1.2 願いのための贄の贄
たった二か月前の話だ。皇 明とその家族はとある悪に絡めとられた。今は昔の話だが、武勇に腕を鳴らしていた父を悪漢に嬲り殺され、その悪漢が繋がっていた非合法組織に家族もろとも招待されたのだ。
商家の娘に相応しい切れ者で、けれど病弱だった母も、若々しい美貌と肢体を持つ五歳年上の姉も、男気に溢れる姉の婚約者も、一つ下の弟も、明と引き離され監禁されている。
怒りと屈辱に燃え、悔しさに涙を流す明に向かって、非合法組織の長が金歯を晒して汚く笑いながら告げた。スカイダムを勝ち上がり、イカロスの環を手に入れた暁には“全て返してやろう”と。
トンだ無理難題を、それまで虫も殺したことがなかったような十二歳の少女に振ってかけた。
明はなんの思考もなく頷いた。他に選択肢などなかった。
痛めつけられ精神が不安定になっている姉を見て、“ワタシがやらなければ”と奮い立った。
その話を聞いたとき、冬生はこの世界の在り様に失望した。
全くおかしな話だが、かれこれ幾度目かの失望だ。
冬生や、その他の大人なら、明がとても無理な内容を押し付けられていることに即座に気付いたろう。けれど明は素直に受け、信じた。
悪党どもは少女の素直さを笑ったに違いない。愚かだと嘲笑し、弄び、侮辱したに違いない。
一言でいえば、明は騙されていたのだ。
明自身も、明の家族も。
そのことに、まだ幼い少女は気が付いていなかった。
悪党は基本的に、利用させる側の利益など考えない。取引をする気も毛頭ない。それが当たり前だからだ。そして、低能な連中になるほどそれは顕著になる。
明に無茶を命じた者たちは、そういう連中だった。
黒羽がそれを機械的に説明して見せ、明は目を見開いた。
医務室だろうか。明が寝かされていたベットのすぐ側の椅子で黒羽はどこか自慢気だ。一方で冬生は黙ったまま壁に背を預けていた。
「な、なんであなたたちが、そんな…」
腹だと思っていたが、正確には的確に鳩尾を狙われ気絶させられていたらしい。一口に鳩尾と言っても、対象によって体格も違えば肉の厚さも違う。冬生は、明へのダメージをほとんど残さず一撃で成した。
「お前さんの負けがコールされるなり怒鳴りこんできた不細工禿頭共がいてな」
冬生の技術に明が黙ったままでいると、黒羽が冬生を羽の先で示す。
「コイツがお前さんを庇ったんで、まあ、そいつらと乱闘になって。コイツはそいつらを片っ端からバッタバッタと気絶させ尽くして、おかげで会場は大盛り上がりだ。よかったじゃねえか」
何が良かったのかわからないが、ニヒルな口調のまま梟は笑う。
「殺さずに無力化するってのは、存外難しいんだよ。急所狙えば一発なのに、わざわざそれを外さなきゃいけねえんだからな。そいつらの中にちゃあんと、それをわかってるやつがいた。体格のいい男どもが、こんな貧相なガキに赤子みてえに扱われたらそりゃビビるって。んで、そいつがな、ペラッと教えてくれたってわけだよ。お前さんは」
「黒羽」
そこで、冬生がやっと言葉を発した。明が目を覚ましてからは初めてだった。
そうして、
「うるさい」
とだけ言った。
冬生はあまり機嫌がよくなさそうだったが、黒羽は「んじゃあ、いつにするか言えよ」と言った。
「この後すぐ」
それだけで黒羽は何か察したようだった。
◇
“スカイダム”の各地域戦は予選も地域戦と同じように一日一試合と決められている。予選終了から地域選開始までに準備期間が設けられるが、それは飽くまで大会管理側の都合であり、個人では動かしようもなかった。
そして、過去のどの“スカイダム”においても、予選から地域戦に移行する期間が統一されたことはない。一週間だったこともあれば、半日後だったこともある。
冬生はこの問題を地域戦まで引きずる気がなかった。
「あの…」と、少女・明が呟いた。冬生に声をかけたようだった。
明は不思議で仕方がなかった。黒羽の言葉は全て明の現状を連ねただけで、冬生と黒羽がここまで行動する理由を説明するものではなかった。
「どうして、なのですか。敵でしたのに」
冬生は壁に背を預けたまま白い布で愛刀の刀身を拭いていた。最初からずっとフードを被ったままで、冬生は姿勢を崩さない。
「…ソレ、どうしても知りたいこと?」
と、冬生は言った。抑揚はなく、感情というものがわからない。
「…め、面倒ではないのですか? アナタにはアナタの戦いが、…“スカイダム”に参加してまで叶えたいことがあるのにどうして…」
「…」
冬生の目が伏せられた。ように、明には見えた。
「…俺の願いが…誰かの願いが叶わない理由には、したくない」
歯切れの悪い冬生の答えに、予想の斜め上を通過されたような感覚が明を襲う。それが信じられなくて、明は目尻をキッと吊り上げた。
「初戦の方の願いは踏み潰したんでしょう、なのにどうして…!」
「…、…」
冬生は薄く唇を開いて、一拍ほどのあとで閉じる。何か言いかけたようだったが、刀身を鞘へしまい壁から背を離して出入り口に向かうと、黒羽がその肩へ飛び乗った。「悪いな」と、苦笑交じりに黒羽は明へ言葉を向ける。
「コイツ、口下手でさ。今言葉で説明すんのが無理なんだわ、多分」
「多分て…」
「全部終わってからならわかる」
黒羽のはっきりとした口調に明はつい口をつぐんだ。
「さて、嬢ちゃん。桃太郎は知ってるか? ここからはな、鬼退治だ。こっちも本気、向こうも本気。斬った張ったの血みどろ展開待ったなし。コイツは桃太郎みてえに従者もいなけりゃ、そもキビ団子も、団子持たしてくれるジジババもいねえポンコツ太郎だが、ここからはまあ間違いなく――戦争だ」
黒羽の瞳が重く澱んだのを、明は見逃さなかった。暗く沈んだ声音が耳に痛く残る。黒羽は冬生の肩の上から明を見下ろし、首を傾げた。
「ついてくるか?」
明は、答えに詰まった。
小さな頃からハキハキと物を言う子供だった明は、そうなるように教育されて、実際にそう育った。
だからはっきり言うと、てっきり無理やり連れていかれるかと思っていた。
「ワタシに、選択権があるのですか…?」
「そりゃあ、まあな。勝手に首を突っ込んだのはコイツで、行動するっつったのもコイツだし。原因が嬢ちゃんだったとしても、それを今以上にかき回そうとして、おまけにしくじったらお陀仏なんだから、一応は訊いとかなきゃな」
黒羽は仕方なさそうに笑って、黙った。明の回答を待っているらしい。
与えられた選択肢は二つだ。
冬生と黒羽の行動について行くか。ついていかないか。どちらでも、冬生の“事態への乱入”が成功すれば明は解放されるし、失敗すれば死ぬ。
このまま冬生を行かせなくても、死ぬ。
明はベットから降り、一人と一匹を見上げた。
「もとはと言えばこれはワタシの、…ワタシたち家族の問題です」
年齢の割に座りきった肝と、一人で全てを請け負おうとした覚悟がこのまま一人安全な場所に残ることを良しとはしなかった。
「ワタシも行きます」
黒羽は笑って、冬生は無言のまま少女を一瞥し、部屋を出る。自分の装備を急いで手にした明はその後ろを追いかけた。