プロローグ
黒の中に立っていた。
光がないとか、そういうことではなくて、単純に真っ黒いのだ。
「それがお前なんだ、冬生」
語りかけてくる声を無視した。
よく知っている声のような気がしたけれど、あまりにも冷たい響きを帯びていたから。
「手にとればいい。それだけで、お前は未来を…お前自身さえ、変えられる」
気がつけば、白い靄のようなものが冬生の目の前に浮かんでいた。
輪郭ははっきりせず、五感があるような機構には見えない。
雪のようだと、冬生は思った。
それでも、白い靄は確かに冬生を捉えているようだった。
けれど何を掴めといっているのか。冬生にはさっぱりわからない。
白い靄は特になにかを指し示してはいなかった。
けれど、
「変えられる。これから先の未来に何があろうと。どんな不幸があろうと。みんな、お前の力で変えてしまえる」
面白ことを言うものだ、と冬生は呟く。確信があった。
変わり続けて、ここまできた。これ以上は変われない。
そう確信するところまで、冬生は来てしまった。
「変わらない。もうずっと昔から、このままだよ、俺は」
宣言する。
白い靄は何も返さなかった。
「変わらなくて良い。変えられなくて良い。ただそこに、お前がいれば良い。俺はお前の側で、変わらないまま、変えてく」
心の中の、言葉。
そうしている間に、冬生の意識は一気に浮上する。
白い靄を目の前にした真っ黒な世界から、現実へ。
フードを被った小柄な体躯の人間に、注目が集まっていた。
「勝者、東の島国に古より伝わる刀の使い手であり“冬”の継承者・冬生!!
まさかまさかの、対戦相手に欠片ほどの傷も負わせずにスカイダム予選一回戦突破だー!!」
勝敗を告げるゲームナビゲーターの男が吠えると、小さな歓声が上がった。
冬生は足元に倒れている男を見て、そうして、手に握っている刀を見つめる。
“闡枷”。
冬生が冬生たる理由である刀。
勝利の味程度では癒すことができない、あまりにも重たい武器。
冬生が持つと決められていた、力。
刀身を鞘へ戻し、冬生は熱気に満ちる闘技場を後にした。
◇
季節の一文字と刀を対にして継ぐ血筋がある。
極東の島国にあって、その二つを持つ者は各世代に一人のみ。
冬生は“冬”と、“冬”の名を持つ者が継げる刀・“闡枷”を受け継いだ当代の継承者だ。
“闡枷”は極東の島国に脈々と受け継がれる東式古太刀の一つとされ、その歴史は1000年と少し。
“冬”の先代…冬生の親が絶命した際、その子供も命を絶たれ“冬”の血筋が滅びたとされていたのは、つい最近までの話。
冬生が“スカイダム”への参加を表明したことは、すぐに知れ渡った。
その存命を疑う連中も多くいた。
けれど同時に、フードを被った小柄な体躯の肩に銀色の毛並みを持つ梟がいたと広まれば、疑う者は完全に消え失せた。
◇
「瞬殺だったじゃねぇか、冬生。お前が相手の能力を推し測る暇さえ無駄だと思える弱さだった」
「やめろよ黒羽、失礼だ」
「事実だろう」
銀色の毛並みを持つ梟が言葉を発した。黒羽は純粋な猛禽類ではなかった。
それさえ既に周知の事実なので驚く者もいないのだが。
「偽善はいけねぇな、冬生。“闡枷”と繋がってる俺に隠し事なんざ、するだけ損しかしないんだ。辞めておけよ。
お前は自分を倒せる誰かがまだ現れないことに酷く焦ってる。さっきの奴は論外だよな、お前が一足踏み込むだけで怯み、一太刀振るおうとしただけで膝から力が抜けちまった」
「…」
「文字通り、お前は戦ってすらいなかったのにな。可哀想なやつだよホント。…でも、そんなお前が好きだぜ、冬生。“冬”と“闡枷”の継承者はそれくらいじゃねぇとつまらない」
饒舌な梟を睨み付けることすらせず、冬生はフードの下でその瞳を伏せてしまった。
本当に冬生の持つ力故なのか、それとも、対戦者の弱さ故なのか。
先程の勝敗に、観戦者は大盛り上がりだった。黒羽も例外でないらしく、梟の姿で人間的な感想を並べ立てた。梟の姿をしているが、これでいてド派手な展開とスリルを愛するギャンブラーでもある。
「なんだよ、今さら。俺が気にくわないか?それとも他にも不満要素でも?」
「…別に」
「お前はこの“イカロスの環”争奪戦に出場した。覚悟してたただろう。お前の存在が知れ渡ることも、俺が…“冬”と“闡枷”の守り神である俺がいる限り、偽ることなんかできやしねぇ」
「だから、わかってるよ」と言いつつ、守り神とは大層な表現だなと冬生は内心で呟いた。
黒羽は“闡枷”という刀に取り憑く…いわば影のようなものだ。
離れることはまずあり得ない。
“闡枷”がある限り、そこに在り続ける。
命ですらなく、そもそも呼吸を必要としない。
刀に宿り、その持ち主の精神性に呼応して意識を表面化させる、守護システム。
護霊と呼ばれる。
神というよりは、文字通りとても霊的なものに近い存在だ。
東式古太刀には、対になる形で必ず専属の護霊が守護の任を与えられているのだという。
東式古太刀の所有者は切り続けなければいけない運命に置かれる。
それは同時に、所持者に最悪の展開を示し続ける。
戦場での最悪な展開。
その時のため、黒羽たちは存在し続けていた。
「明日は二回戦目だ。そろそろ休むか?」
黒羽の言葉に冬生は小首を傾げた。
体力を消耗するほど動いた覚えはないし、それは黒羽も知っているはずだ。
ずっと冬生の肩の上で見ていたのだから。
少しだけ考える素振りを見せると、冬生はフードの下から小さく呟いた。
「黒羽は今日は外で寝なよ」
「なんでだよ?!」
「さっきの、やっぱり精神的に…うん、…」
「めちゃくちゃ嫌だったんじゃねぇか、その時に言えよ!」
黒羽が困ったように叫ぶと、フードの下の雰囲気が揺らいだ。「え、言ったら辞めてくれたの…?」と言いたげである冬生を見据え、黒羽が呆れたように溜め息をつく。
「何で辞める必要があんだよ、アレは事実だろ」
今度は冬生が溜め息を吐き出す番だった。思ったことは思ったままに言うのが黒羽だ。それくらいわかっていたのに、無駄な期待をしてしまった。冬生がほんの少し後悔していると、でも、と黒羽が続ける。
「別にな、お前を傷つけんのが目的で言ってる訳じゃねぇんだ。自重はしてやるよ、少しくらいは」
小さな声で呟かれた言葉に冬生は一瞬固まって、不意にフードを目深に引き直した。
黒羽は黒羽なりに、冬生を気遣っていたらしい。
「んだよ、なんで隠れる」
「隠れたわけじゃない」
「嘘つけ。下手糞か。見るからにしょげやがって」
なんだかんだ、冬生と黒羽の付き合いはもう少しで17年になる。黒羽なりの極めて分かりにくい気遣いにも慣れたと思っていた冬生は、梟の言う通り肩を落としていた。
目元を隠す前髪がフードから覗く。
「黒羽ばっかりが、俺を知ってるみたいだ」
「そうだな、その認識は正しいぜ」
偉そうな口調は変わらず、ほぼ真横からフードに隠れた冬生の目元へ目玉を動かす。
「お前のことなら大概のことはまるっとお見通しだ」
冬生は答えないままに歩みを再開した。闘技場を抜け、一時的な住まいへ向かう。
道中、黒羽が広げた羽で後頭部を叩かれたが、別段誰も気に留めない、些細な戯れだった。
冬生は言葉通りに黒羽を窓の外へ放り出し、床に着いた。窓の外であーだこーだと黒羽が騒いでいるが、冬生の頭にあるのは翌日の二回戦目のことだった。
“スカイダム”。トーナメント形式で行われる、大会の正式名称である。本選の前にアジア、北アメリカ、南アメリカ、アフリカ、オセアニア、ヨーロッパの六つの地域戦があり、国境を無視した世界的な催し物だ。だがその実態は、一般から隔絶された世界一危険な“公式戦”と名高かった。
ルールは単純明快で、“必ず一対一で勝ち上がる”こと。
会場への細工の禁止や当事者以外の参加禁止など、会場内には他にも幾つかルールが設けられているが、会場の外に定められたルールは存在しない。あえて言うなら、“関係者以外に迷惑をかけないこと”くらい。裏を返せば、一般人に害が及ばなければ闇討ちだろうが仇討だろうがなんでも有りなのである。
それらの危険を冒して“スカイダム”に参加するのは、命を懸けるに見合った報酬が用意されているからだ。
“イカロスの環”。
およそ人が思いつく範囲の願いなら叶えられると言われている、規格外の代物である。
過去の勝者の一人は島国を攻め落とすための技術を。また別な勝者は世界中の女を思い通りにできる術を。また別な勝者は滅びぬ肉体を望み、実際に手に入れた。
冬生が参加したのはアジア予選。アジア戦の参加枠から溢れた人間が、アジア戦の一枠をトーナメント形式で争うものだ。
地域戦以前の、最も多く戦わなくてはいけない場所からのスタート。
壁に立てかけた“闡枷”を前に、冬生は瞼を下ろした。