青年の旋律 人魚の歌声(作:水崎彩乃)
弦を弾く。
その指から奏でられるのは優美な調べ。
波のさざめきが聴こえる街外れの海岸で青年は竪琴を響かせる。歌うわけでもなく、ただ静かに指を動かしていた。
青く澄んだ海が心を洗うように静かに揺らめいている。
地平線の彼方から見えるのは輝く太陽の先端。それは空を支配していた闇に光を射し入れ、ただ一心に竪琴を奏でる青年を照らし出す。
その様子はさながら神の祝福の一場面のようだ。
青年はただただ、遥か遠くの海を見つめ、音を奏で続ける。
『うたを、歌って』
彼の唇が紡いだ言葉は潮の香りとともに光が支配を強めた空へと吸い込まれていった。
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――――うたを、歌って
風に乗って幽かに聞こえた声に水面を見つめていた顔を上げる。
美しい竪琴の旋律に交ざっていたそれは続くことがなく、ゆるやかな風に浚われていった。
風が吹いてきた方角を見つめるが、そこには一面の青い海原が広がるのみ。しかし、その遥か遠い何処から竪琴の旋律が風に運ばれてきている。
声を思い出す。願うような、諦めたような、声。
何故か心が騒いだ。
昔、一度だけ感じたことのある、懐かしくて、優しくて、切ない想いが声を上げる。
海水に浸かっている自分の体が引き寄せられるように、旋律が流れてくる方角へと進み始めた。
聞こえなくなる前に、途切れる前に。
速く、早く、と急き立てられる。
夜明けの空気はまだ冷たく、温かい海水に肩まで沈んだ。
人間の持つ足とは違い、魚のような鱗に覆われている尾で水を蹴って進む。
音色の方角を確かめながら、できるだけの速さで海を進んでいった。
太陽が空の真上に来ている。
これまでも時々途切れていた旋律が再び途切れた。
何度かあったから流石にもう慣れたが、最初に途切れた時はどうしようかと混乱し、呆然と地平線を見つめることしかできなかった。
その時は空中を漂っていた風の精霊たちが何故かあわあわと慌てていたが、その少し後に再び旋律が聴こえてきて思ったことがある。
竪琴を奏でている者だって自分の生活があるのだ。一日ずっとそうしていることは難しいだろう。
途切れた時は――――諦めよう。
また聴こえてきたら、また進めばいい。
諦めるのは嫌だと言っている自分もいるが、どうしようもないのだ。
どうにもならないことは世の中、数え切れないほどあるのだから。
そう思ったら少し気が楽になった。今まで、よくわからない焦燥にかられてここまで来たが、そんなに焦らなくてもいいんだ、と思えて。
これまでは海に潜って用事をすませていたが、やることがなく暇になってしまう。
次に旋律が聴こえてくるまでどうしようか。
――――うたを、歌って
不意に思い出したのはあの声。
乞うような声に応えたいと思った。
うたを、歌いたい、と。
声は自然に出てきた。
竪琴の音を思い出しながら、その音を確かめるように記憶を声でなぞっていく。
うたの詩はない。
詩はまだいらない。
あの旋律が持つ、哀しみを、優しさを。
旋律に乗せられた想い。愛しさ、願い、祈り。
それらで音を紡ぐ。
ただただ歌う。歌い続けた。
最後に歌った時の記憶が鮮やかに蘇っていく。
あの子は今、どうしているだろうか。
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食事をして戻って来ると、うたが聴こえた。
奏で続けた調べの旋律と同じ音が焦がれた歌声で歌われている。
聴こえてくる歌声はあの時と何も変わっていない。
温かくて、柔らかくて、懐かしい。
海から風が伝えてくれる歌声に目を細めた。
もう少し、と竪琴を持ったまま歌声に耳を澄ませる。
今にも雨粒が落ちてきそうな空の下。
「ねえ、どうしたの?」
初めて聞いた彼女の声はまるで歌っているようだった。
『……。僕の声が、聞こえる?』
口を大きく動かして言ったが、声は届かないと思っていた。
しかし、諦めに彩られたその声を彼女の耳は拾っていたことが、わかる。
「綺麗な声だね」
ふわり、微笑んだ彼女は呟いた。
人には聞こえないこの声を初めて聞いたのは彼女で。
聞こえることを教えてくれたのも、姉のように時に厳しく、でも優しく接してくれたのも彼女。
希望を与えてくれた彼女に、
――――逢いたい。
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最後に歌った時は今でも覚えている。
あの穏やかな波の日。
『行かないで!!』
今でも耳に残っている、高くて綺麗な声。
行きたくない、と思いながらも残ることはできない。
たとえ人とは違っても、あなたは人の中に生きているから。
でも、私は人ではないから。
――――優しいあなたを守るために。
そう、決めたはずなのに……。
何故、彼はここにいるの?
否、何故、私はここに来たの。
目の前には成長して大きくなった、弟のような彼が。
こちらに気づき、徐々に破顔させていく彼が、いる。
『やっと、逢えた……!!』
風の声と同じ声はあの時より数段低くなっていて。
でも、綺麗なのは変わらなかった。
もしかしたら、自分は気づいていたのかもしれない。
風の声は彼だと。
逢えたことが嬉しくて。
昔のことを鮮明に思い出してもそれは揺るがなかった。
もう自分からは離れられないかもしれない。
しかし、それを嬉しいと思う自分が、嫌いではなかった。
彼が街にいない間は。
竪琴を奏でる彼の傍に私がいる、というのも悪くはないな、と。
そんなことを思いながら、濡れるのも構わずに海の中へと入って来る彼を抱きしめた。
FIN.
描写がとても美しいですね!
青年と人魚が互いに惹かれ合う姿が切なくて、素敵でした(^^)