1.1 負けて
冬生が振りかぶったそれに刃はない。鞘を纏ったままなのだ。
観客にとって冬生の戦法は意外だったらしく、思わぬブーイングを生むことになった。闘技場には野次が飛び交い、冬生への口汚い罵声が絶えない。
一方で、冬生と相対する少女の息はとっくに切れ、肩を揺らして呼吸していた。
腰を低く落とし、小さな左手を冬生に向けて突き出している。
「お覚悟!」
“闡枷”には鍔がない。ちょうど鞘と柄が合わさる部分を握りこみ、少女、皇明を迎え撃つ。
中華風の衣服を纏う明の右手に針が仕込まれていることは試合前の決まりで確認済みだ。
冬生は明の手の動きに合わせて構えをなおし、受ける瞬間に“闡枷”を手前に引く。掌が“闡枷”を突く。しかしほとんど触れた感触を残さないままに、冬生は五メートルほど後方へ移動していた。
明は焦っていた。もう何度もこうして攻撃をやり過ごされている。
勝機の見えない状態が続き、体力の限界も見え始めた。
けれど明は負けられない。伊達や酔狂で、ここには立っていないと自身を奮い立たせる。
フードを被り、顔も見せないような輩に倒されてなるものか、と胸の内が荒れ狂う。
「何故逃げるのです!」
必死と顔に書いた明の叫び声にも冬生は微動だにしない。反応したのはフードの肩で体を丸めている梟だった。
「いやあな、大したもんだと思ってよ」
「何がですか」
「そういうところだよ」
「ワケがわかりません…!」
再び明が踏み込み、冬生に迫る。
“スカイダム”アジア予選第二試合が開幕し、約三十分が経過していた。
◇
「今度の相手、娘だったぜ。お前より頭一個半は小せえガキンチョだ」
黒羽はばさりと羽を閉じて冬生の所へ戻ってくるなり、そんな報告を始めた。試合開始まで十分もないというのに、暢気なもんだと冬生は隠さず漏らす。
“スカイダム”出場選手に与えられる控室は無駄に広く、開放的な造りをしている。牢屋の鉄柵を取り外して部屋にした、と説明されても頷ける。
なので、通りを一歩きすれば選手の顔も簡単に確認できてしまう。
「別に頼んでない」
「なーに言ってんだよ、お前、こんなの基本だろ。まあ最後まで聞けって」
黒羽の言い分に、冬生は仕方なしとばかりに口を閉じた。
「ガキンチョだが、ただのロリじゃねえな。顔がマジだった」
「そのスラングどうにかならない?」
「お前がチビの頃より迫力あったぞ」
にやにやと笑う銀色の梟に冬生は溜め息を吐く。
「なんだよ、不服か?」
「猛禽類はこっちじゃ珍しいから、狩られないといいなって」
「んだそれ、意地悪か」
「黒羽ほどじゃな、い」
不意に、フードから覗いた深い色の前髪が揺れた。間を置いて、そうか、と吐息のような声が漏れ出る。
第二回戦が始まるまで五分と少し。
◇
「僅か十二歳にして功夫と針術の使い手、皇明!微動だにしない冬生へ再び仕掛ける!!先ほどから避けられてばかりだが今回はどうだーー?!」
ゲームナビゲーターが大きく吠える。
明の右手が撓ったように見え、刃を恐れない一撃が繰り出される。軽そうに見えてその実は大の男をも昏倒させる、子供が扱うにはあまりにも重たい突きだ。食らえば彼女の全体重以上の衝撃が襲うに違いない。
強い子供だと、冬生は正直に思った。
一回戦で相対した剣士は冬生が刀を振るう前に尻を地面につけていた。けれど。明は圧倒的に、力量以前に、冬生に敵わないものがある。
勝敗を分けるのは、単純にそれだけだ。
「ワタシは」
「…」
「負けるわけにはいかないのです!」
「…」
「力の差、経験の差、当然です!それでも…!」
小さな拳が下がると、今度は左膝が頭を狙って蹴り上げてくる。「黒羽」と呼ばれ、梟が冬生の肩から飛び上がる。と同時に、冬生の手が伸びて明の両腕を引っ掴み地面に引き倒した。
強く背を打ち、明の肺から空気が叩き出された。
負けじと冬生を睨み、フードの中に落ちる影の先から視線を逸らさない。明は、泣くなと自身を叱り付けた。
皇明という少女は特別強いわけではない。誰が何と言おうと“常人より少し強い”だけの、それ以外は普通の少女である。格闘術を身に着け、医術を応用した針術を用いようとも変わらない、越えられない境目がある。
斬るべきは、そんな彼女を喰らおうとする連中。
「基本的に、負けばかりだ。こんな世の中では、どうしても、」
そう述べた冬生に、明は瞳を見開いた。明の覚えにある限り、明に向けられた冬生の声を聴いたのは初めてだった。近くに降り立った梟は静かに二人を眺め、こういう時に限って軽い口を開かない。
「どうしても、変えられないものもある。それでも」
冬生の場合、何をするにも語らず、ある時から顔すら隠すようになった。黒羽は変わらずまだ静かに羽を休ませている。
正否に関わらず、冬生が酷く疎んでいるものがある。そういう、冬生が隠しているもの…醜く暗いものに、明は触れた気がした。だから、叫びをあげてやる。アナタとは違う。そう言わんばかりに、明は大きく息を吸って、声を吐き出した。
「ワタシは、家族のために戦うのです。自分を犠牲にするのでもなく。ワタシたちの平穏のために!こんなところで、家族を置いて、…ましてや家族を脅かす連中を残したまま死ぬなんて、ワタシにはできない」
「…」
「死んだって死にきれない!!」
相槌も打たない相手に明は泣きながら訴えていた。あれだけ泣くなと自分を怒鳴り、涙腺に言い聞かせても涙は思いと共に頬を流れ落ちてく。そんな彼女に「負けて」と、冬生が短く呟いた。「そうすれば、俺が君の憂いを斬り落とそう」と。
「なにを」
言っているのですか。掠れた声で明は訊く。黒羽の溜め息が聞こえ、次いで腹部への衝撃があった。
冬生の主張は一度きりだった。