8-6 アンゲル ヘイゼル 男子寮の部屋
「大統領?」
「そうそう。エブニーザがそう言ってたんだ」
「おい!エブニーザ!」
ヘイゼルが、エブニーザの部屋に向かって怒鳴った。
「まだ帰ってきてないよ。図書館にでもこもってるんだろ」
「大統領なんて冗談じゃない」ヘイゼルが心底嫌そうにふんぞりかえって宙を仰いだ「てきとーに国会議員か、まあ、せいぜいどっかの長官か、その程度でいいよ」
「お前らしくない発言だな!」
意外だな、とアンゲルは思った。ヘイゼルは常日頃『俺がこの世で一番偉い』という態度でいるので、てっきり大統領になると聞いたら喜ぶと思っていたのだ。
「だってめんどくさいだろ。常に国民に監視されてるんだぞ?」
「監視って……」アンゲルはあきれた「政治家はみんなそうだろう?」
そう言いながらもアンゲルは『監視されている政治家』という表現に違和感を感じた。ただ、少なくともイシュハの政治家は、常に記者に囲まれているイメージがある。普段の行動には注意しないといけないのだろうということは想像がつく。
しかし、アンゲルは管轄区の人間だ。
管轄区を支配している教会の上位者は、めったに人前にも、マスコミにも出てこない。
そもそも、管轄区にまともな報道機関なんてない。
「政治なんて好きで専攻してるわけじゃない。だが、シュッティファントはみんな政治家になるって決まってるんだよ。親父もそうだし、その前もそうだ。でも、みんなせいぜい州知事か、国会議員止まりだよ。もともと金持ってるってこと以外にとりえのない一家だからな。商売だの技術だの、そんな才能は誰も持ってない。やたらに買収するのは好きだがね。要するに、自分には何も作る才能がないから、横から取るんだよ。だから政治家になるんだ。政界なんて、自己主張以外にとりえのないわがままの巣窟だよ。俺だってそうさ、弱気で自分のないやつらに怒鳴りつけるくらいしか能がない。無難な選択なんだよ、政治ってやつは」
「お前、意外と現実的だな」
「どういう意味だよ」
「てっきり、目標は世界征服なのかと」
「アホか!」ヘイゼルが心底つまらなさそうな顔になった。投げやりだ「世界なんて征服して何かいいことがあるか?どこに行ってもバカどもが余計なことをしてるもんだ。イシュハも管轄区もノレーシュもアケパリもキュプラ何とかも、同じだ。どこにでもバカがいて、麻薬を売ったり女に売春させたり、気に入らない奴はとっとと撃ち殺したり、好き勝手に生きてるんだ。世界中どこだってそんなもんだ。そんな世界手に入れて楽しいか?バカじゃないやつらも性根が腐ってるからな。善良そうに見える上流の紳士どもが影でとんでもない取引をしていたりするしな」
「とんでもない取引って何だよ?」
「それは企業秘密だ」
「なんでそこに企業が出てくるんだよ?」
「とにかく、家の中には秘密ありだ。ああ、これも世界共通だな。世界中の家庭は冷え切ってるぞ」
「もういいよ、その話は」また長話が始まりそうだったので、アンゲルは話をまとめようとした「とりあえず政治の道を進めよ。嫌々」
「嫌々な。お前も嫌々心理学やってるだろ?」
「俺は違う。昔からやりたかったんだよ」
「今でもやりたいか?同じ気持ちか?狂った教会に襲われてまでやることか?」
ヘイゼルが、人を信用していない白けた顔で尋ねた。まるで『お前だって何か隠してるだろう?違うか?』と探りを入れられているように、アンゲルは感じた。
「同じだよ。変わらない」
アンゲルはそう答えながらも、予想外に動揺している自分に気がついた。
どうしてこんなに頭がぐらぐらするんだ?襲われたから?いや、そうじゃなくても、最近ずっと、何かが頭に乗っているみたいに感じていた……心理学がいやになった?いや、そんなことはない……きっと疲れているだけだ……。いろいろなことが起こりすぎたから……でも、どうして教会は、医学や心理学をあんなにも嫌うんだ?必要としている人がたくさんいるのに!毎年飢えと病気で何万人も死んでいるのに!エブニーザみたいな精神病の奴だってたくさんいるはずなのに!
どうすればいいんだ?今更専攻を変えろってのか?でも、このまま続けていたら両親のところにまた変な人間が来るかも……俺だってまた襲われるかもしれない。
でもなぜだ?
こんなに目の敵にするのはなぜなんだ?
化学は良くて医学や心理学はどうして駄目なんだ?
たかが学問の一つにすぎないのに?
ああ!わからない!なにもかもわからない!




