出ると、強い日差しに目を細める。
まぶしすぎる!しかも何だこの暑さは!?
アルターはこの日、39度。連日暑い日が続いていて、熱中症で倒れる学生が多いと誰かが話しているのが聞こえた。アンゲルも、少し歩いただけで頭がくらくらしてきた。
管轄区よりはるかに北にあるはずなのに、なぜアルターはこんなに暑いんだろう……?
疑問に思いながら寮にたどり着く。クーラーが効きすぎて今度は寒気がする。
「おー帰って来たかエンジェル氏」
ヘイゼルがソファーに座って新聞を読んでいた。また赤いジャケットを着ている。
そういえば、ずっと同じのを着てるな。お気に入りなのか?
「どうだった?」
「ここは俺の部屋だろ?」
「いいじゃないか、通路みたいなもんなんだから」
「新聞は自分の部屋で読めよ」
「まあまあ、そう怒るな」ヘイゼルが新聞を振った「キュプラ・ド・エラ対イシュハの試合があした、中継されるぞ。食堂のスクリーンが人で埋まる」
「ほんと?」
アンゲルが苦笑いした。管轄区のサッカーチームはすでに敗退していた。
「あそこのチームはほとんどゲイだ。怖いぞ。見ろ。俺はちょっと電話かけるから」
ヘイゼルが新聞をアンゲルに向かって投げると、電話に向かった。
「はーいお元気かなシグノーのご令嬢よ!もうお聞きだろうが俺は生還したぞ!さんざん悪口を言いやがって!このまま追い出すつもりだったんだろうが、お前の思い通りにさせるかってんだ!……あれ?きみ誰?」
勢いよくしゃべりだしたヘイゼルが、急に小声になった。アンゲルは『俺の部屋で延々と長電話されるのか……』と思ってうんざりしながらも、会話が気になったので新聞の影からじっと様子をうかがっていた。
「おお、ルームメイトその35か。え?いや、俺の計算が正しければ君が35人目なんだよ。あの麗しきお嬢様はすぐに人をたたき出すからね。君も今のうちに別な部屋を探したほうがいいんじゃないのかな?神経をやられる前にな」
34人も追い出した?どんなお嬢様だよ?イシュハの金持ちはみんな性格が悪いのか?
「ところで、ご令嬢はどこへおいでなのかな?いやいや、別に探し出そうってんじゃない。俺はしばらく管轄区に留学してたんでね、帰還の報告をしようと思ってね……え?停学?そんなわけないじゃないか。仮にもシュッティファントの人間が!そうそう、俺がヘイゼル・シュッティファントだ。その様子だと俺のことをフランシスから聞いてるな?」
シュッティファントってどれだけ偉いんだろう……とアンゲルは思った。
「ところで君は何て言うのかな?え?アレン?フリノッタ?ややこしい名前だな。いったいどこから来たんだ?え?違う?何だ?ゆっくり発音してくれ……ああ、何だ、エレノアか」
アンゲルは新聞を投げてソファーから跳ね上がった。
「いい名前だけど、同じ名前の女を5人くらい知ってるぞ。ドゥロソの国境近くにはたくさんのエレノアさんがいるんじゃないかな?まあそんなことはどうでもいい」
「おい!代われ!代わってくれ!」アンゲルはヘイゼルに向かって走り、小声で叫んだ「知り合いなんだ!」
「えーと、いや、とりあえず本人に伝言しておいてくれ。それと、君、アンゲル・レノウスって知ってるかな?今後ろで『代われ!』ってわめいてるんだけど」
「ヘイゼル!」
アンゲルの顔が真っ赤になった。
何て事を言うんだこいつは!
「ん?ああそう、列車で会ったのね、なるほどねー」ヘイゼルがアンゲルを見ながらにやにやし始めた「アンゲルは俺と同室だし、君はシグノーのフランシスと同室。つまり俺たちはいやでもお友達ってやつなのよ。フランシスにもそう言っといてくれ。今後よろしくね~!じゃあまた」
ヘイゼルが受話器を乱暴に置いた。
「何で切るんだよ!?」
「先に説明してもらおうじゃないか。フランシスと同室のお嬢さんとはどんな関係かな?」
ヘイゼルがソファーにどかっと音を立てて座り、肘掛にもたれて、楽しそうな目つきでアンゲルを見上げた。
「ここに来るときに列車が一緒だったんだよ。さっき試験会場でも会った。それだけ」
「お顔が真っ赤ですぞ、エンジェル氏」
ヘイゼルが薄眼でニヤニヤしている。面白くてしょうがないという顔だ。
「うるさい!自分の部屋に戻れ!」
「まあまあまあ、どうして俺がそんなことを聞くかと言うとだな、エレノアと一緒の部屋にいるフランシス・シグノーが、とんでもない悪魔だからさ。俺は心配だね」
「悪魔?」アンゲルが呆れた「それはお前だろ?」
「まあまあまあ。とにかくな、シグノーのご令嬢は同室の人間をいじめまくって、神経症にして叩きだすのさ。犠牲者が34人いる」
「だから?」
「言っておくが、俺の数倍すさまじい性格をしているぞ。世界一ヒステリーだ」
アンゲルはエレノアの笑顔を思い出した。今頃いじめられてるんじゃないだろうか?
それに、ヘイゼルよりすさまじい性格って何だ?
「別な部屋に変更できないのか?」
「ここの事務は融通が利かないんだよ。お前もよく知ってるだろ?」
「何の話ですか?」エブニーザが帰ってきた「試験は簡単でした。でも人が多すぎて……」
「多すぎて何だ?」
「授業もあんなに人が多いんですか?」
エブニーザは今にも泣きそうだ。人混みを心の底から怖がっているらしい。
「そんなことはないだろ」アンゲルは、エブニーザの顔があまりにも真っ青なので心配になってきた「今まで何してたんだよ?カウンセリングか?」
「わかりません……」
「わからない?」
ヘイゼルとアンゲルが同時に叫んだ。
「あの人たちが何を聞きたいのか、全然わからないんです……」
エブニーザは疲れ切った表情で、自分の部屋のドアに向かった。
「おいおいちょっと待て」アンゲルがエブニーザの肩をつかんで止めた「カウンセラーに何を言われたんだ?」
「何を……」エブニーザが目線だけ横に向けた「覚えてません」
「はあ?」
「疲れてるんです。眠らせてください」
エブニーザは伏し目がちにアンゲルを押しのけて、部屋に入り、ドアをそーっと、音が立たないように静かに、閉めた。
「なんだよあれは!?」
「俺に聞かれても分からんね」ヘイゼルが新聞を拾ってまた読み始めた「お前、心理学やるんだろ。自分で分析しろ」
アンゲルはエブニーザの部屋のドアを見つめながら、自分がこれから入っていこうとしている世界が、思ったよりもずっと難しく、理解しがたいものだということに気がついた。
……やっていけるのか、ここで。
ソファーに座り込んで頭を抱えたが、突然気がついたようにとなりのヘイゼル(ソファーに寝そべって新聞を読み始めた)に向かって、
「ここは俺の部屋だぞ!」
と叫んだ。
「そんなに怒るなよ。教会っ子は短気だな」
「お前に短気なんて言われたくないな!」
アンゲルはヘイゼルを睨みつけた。でも、すぐに別なこと―かなり重要なこと―を思いついて、立ちあがった。
「ヘイゼル」
「何だ?」
ヘイゼルは新聞から目を離さない。
「エブニーザは、人さらいの顔を知ってるんだな?」
「覚えてないって言ってたが」ヘイゼルはあいかわらずスポーツ欄に夢中だ「まあ、思い出せれば、わかるだろうな」
「思い出させるんだよ!」アンゲルがヘイゼルの持っている新聞をひったくって叫んだ「それで、犯人を捕まえるんだ!そしたら、他の、行方不明の子供たちも見つかる!」
「新聞を返せ」今度はヘイゼルがアンゲルの手から新聞をひったくった「悪いが、その話はエブニーザにはしないでくれ」
「なんで!?これは大事件なんだぞ、俺たち管轄区の人間にとっては」
アンゲルは興奮気味に、荒い息をしながら尋ねた。
「昔のことを尋ねると」ヘイゼルがめずらしく穏やかな声でしゃべった「パニックを起こして泣き叫んで気を失うぞ」
「えっ?」
「思い出させるようなことはするな」
ヘイゼルは言い捨てるようにそう言うと、また新聞を眺め始めた。
アンゲルはしばらく、反対側に座って考えていた。
思い出すとパニックになる?気を失うだって?でも、前にそんな話を聞いたことがある……たしか、飛行機事故の被害者だ。墜落の日を思い出すと全身が震えて何もできなくなって、それで心理療法士のところに来たと書いてあったな……。
アンゲルは心理学概論の本を手に取り、読み始めた。
今はだめでも、そのうちエブニーザから真相を聞きだして、あの大事件を解決してやるそ!この俺が!
そんな、大それたことを考えながら。




