君と紡ぐ物語(作:長谷川)
おなかが空いた。
もうどのくらいまともに食べていないだろう?
歩いていると目の前がチカチカして、何だか体が宙に浮いているような感じがする。地に足をついている感覚がどんどん薄れていって、わたしの足取りはよろよろとおぼつかない。
それでも今は、歩みを止めるわけにはいかなかった。
逃げなくちゃ。もっと遠くへ。
だって、わたしは〝化け物〟なんだから――。
◇ ◆ ◇
意識が戻ってくると、何だかいいにおいがした。
うっすらと開けた瞼の向こうに、規則正しく並ぶ木の天井が見える。
体が雲の中に沈んでいるみたいだった。と言っても、本当に雲の中に沈んだことなんて一度もないのだけれど。
とってもふかふかで、ほのかに太陽のにおいがする。気持ちいい。
もうずっとこのまま、この心地良さに埋もれていたい。
「――君」
そのぬくもりを手放したくなくて、わたしはもう一度まどろんでしまおうと目を閉じた。
けれどその直後、突然頭の上から人の声がして。わたしは驚きのあまり目を見開くと、カニに前脚を挟まれたネコみたいに跳び上がる。
「うわっ!?」
次いで聞こえたのは短い悲鳴。わたしが目を白黒させながらそちらを見ると、そこには真っ白な布を被ったおばけみたいなのが立っていた。
途端にわたしは恐ろしくなって、体を震わせながらひたと壁際へ身を寄せる。逃げなくちゃ、と脳が警告を発しているけれど、気づけばわたしは小さな寝台の上にいて、行く手は例のおばけに塞がれている。
どうしよう。わたしは頭の中が真っ白になり、体を縮めたままがたがたと震えた。
するとおばけが――正確には白い布を被った何かが――わたわたと動き出す。その動きに合わせて布が内側から突き出したり引っ込んだりするので、わたしはまたしてもびくりと跳び上がった。
だけどほどなく、その布がするりと床に落ちて。
「ぷはっ」と息を吐きながら姿を現したのは、枯草色の猫っ毛をした男の子だ。
「ひどいな、いきなり布を被せるなんて……」
――喋った。
やっぱり人間だ。
怖い。
「君、大丈夫? ここがどこだか分かる?」
わたしは体の震えが止まらなくて、壁際に小さく縮こまったまま首を振った。あんまり必死に振ったものだから、背中まで届く黒髪がびしびしと頬に当たって微かに痛い。
けれど今はそんな痛みに構っている余裕はなくて、わたしは怯えたままじっとおばけの中身を観察した。
歳は……たぶん十四、五歳くらいだろうか。わたしは人間のことをよく知らないから当たっているかどうか微妙だけれど、きっと隣に並んだら、わたしたちはそう歳の変わらない少年少女に見えるに違いない。
こちらを覗き込む男の子の瞳は晴れた空みたいに青くて、きらきらしているさまが遠い町で見たガラス玉みたいだな、と思った。
でも服装は質素であの町みたいな都会らしさは窺えない。着ているものは生成りの襟つきシャツに獣皮のベスト、それに一目で着古しと分かるくすんだ色の脚衣。
はっきり言ってしまうと、何だかちょっとみすぼらしい。
もっとも白の袖なしワンピースを一枚着ているだけのわたしが、他人の服装について偉そうな口を叩けたものじゃないのだけれど。
「まあ、分かるわけないよね。ここは村外れにある僕の家。君はこの家の近くの森で倒れてたんだ。覚えてる?」
「……」
「そんなに怯えなくてもいいよ。この家にはクマもオオカミもいないから。つまり、住んでるのは僕だけってことだけど」
「……」
「もしかして君、喋れないのかな?」
「しゃ……しゃべれ、る」
思わずそう答えてしまってから、わたしは「しまった!」と口を押さえた。
何ならこのまま喋れないふりをしてしまえば良かったのに。そうすれば楽に正体を隠し通せたかもしれないのに。ああもう、わたしのばかばかばか!
わたしはそんな自分の落ち度に心底がっかりして内心頭を抱えたけれど、そのときこちらを見つめた男の子の顔が急にぱっと輝いた――ように、見えた。
それに気づいたわたしが恐る恐る目をやれば、男の子はやっぱり嬉しそうな顔をしている。そうしていきなりこちらへ身を乗り出してきたので、わたしは小さく「ひぃっ!」と悲鳴を上げてしまった。
「良かった! もし喋れないならどうしようかと思った。筆談しようにも、僕、学がないから字が書けないんだ」
「あ……あなたは、だれ?」
「僕はクシェル。さっきも言ったけど、この家で一人暮らしをしてるんだ。君の名前は?」
「た……タピア」
「タピア?」
「う、うん」
「へえ、かわいい名前だね。ねえ、タピアはどこから来たの?」
質問責めというほどではないけれど、早速訊かれては困ることを訊かれてわたしは「うっ」と言葉に詰まった。
……わたしがどこから来たか?
そんなのはわたしも知らない。ただわたしは気づいたらこの世界にいて、いつしか「タピア」と呼ばれるようになって、あちこち逃げ回りながらここまで来た。
だから〝どこから来たのか〟という質問には、答えたくても答えられない。
どうしよう。このままだんまりを決めこんでいたら、さすがに怪しまれるだろうか――。
「あっ、あのっ、わたしは……っ」
こうなったら何でもいい。とにかく今まで食べてきた色んな人の記憶を継ぎ合わせて、適当に当たり障りなく答えてしまおう。
そう意を決して、わたしが顔を上げた矢先。
盛大におなかが鳴った。
もちろんその無遠慮な腹の虫は、ここしばらくわたしのおなかに住みついているとっても厚かましいやつだ。
「……タピア、おなか空いてるの?」
わたしは顔が耳まで真っ赤になるのを感じながら、おなかを押さえてぎゅうっとうつむき、頷いた。
クシェルはわたしが森で倒れていたと言ったけれど、それもこれもこのおなかの虫が原因だ。まったくこの腹の虫は呼んでもいないのにいつも勝手にやってきて、わたしがごちそうの代わりに押しこむ〝我慢〟をばくばく食べると、もっとまともな食事をよこせと口やかましくせがんでくる。
そうやって腹の虫が残った気力まで食べ尽くすものだから、わたしはついに歩けなくなってぱたりと気を失ってしまった。
要するに行き倒れだ。空腹のあまり遭難するのは今回が初めてじゃないけれど、やっぱりちょっと……いや、かなり恥ずかしい。
そんなわたしの羞恥を知ってか知らずか、クシェルはたいそうおかしそうに声を上げてからからと笑った。
「分かった。ちょっと待ってて。ちょうど今、今朝のスープの残りを温めてたんだ。持ってくるよ」
クシェルは気さくにそう言うと、ぱたぱたと木靴を鳴らして駆け去った。
けれどわたしはその背中を憂鬱な思いで見つめている。
彼の気持ちは嬉しいけれど、スープじゃだめだ。
何故ならわたしの空腹は、|食べものじゃ満たせない(・・・・・・・・・・)。
◇ ◆ ◇
クシェルの家は、今の彼が一人で暮らすにはちょっと広いけど、彼が大きくなったら少し手狭になるんじゃないかな、と思うような家だった。
壁も屋根も木でできた小さな家で、玄関の上には小窓つきの雪割りがついている。その窓にはガラスも板もはめられていないから、斜めに差し込む月の光を遮るものは何もなく、板張りの床に窓と同じ形の光のシミができている。
わたしはその光の傍らに立ち、先程からじっと足元に目を落としていた。
クシェル。
この小さな家の小さな家主は、家にたった一つの寝台をわたしに譲って、今は床にしいた獣皮の上で眠っている。
「……」
そのクシェルを見下ろして、わたしはずっと迷っていた。
どうしよう。
食べてもいいかな。
クシェルはわたしがまだ病み上がりだからと言って、しばらくこの家に留まることを勧めてくれた。けれどそれではいずれ、彼の振るまってくれる質素な食事ではわたしの空腹は満たされないことがばれてしまう。
もちろんそれは、わたしが特別食いしんぼうだから、なんて理由じゃない。
わたしは『獏』。
見た目は人間の女の子にそっくりだけど、彼らとは実態を異にする生き物だ。
わたしは人の記憶を食べる。
それ以外のものではまったく空腹を満たせない。
昼間クシェルが振るまってくれた色の薄いスープも、夜になって出されたパンと干し肉も、わたしにとっては何の味もしない液体とぱさぱさした物体でしかなかった。
それをいくら口に運んでも、そんなことに意味はない。むしろわたしにとって物を食べるというのは苦行だ。
人間はどうしてあんなおいしくないものを好き好んで食べているのだろうとさえ思う。もちろんわたしと彼らではあれらの味の感じ方が違うことも、おかしいのはわたしの方だということも分かっているのだけど。
そんなわたしを一部の人間たちは〝悪魔〟と呼んだ。
人の姿を真似てまぎれた異形だと。
わたしがそれに反論できず、今日まで〝悪魔祓い〟を自称する人々から逃げ回ってきたのは、自分が彼らとは違う存在であることを嫌というほど理解しているからだ。
わたしは過去にある人の記憶を食べすぎて、彼女を廃人にしてしまった。
自分が一体何者であるかも分からず、泣きながらさまようしかなかったわたしに名を与え、初めて手を差し伸べてくれた人だった。
それ以来、わたしは人の記憶を食べるのが怖い。
わたしは化け物だ。もしわたしに記憶を分け与えてくれる人々が彼女のようになってしまったらと思うと恐ろしくてたまらなくなる。
でも、それでもやっぱり記憶を食べなければわたしは死んでしまうのだ。
だからわたしは迷っている。
クシェルの記憶をほんのちょっとつまみ食いしても許されるか、どうか。
「グゥゥゥ……」
そうこうしている間にもおなかが鳴る。わたしはこんなときまでうるさい腹の虫をぎゅっと押さえて、足元で眠るクシェルの寝顔を見つめた。
クシェルはわたしが化け物だと知ったら、他の人間と同じように怯えて追い払うだろう。そうなったらわたしは記憶を食べ損ねる。今度はどこで行き倒れるか分からない。
ちょっとだけなら許されるだろうか。
ちょっとだけなら……。
自分にそう言い聞かせ、なるべく音を立てないようにクシェルの傍へしゃがみ込む。
大丈夫だ。困ったときはいつもそうしているように、眠っている人間から悪い記憶だけこっそり譲ってもらえばいい。
持ち主にとって悲しかったりつらかったりする記憶は苦くておいしくないけれど、そういう記憶ならなくなってもみんな困らないことを、わたしはこれまでの経験で学んでいた。
クシェルにもきっとそんな記憶の一つや二つあるはずだ。だからそれを選んで、食べる。
簡単なことだ。誰に教わったわけでもないのに、わたしは生まれたときからその方法を知っている。
わたしはそっと手を伸ばし、穏やかな寝顔の傍に置かれたクシェルの右手に軽く触れた。
そうしてじっと意識を澄ます。目を閉じて、左手で触れたぬくもりに集中すると、すぐにそれは見えてくる。
やがてどんどん瞼の裏に流れてくるのは、クシェルが持っているたくさんの記憶。
すごい。こんなにたくさんのごちそうを前にしたのは久しぶりだ。
その中でも特においしそうな記憶に、自然と手が伸びそうになって――
――だめだめ。わたしが食べていいのはおいしくない、クシェルのつらい記憶だけだ。
それでいて、忘れてしまっても彼の生活に支障をきたさないようなもの。彼の人生のつじつまが合わなくなってしまわないもの。
そういう記憶を探すのは、簡単なようでいて結構難しい。
まずはクシェルの記憶を最初から順番に眺めていかなくちゃ。
……。
あった。
泣いているクシェルの記憶だ。
だけどどうして泣いているのだろう?
わたしは見逃してしまった記憶を巻き戻す。
『やーい、魔女の子!』
『悪魔の子!』
突然、目の前に石が飛んできた。
わたしはその光景に驚いて、思わずクシェルから手を放してしまう。
途端にずらりと並んだごちそうが消えた。慌ててぱちぱちと瞬きすれば、視界には青白い月明かりの世界が戻ってくる。
その世界に抱かれてすやすやと眠っている少年。
わたしが見たのはその少年がまだ小さかった頃、村の子供たちから石を投げられていじめられている記憶だった。
なんてひどい記憶だろう。
おまけに〝悪魔の子〟なんて。
クシェルにはお父さんがいない。
いや、もっと正確には、お父さんがいないのにクシェルが生まれた。
だからクシェルは〝悪魔の子〟と蔑まれ、お母さんと二人でこんな村外れの森に移り住んだみたいだ。
だけどそのお母さんも四年前に亡くなって、以来クシェルはこの森でずっとひとりぼっちだった。
そんな彼の記憶を覗いてしまったわたしは、漠然とした罪悪感に苛まれてうなだれる。
見てはいけないものを見てしまったような気がした。たぶんこれは、クシェルにとって触れられたくない記憶だろう。
けれど逆に言えば、それこそがわたしの求めていたごちそうとも言える。
思い出すたびにちくり、ちくりと胸が痛んで、泣きたくなるような記憶。
こんな記憶なら、きっとなくなってしまってもクシェルは困らないだろう。
わたしはそう自分に言い聞かせ、もう一度クシェルの手に触れた。
ごめんね、クシェル。
だけど、いただきます。
泣いているクシェルの記憶を掴んでぱくりと食べる。
その記憶はしょっぱくて、そしてちょっぴり苦かった。
◇ ◆ ◇
翌朝。
クシェルが起き出す気配を感じて、わたしはこそっと毛布から顔を出した。
昨夜わたしが食べたクシェルの記憶は、彼の中からきれいに消えているはずだ。それにクシェルが気づいたらどうなるか――間違いなくややこしいことになる。だからわたしはどきどきと、毛布から半分だけ顔を出してクシェルの様子を窺った。
床の上で一夜を明かしたクシェルは、半身を起こしたままぼうっとしている。枯草色のやわらかそうな髪が寝癖であちこち跳ねているのもあって、何だか少し間の抜けた姿に見えた。
けれどクシェルがぼんやりとしたまま動かないのは、たぶん起き抜けで寝ぼけているから、というのだけが理由じゃない。
『獏』に記憶を食べられた人間はみんなそうなるのだ。どうも記憶を食べられた直後は頭がひどくぼうっとするみたいで、その間は誰もが抜け殻のようになる。
過去にわたしが記憶を食べすぎてしまった相手は、そんな抜け殻の状態のまま、もう二度と自我を取り戻すことはなかった。
もちろん今回はほんのちょっとしか食べていないから、大丈夫だとは思うのだけど。
直前に記憶を食べた相手が、実際に目の前でぼんやりしていると今でもやっぱり不安になる。
もしかしたらまた食べすぎてしまったんじゃないだろうか。
このまま戻ってこないんじゃないだろうか。
この人もあの人みたいになってしまったんじゃないだろうか、って――。
「チチチチ……」
と、そのとき、朝日が斜めに降り注ぐ雪割りの小窓に、一羽の小鳥がぴたりととまった。
小鳥は「朝だよ、朝だよ」と教えるように、喉を反らして自慢げに歌う。その歌声に気づき、ぼんやりと見上げたクシェルの目に、ふと自我の光が戻った。
次の瞬間、クシェルはすごい勢いでバッ!とこちらを振り向いてくる。
わたしは毛布の下で跳び上がった。クシェルの動きがあまりに素早かったので、寝たふりをする暇がなかった。
ばっちり目が合ってしまい、全身を硬くする。
どうしよう?
ばれたかな?
記憶がないって。
わたしが〝化け物〟だって――。
「おはよう、タピア!」
怖くて怖くて、わたしは今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られたけれど。
直後に聞こえたのは、びっくりするくらい底抜けに明るいクシェルの声だった。
ぼさぼさの髪に、満面の笑顔。
そんなクシェルの姿が、小窓から射す朝日に照らされてきらきらと輝いている。
「もう起きてたんだ。昨日はよく眠れた?」
「えっ……あ、う、うん、眠れた……クシェルは?」
「うん。僕も久しぶりによく眠れたよ。寝すぎたのか、何だか頭がぼーっとするけど……でも、とてもいい夢を見たような気がする」
「いい夢?」
「そう。誰かが僕の手をずっと握っていてくれる夢」
そう言ってクシェルがにこにこ笑うので、わたしはまたしても毛布の下でびくりと跳ねた。
その手を握っていたのは、他でもないわたしだ。
もしかしてクシェルはそれに気づいてる?
それとも本当に夢だと思ってる?
「でも、ぐっすり寝たらおなかすいたね。ちょっと顔を洗ってくるよ。そしたらすぐに朝食にしよう」
そのどちらが正解なのか分からなくって、わたしがもごもごしているうちに。
クシェルは無邪気にそう言うと、足取りも軽く一度小屋を出て行った。
外へと続くドアをくぐりながら、「んーっ」と伸びをするクシェルの気持ち良さそうな声が聞こえてくる。
その声が、何だか楽しそうだったから。
(……わたし、もしかして、いいこと、したのかな……?)
何故だか、そんな風に思えた。
人の記憶を盗み食いするなんて、ほんとは悪いことだと思ってたけど。
もしかしたらわたしがあのしょっぱくて苦い記憶を食べたことで、クシェルはちょっと元気になったのかもしれない。
そう思ったら、何だかわたしまで嬉しくて。
自分でもよく分からないけれど、胸の奥がぽかぽかする。
そのぽかぽかがくすぐったくて、わたしはおかしいような、もどかしいような気持ちで毛布にもぐった。
こんな気持ちになれたのは生まれて初めて。
まるで〝ここにいてもいいよ〟って言ってもらえたみたいで。
それがとても嬉しかったから、わたしはクシェルにお別れを言いそびれた。
それならもう少しここにいたいって。
そう思ってしまったんだ。
◇ ◆ ◇
それから毎晩ちょっとずつ、わたしはクシェルの記憶を食べた。
もちろん本当にちょっとずつだ。だからおなかは全然いっぱいにならないけれど、これなら飢えて倒れる心配もない。
クシェルの頭の中には悲しい記憶がたくさんあった。
彼は小さいときからずっと村の人たちにいじめられてきたみたいだ。それでも仲間に入りたくって、何度も村に足を運んだ。
だけどそれでも村の人たちが優しくしてくれないと分かったクシェルは、だんだん森から出なくなった。
今では森にいる鳥やウサギや、リスだけがクシェルの友だち。そんなことまでわたしには分かってしまう。
だから、クシェルが寂しくなくなるように。
わたしは彼の悲しい記憶をもぐもぐ食べた。
いつものように、それは全然おいしくなんてなかったけれど、わたしは不思議と食べることが苦にならなかった。
彼が少しでも元気になってくれたら嬉しい。
そう思ったから。
「最近、何だか気分がいいんだ」
と、クシェルがぽつりとそんなことを言ったのは、わたしがクシェルに拾われて何日かたったあとのことだった。
今日も天気は晴れ。お日さまがぽかぽか気持ちいい。
わたしはクシェルに誘われて、現在森の中にいた。
鬱蒼と木々が生い茂る森は枝葉に覆われて薄暗かったけれど、たくさんの葉っぱの間から差し込む木漏れ日が、暖かい雨みたいに肌をくすぐるのが心地いい。森のにおいを運んでくる風は頭上の枝葉をさわさわと鳴らし、その度に足元に落ちる光は形を変える。
そんな森の中で目を閉じてじっと耳を澄ましていると、何だか気持ちまですうっと澄んでいくのが不思議だった。
とっても神聖で満たされた気持ち。
人間から〝悪魔〟と呼ばれるわたしでもそんな気持ちを抱くことができるなんて、自然ってすごいな、と思う。
「うまく言えないんだけど、なんていうか、ずっと心に沈んでいた重たいものがみんなどこかへ行ってしまったみたいな感じ。毎日こんなに気持ちがいいのは、生まれて初めてかもしれないよ」
「そっか」
大人でもひと抱えはあるだろうという大きな切り株に腰を下ろしながら、クシェルは言った。わたしは森の奥から流れてくる優しい風に身を任せつつ、それに短く相槌を打つ。
わたしたちはクシェルの家のかまどにくべる薪集めにきたのだけれど、今は手を休めて休憩している最中だった。
足元には二人で集めた木の枝がたくさん。クシェルはその中から特に太い枝を取り出すと、それを鉈でぶつ切りにして、小さく切った木切れにせっせとナイフを入れている。
そんなクシェルの足元には、小さくて青い小鳥が一羽。小鳥はクシェルが撒いたパンくずを目当てに飛んできて、今はせっせと下生えの草の間からパンくずを拾い上げていた。
クシェルはその小鳥をちらちらと見ながら、手元の木切れを削ってゆく。すると初めはカクカクだった木切れが丸みを帯びて、少しずつ鳥の形に近づいていく。
クシェルはそうやって、ただの木の切れ端から色んなものを作ることができた。
昨日はリスを作っていたし、一昨日は小グマ。それもとってもかわいくて、今にも動き出しそうなくらい上手にできている。
クシェルはそうして作った木彫りに丁寧に鑢をかけて、いつも小屋まで物売りに来る行商の人に買ってもらっているのだと言った。
クシェルはそうして手にいれたお金でパンを買ったり、古着を買ったりしている。ときには遠くの町まで一人で買いものに行くこともあるらしい。
クシェルが作る木彫りはそれくらい上手で、作っているところを横から見ているだけで楽しかった。
皮をそがれたごつごつした木の塊が、少しずつ動物の形になっていくさまは魔法みたいだ。しかもクシェルは木彫りが完成するまで何を作っているのか秘密にしたがるから、今日はどんな動物ができ上がるのだろうと思うととてもわくわくする。
おかげでわたしは、クシェルと一緒にいるとそれだけで楽しかった。
クシェルはよくおかしなことを言ってわたしを笑わせてくれるし、仲良くしている森の動物たちのことも紹介してくれる。夜、眠るときはいつもおもしろい話を聞かせてくれて、もっと色んな話を聞きたいなって思わせてくれる。
だからわたしはクシェルの傍を離れたくなくて、今もこうして彼の家でお世話になっていた。
でも、本当は分かってるんだ。このままじゃいけないって。
だってわたしは〝悪魔〟だから。
それがクシェルにばれたらきっと嫌われる。それにたとえばれなくっても、ここにもいつ悪魔祓いの人たちが来るか分からない。
だから早く、そうなる前に――
「――君のおかげかな」
「え?」
「毎日こんなに気分がいいのは、君のおかげじゃないかなって思うんだ、タピア」
と、突然木彫りから顔を上げたクシェルにそんなことを言われて、わたしの心臓はドキリと大きな音を立てた。
だって、〝わたしのおかげ〟って。
それって、わたしがクシェルの悪い記憶を食べたから?
クシェルはそれに気づいてる――?
わたしはついそんな思考に駆られてしまって、何も言えずに固まった。
けれど。
クシェルはそんなわたしの不安を笑い飛ばすように、空を仰ぎながら言う。
「僕はさ。君と会うまで、この森でずっとひとりぼっちだったんだ。だからこんな風に誰かとお喋りしたり、一緒に暮らしたりするのは本当に久しぶりで……それがすごく、嬉しいんだ」
その言葉が、わたしにはとても意外だったから。
途端に胸がとくんと鳴って、わたしは何故だかふと泣きたいような気分になった。
いっぱいになったコップから水が溢れてくるように、それはひたひたとわたしの心を満たしていく。
けれどそれはちっとも冷たくなんかない。
むしろ胸がいっぱいになるくらい温かくて、体の奥底からどんどん迫り上がってきて――。
「……わたしも……」
「え?」
「わたしも、ずっとひとりぼっちだった」
「タピア」
「こんな風に誰かから優しくしてもらえたのは、クシェルで二人目。それまでずっと、ずっとひとりだった。だからわたしも、クシェルと一緒にいると楽しい。だけど――」
――だけど、わたしはそろそろここを離れなくちゃいけない。
このままずっとクシェルの隣にいることはできない。
そう思うとそれまで胸を満たしていたものが一気に悲しみに変わって、瞳からぽろぽろ零れ落ちた。
本当はここにいたい。
もうひとりぼっちにはなりたくない。
クシェルがいいよって言ってくれるなら、ずっとずっとここで――
「――ここにいなよ」
そのとき、不意にそんな声がして。
切り株に置いたわたしの手を、何か温かいものがそっと包んだ。
見ればわたしのものより一回りも大きなクシェルの手が、そこに重ねられていて。
わたしがふと目を上げれば、その目をクシェルがまっすぐに覗き込んでくる。
「だったらここにいなよ、タピア」
「クシェル……」
「僕も君と一緒にいると楽しい。だからタピアが嫌じゃなければ、ずっとここにいていいんだよ。僕はそれを迷惑だなんて思わないし、むしろタピアがこれからも一緒にいてくれたら、とても嬉しい」
「ほんと、に……?」
「ああ、本当さ。君が望むなら、僕はずっと傍にいる。――だから君はもう、ひとりぼっちなんかじゃないよ、タピア」
そう言って笑ったクシェルの顔が、まぶしかった。
滲んだ視界できらきらと光が暴れて、目を開けていられない。
わたしは泣いた。生まれたての人間みたいに、わんわん声を上げて泣いた。
そんなわたしの頭を、クシェルがあやすように「よしよし」と撫でてくれる。
こんなに優しいクシェルが〝悪魔の子〟なんて、そんなの嘘だ。
たとえ神さまが「そうだ」と言ったって、わたしはそんなの信じない。
そのクシェルが、ここにいてもいいと言ってくれた。
それなら、わたしは――
「チチチチ……!」
そのときだった。
突然間近でバサバサッと羽音が聞こえて、わたしとクシェルは同時に目を丸くした。
見ればそれまでパンくずを拾っていた青い小鳥が、慌てたように空へと飛び立っていく。クシェルが撒いたパンくずはまだたくさん残っているのに、まるで何かから逃げるみたいに。
あっという間に遠ざかっていくその小さな後ろ姿を見て、わたしは急に不安になった。
何だろう。
すごく嫌な予感がする。
何か良くないものがこっちに来てる。
さっきまであんなに気持ち良かった風がざわざわと森を揺らして――怖い。
「タピア、こっちへ」
いきなりクシェルに手を引かれた。わたしはそれに驚きながらも立ち上がり、彼に引っ張られるがまま茂みの中へと駆け込んでいく。
どこへ行くのかと思ったら、クシェルは一本の大きな木の前で立ち止まった。
そうして一度わたしの手を離すと、まるでリスみたいにひょいひょいと身軽に木の上へ登っていく。
「く、クシェル?」
「タピアも早く。僕が上から引っ張り上げるから、手を貸して」
不安と焦りで、心臓がドクドクと鳴っていた。わたしは言われるがまま手を伸ばし、その手をクシェルに引っ張り上げてもらう。
生まれて初めての木登りはとても難しかった。上の方でクシェルが手を掴んでいてくれるけど、木の幹は足をかけてもつるつるすべってクシェルみたいに上手くいかない。
それでも何とかもう一方の手で枝を掴んで、体を木の上まで持ち上げた。
するとクシェルも身を屈め、今度は抱き上げるようにわたしを枝の上まで引き上げてくれる。おかげでわたしはどうにかこうにか、クシェルがいるのと同じ太い枝の上に体を乗せることができた。
「く、クシェル、一体どうしたの?」
「しっ。何か来る」
さっきわたしが思ったのと同じことをクシェルが言った。途端にまた心臓が跳ねて、わたしはとっさに自分の口を両手で覆う。
何だか急に空気が張りつめて、息が詰まりそうだった。わたしはクシェルに言われて枝葉が濃いところに身を隠し、小さく震えているしかない。
鳥の鳴き声も、森の獣たちが動く気配も、気づけばいつの間にか消えていた。
風が止み、森全体がしんと静まり返る。
けれどやがて遠くから、ガサガサと草を掻き分ける音が聞こえた。
こっちに来る。
「――確かに聞こえたのか?」
「はい、恐らくこちらの方から……」
「だが誰もいないではないか」
「そ、そうですね……でも、本当に人の話す声が聞こえたのです」
次いで聞こえてきたのは複数の足音と、そんな話し声だった。
クシェルのものよりずっと低い、大人の男の人の話し声。その声が次第にこちらへ近づいてきて、わたしとクシェルが隠れた枝葉の間から話している人たちの姿が見えるようになる。
途端にわたしの背筋は凍りついた。
銀色の鎧と兜で全身を覆った人たち。
その手にはすらりと長い白の槍。
そしてその鎧を着た人たちに囲まれて、一人だけ顔を隠していない人がいる。
すっと背が高くて、金の縁取りがされた真っ白な服に、女の人みたいに長い金髪を垂らした男の人。
わたしはあの人を知っている。
悪魔祓い。
この世界にたったひとりしかいないと言われる神さまに仕え、わたしのような〝人ではないもの〟を排除する仕事をしている人だ。
「それ以前の問題として、例の悪魔がこの森へ逃げ込んだという情報は確かなのか?」
「は、はい、それはもちろん。この森の北に住む木樵の親子が、一人で森の中をうろついている悪魔の姿を見たと言っています。初めは森に迷い込んだ子供かと思ったそうですが、声をかけたら一目散に逃げ出したと……」
「ふん。では間違いなさそうだな。この森の南にも小さいが村があると聞く。まずはそちらへ行って話を聞いてみるのも一つの手だろう」
「そうですね。悪魔もそろそろ腹ぺこで、また誰かの記憶を食べようと人里に下りたかもしれませんし……」
まるで真冬の雪山に放りこまれたみたいに、体の震えが止まらなかった。
間違いない。あの人たちが話しているのはわたしのことだ。
森の北に住んでいるという木樵の親子。そう言えば、わたしが逃げ場を求めてこの森に入ったとき、確かに遠くから「おーい」と声をかけてきた人たちがいた。
けれどわたしはそれが人間だと分かると怖くて怖くて、つい逃げ出してしまったのだ。
そのせいで居場所がばれた。あの金髪の悪魔祓いと一緒にいる人たちは、たったひとりの神さまを崇める教会の兵士だ。つまりあそこにいる人たちはみんなわたしのことを狙っている。
どうしよう。
怖い。
怖い、怖い、怖い――!
「タピア」
そのとき、突然耳元で囁くような声がして。
わたしは驚きのあまりびくりと跳び上がったけれど、手で口を押さえていたおかげで幸い声は出なかった。
恐怖でぎゅっと瞑っていた目を開ければ、そこにはこちらを見て微笑んだクシェルがいて。
彼は安心させるようにわたしの頭をなでなですると、とっても優しい口調で言う。
「タピアはここにいて」
「クシェル――」
どこへ行くの、と、訊くこともできなかった。
次の瞬間、クシェルは隣の木の枝へ狙いを定め、元いた枝のしなりを利用してその枝へと飛び移る。
あまりにも突然で、あまりにも危険なその行動に、わたしは思わず「あっ!」と声を上げそうになった。
けれどクシェルは器用に隣の木の枝を掴み、まるで曲芸みたいにくるんと回りながら他の枝へ足をかける。そうして「よっ」と短く声を上げると、更にまた隣の木へと飛び移った。
クシェルが一体何をしようとしているのか分からないわたしは、ハラハラしながらそれを見守っているしかない。けれどもちろん、クシェルが飛び移った木は彼の重みでガサリと揺れて、とっても大きな音を出す。
麓にいた教会の兵士たちも、当然その音に気がついた。彼らは異変を察して皆一様に身構えると、悪魔祓い――ちなみにこの人は、教会の中ではとっても偉い立場にいる人らしい――を守るように取り囲む。
「何者だ!」
鎧を着た兵士の一人が鋭く叫んだ。するとその瞬間、「うわっ!?」とクシェルの悲鳴が聞こえて、三つ先の木の上から彼がどさりと落ちたのが見える。
途端に数人の兵士たちが、槍を構えてクシェルへと駆け寄った。わたしは息を飲んでそれを見ていることしかできない。
地面に尻もちをついたクシェルは、「いたたた……」と言いながら腰のあたりをさすっていた。
そのクシェルに兵士たちが一斉に槍を向ける。けれどクシェルはまるで夢から叩き起こされた子供みたいな顔で、きょとんとその兵士たちを見上げた。
「あれ……? おじさんたち、誰ですか?」
「我々は都から来た聖教兵だ。お前は?」
「僕はヨハン。この近くの村に住んでます」
わたしは思わず、また「あっ」と声を出しそうになった。
クシェルはけろりとした顔で答えたけれど、〝ヨハン〟なんて名前は嘘だ。それは昔、村でクシェルをいじめていた村長の息子の名前。
でも、どうしてクシェルはそんな名前を名乗ったんだろう?
「そうか、ヨハン。お前はこの森で何をしていた?」
と、ときにクシェルへ歩み寄ってそう尋ねたのは、あの金髪の悪魔祓いだった。
その切れ長の氷のような目が、未だ地面に座りこんだままのクシェルへと向けられる。あの目でじっと見据えられただけで、わたしなら恐ろしくて口がきけなくなってしまう。
けれど銀色の冷ややかな眼差しを見返したクシェルには、ちっとも怯えた様子はなかった。
「あなたは?」
「私はエイス。今質問をしているのはこちらだ、ヨハン」
「すみません。僕は家から逃げた猫を追いかけていたんです。カッツェのやつ、木の上に登って逃げるから、僕もついムキになっちゃって……」
「なるほど。それで木の上から突然現れたわけか」
「はい。いきなり人の声がしたから、びっくりして落ちちゃいました。それより、都の兵士さんがどうしてこんなところにいるんですか?」
エイスと名乗った金髪の悪魔祓いに、クシェルは怖じるどころか興味津々といった様子で尋ねた。
周りの兵士たちはそんなクシェルに苦々しい顔をしながら、お互いに目配せし合っている。すると不意にエイスが手を上げて、兵士たちに槍を下げさせた。
どうやらエイスは、クシェルをただの村の子供だと判断したみたいだ。そうして一つ息をつくと、両手を後ろで組みながら言う。
「ヨハン。我々はこの森に逃げ込んだという一人の悪魔を追っている。姿は人間の少女に似ているが、人ではない悪しきものだ」
「女の子の姿をした悪魔……ですか?」
「そうだ。黒い髪に白い服を着て、歳はちょうどお前と同じくらいに見える。最近、お前の村にそういう娘が訪ねてはこなかったか?」
「さあ……僕は知らないです。でも悪魔ってことは、その子は何か悪いことをするんですか?」
「ああ。あの悪魔は人間に化けて人里にまぎれこみ、他人の記憶をこっそり喰らう。喰われた記憶は二度と持ち主には戻らない。しかも多くの記憶を喰われたものは、生きたまま死んだようになるのだ。つまり自分が何者であるかも忘れ、家族のことも、友人のことも覚えていないただの人形に成り果てる」
ぞっと冷たいものが、またわたしの背中を舐めた。
黒い髪に白い服。
人間の姿をした、悪魔。
これだけ聞けば、クシェルだってもう気づいてしまっただろう。
その〝悪魔〟というのがわたしだと。
わたしは再び恐怖に震えた。わたしの正体を知った今、クシェルがここに隠れているわたしのことを黙っているとは思えなかった。
けれど今、わたしがそれ以上に怖いのは。
あんなに優しかったクシェルに、このまま嫌われてしまうこと――。
ああ、だからもっと早くお別れを言うべきだったのに。
わたしは木の上で声を殺したまま、ぽろぽろと涙を零した。
だけどそんなの、今更後悔したって遅い。
わたしは本当にばかだ。
いつかきっとこうなることは、初めから分かってたのに――
「あれはそういうおぞましきものだ。だから一刻も早く祓わねばならん」
「……。本当に、そうでしょうか」
「……何?」
「その悪魔は、本当に悪いやつなんでしょうか。確かに人の記憶を勝手に盗み食いするのは悪いことかもしれないけど……たとえばもしその記憶が、持ち主にとって忘れたいくらいつらくて悲しい記憶だったら」
わたしは、耳を疑った。
呼吸を止めて、目を見開き、麓から聞こえるクシェルの声に耳を澄ます。
「そんな記憶なら、いっそなくなってしまった方がいい。エイスさんは、そう思ったことはありませんか?」
「……。生憎ながら、一度もないな。我々が経験するすべてのことは、神がそうあるべしとして運命の書に記されたものだ。それを否定し、忘れるなどということは、神を冒涜する行為に等しい」
「なら、神さまはどうしてその悪魔と人を引き合わせるのですか? 人が悪魔に記憶を盗られるのだって、神さまが〝その方がいい〟と思ったからじゃないんですか?」
「悪魔とは神の支配から外れた存在だ。やつらは神の定めた法に従わず、人を惑わし、神の筋書きを掻き乱す。よってやつらがこの世に現れるのは、神のご意思とは一切関係がない」
「そうですか……でも、この森には悪魔なんていませんよ。もしそんなのがいたら、森の動物たちが怖がって出てこなくなる。そう、ちょうど――今みたいに」
静まり返った森の中をぐるりと見渡して、それからクシェルはまっすぐにエイスを見つめた。
その眼差しは見ていて怖いくらいに、強い。
けれどそれまで黙って話を聞いていた兵士たちも、すぐにクシェルの言葉の意味に気がついたみたいだった。
途端に彼らは眉を吊り上げて、一度は下げた槍を再びクシェルへと向ける。
「こ、このガキ、我々を愚弄する気か!」
――危ない。
クシェルに向けられた槍の穂先がぎらりと光ったのを見て、わたしは思わず身を乗り出した。
けれどわたしが声を上げるよりも早く、エイスがすっと手を上げる。さっきと同じ〝槍を下ろせ〟の合図だ。
兵士たちはそれを見ると何か言いたそうな顔をしたものの、エイスの銀色の瞳にぎろりと睨まれると、慌てて槍を下ろして気をつけをした。
エイスはそれを確かめてからちらりとクシェルを見下ろして、ほどなく興味をなくしたようにくるりと身を翻す。
「行くぞ。もうこの森に用はない」
「で、ですが、エイス様」
「その子供のことなら放っておけ。神を否定する者には必ず天罰が下る。そうすればどんな愚か者でも、己の過ちに気づくだろう」
エイスはそれだけ言い置くと、あとは振り向きもせず森の奥へと立ち去った。それを見た兵士たちも大慌てでエイスの背中を追っていく。
そうして遠ざかっていく悪魔祓いたちの姿を、わたしは呆然と眺めていた。
チチチチチ、と声がする。
ふと見ると、わたしが座りこんだ木の梢に、さっきの小鳥が戻ってきていた。
◇ ◆ ◇
物音を殺して、そろりとわたしは寝台を出た。
板張りの床が音を立てないように、そっと両足を下ろす。それから長旅ですっかりくたびれてしまった皮靴を履き、ゆっくりと寝台から腰を上げた。
わたしは食べ物を持ち歩く必要がないから、荷物は最低限でいい。少ない着替えと銅貨が数枚だけ入った小さな袋。わたしはそれだけを手に、そろそろと外へ向かって歩いていく。
森で悪魔祓いの人たちと会った夜のことだった。
わたしはクシェルとお別れをすることに決めた。
あれからクシェルは何も言わず、まるで悪魔の話なんて聞かなかったみたいに今までどおり接してくれたけど、本当は気づいているはずだ。わたしが人間ではないということ。エイスが言っていた〝悪魔〟だということ――。
だからもうここにはいられない。
クシェルは昼間、〝ここにいてもいい〟と言ってくれた。わたしはそれがとてもとても嬉しかった。
けれどそれはクシェルがわたしの正体を知らなかったから。それに、やっぱりわたしは人間と一緒にはいられない。このままここにいてはいけない……。
たとえクシェルがいいと言ってくれても、悪魔祓いはこれからもわたしを追ってくるだろう。そしてもし見つかれば、あの兵士たちの槍は今度こそクシェルを傷つける。
そんなことがあってはいけないと思った。わたしのためにクシェルが傷つくなんて、そんなのは耐えられないと思った。
だからわたしは今夜、この森を出ていく。
クシェルには何も言わずに、こっそりと。
本当はクシェルの中にあるわたしの記憶を食べてしまおうかと思った。
そうすれば、わたしが突然いなくなってもクシェルは困らないだろうから。
けれど最後まで悩んで悩んで、結局わたしはそれを食べることができなかった。
クシェルにはわたしを覚えていてほしかったから。
そんなのはただのわがままだけど、それでもやっぱり、クシェルに忘れられるのだけは嫌だと思ってしまった。
「ごめんね、クシェル」
雪割りの小窓から斜めに注ぐ月明かりの中。
わたしは最後にクシェルの傍で立ち止まって、小さくそう囁いた。
クシェルは今日も床に敷いた獣皮にくるまって、静かに寝息を立てている。その寝顔を見ていたら、何だか急に涙が込み上げてきた。
本当はもっとここにいたかった。
クシェルと一緒に生きたかった。
でも、わたしは〝悪魔〟だから。
これ以上クシェルに迷惑をかける前に、いなくなった方がいい。
クシェルとすごした数日間は本当に楽しかった。
だからわたしには、その思い出さえあればいいと思った。
わたしは瞳から零れそうになった涙を拭って、最後に一度だけクシェルの傍にしゃがみ込む。
そうして、言った。
「ありがとう」
視界はまだ涙で滲んでいたけれど、わたしはそう言ってクシェルに微笑みかける。
誰かに対してこんなに優しい気持ちになれたのは久しぶりだった。それもこれもクシェルのおかげだと思った。
人間は怖くてひどい生き物だと思ってたけど、中にはクシェルみたいな優しい人間もいる。
それが分かっただけで良かった。クシェルはわたしに希望をくれた。
そんなクシェルに何もお返しができないのが悲しいけれど。
いつかまたどこかで会うことがあったら、そのときはきちんとお礼をしよう。
そう思いながら立ち上がる。
最後にもう一度だけクシェルを振り向いて、さようなら、と心で呟く。
するとまた涙が溢れてきたけれど、わたしはそれを拭って背を向けた。
行こう。
これ以上ぐずぐずと居座って、お別れができなくなる前に――
「――どこに行くの、タピア?」
その瞬間、わたしは心臓が破裂したんじゃないかと思った。
それくらいびっくりした。
突然後ろから聞こえた声。
驚いて振り向くと、そこには体を起こしてこちらを見つめたクシェルがいる。
「あっ……あっ、あっ、クシェル、起きてたの……!?」
「うん。何となく、そんな予感がしてたから」
「よ、予感?」
「君が今夜、僕に黙っていなくなるんじゃないかって。……ひどいじゃないか。さよならも言わせてくれないなんて」
静かな言葉つきでそう言われ、わたしは何も答えることができなかった。
そのうちクシェルの方を見ることもできなくなって、ただ黙ってうなだれる。クシェルの言葉や態度にはわたしを責めるようなものはなかったけれど、それでも彼の目を見ることができなかった。
「昼間、森であのエイスって人が言ってたのは、やっぱり君のことだったんだね」
「……」
「だからって、何も言わずに出ていくのかい? あの話を聞いて、僕が君を嫌いになったと思った?」
「ち、違う! そうじゃない……そうじゃないよ……でも、わたしは〝悪魔〟だから……これ以上一緒にいたら、きっとクシェルが不幸になる。だから、早くここからいなくならなきゃって……ただ、クシェルに〝さよなら〟を言う勇気がなくて……」
そんな自分が情けなくて、わたしはぎゅっと目を瞑った。
すると瞼の裏側からまた涙が溢れてくる。わたしって本当に泣き虫だ。クシェルと森で出会う前も、よく一人で泣いていた。でもクシェルと出会ってからは、もっと泣き虫になったような気がする。
こんなに泣いてばかりいたら、今度こそクシェルに嫌われるかな。
そう思うそばから、涙はぽろぽろとわたしの頬を伝って落ちた。
けれど、直後。
突然何か温かなものが、ふわっとわたしを包みこんできて。
驚いて目を開けると、すぐそこにクシェルの胸があった。
そうしてわたしを抱きしめたクシェルが、耳元で小さく笑っている。
「ばかだなぁ、タピアは。君は自分が本当に〝悪魔〟だなんて思ってるの?」
「ど、どういう、こと……?」
「確かに君は人間じゃあないかもしれない。でも、僕の悪い記憶をみんな食べてくれたのは君だろう?」
温かいクシェルの腕の中で、わたしはまたしてもびくりと跳ねた。
それがクシェルにはおかしかったらしい。彼はなおもくすくすと笑うと、わたしを抱きしめたまま優しく頭を撫でてくれる。
「あのエイスって人は、神さまがくれた記憶を忘れてしまうのはいけないことだって言ってた。でも、僕はやっぱりそうは思わないよ。君が悪い記憶を食べてくれたおかげで、僕はこの数日間、本当に幸せな気持ちだったんだ。あの日君と出会えたのは、きっと神さまのおかげに違いないって、そう思った」
「クシェル……」
「君とこうして出会うまで、僕は毎日この世の終わりみたいな気持ちで過ごしていたからね。それが、君と出会ってからは毎日がきらきら輝いて――僕は、君は〝天使〟なんじゃないかって思ってた。神さまが僕を幸せにするために、天使を送って下さったんだって」
――〝天使〟。
……わたしが?
人の記憶をこっそり盗んで生きる『獏』が?
そんなこと、今まで誰にも言われたことない。
人間はみんなわたしを〝悪魔〟だと言った。
なのに、クシェルは。
クシェルは――
「ねえ、タピア。僕も君と一緒に行くよ。あの悪魔祓いの人たちから逃げなきゃいけないなら、僕も君と一緒に逃げる。僕の悪い記憶をみんな食べてくれた君に、何かお礼がしたいんだ。――だから僕は、もう二度と君をひとりぼっちにはしない」
わたしは、泣いた。
優しいクシェルの腕の中で、昼間のやり直しみたいに、おかしいくらいわんわん泣いた。
そんなわたしの頭を、クシェルはまた笑って「よしよし」と撫でてくれる。
クシェル。
クシェル。
ありがとう。
大好き。
だから決めた。
わたしもクシェルを、もう二度とひとりぼっちにはしないって。
◇ ◆ ◇
それからのわたしの旅は、クシェルとの二人旅になった。
行く宛はない。頼れる人もいない。定住する場所もない。
それでもクシェルは嫌な顔一つせずに、どんなときもわたしの傍にいてくれた。
お金がなくてひもじいときも。
冷たい雨や風に晒されたときも。
僕はタピアと一緒にいられるだけで幸せだよって。
だからわたしもクシェルと一緒にいるだけで、どんなつらいことでも乗り越えられた。
でも、人の記憶を食べていればいいわたしとは違って、クシェルはものを食べなければおなかが空く。その空腹を満たすためには、お金を払って何か食べ物を買わなくちゃいけない。
だからわたしたちは大きな町に着くとしばらくそこに留まって、住み込みで働ける場所を探した。食堂の皿洗いとか、お金持ちの家の掃除だとか。
わたしたちが使ってもらえるのはそんな仕事ばかりだったけど、それでも何とかクシェルがごはんを食べるだけのお金は稼ぐことができた。それにクシェルは今も時々木彫りを作って、それを町で売ったりもする。
そうやって悪魔祓いの人たちから逃げながら、わたしたちは一年くらいのときを一緒に過ごした。
初めて出会った頃よりも、クシェルはちょっと背が伸びている。生まれたときからまったく見た目が変わらないわたしとは違って、森を出るときに持ってきた服は、もうどれも小さくて着れなくなってしまっていた。
だけどそれ以上に変わったのは、クシェルの体格だ。
この一年でクシェルはずいぶん痩せた。元々ひょろりとしていた方だったけれど、あの頃より背が伸びた分、わたしには余計に痩せたように見えた。
無理もない。だってクシェルは旅を続けるために毎日お金を節約して、ごはんも一日に一度しか食べない。少なくともわたしと森で過ごした数日間は朝と夜の二回、きちんとごはんを食べていたのに。
なのにクシェルはそんなことよりもボロくなった靴を新しくしたり、雨風を凌げる宿に泊まる方が大事だと言った。病気や怪我をしたときのためにお金は残しておかなければいけないし、いつかどこかに定住することも考えているのだと言った。
でもわたしは知っている。クシェルは同じ年頃の男の子よりも力がなくて、港で荷運びの仕事をしたときには「役に立たない」と怒られていたし、お屋敷の小間使いとして働いたときも「体力がない」と叱られていた。
クシェルはそんなの気にしてないよと笑うけれど、本当は裏でつらいのを我慢してるんだって、わたしには分かる。
もっと毎日ちゃんと食事をして、きちんと休むことができる生活をしていれば、クシェルだって他の男の子と変わらないくらい立派に働けるはずなのに。
わたしはクシェルにそんな暮らしをさせていることが心苦しくて、いつも「ごめんね」と謝った。
そうするとクシェルは困ったように笑うから、本当は言いたくない。でも気づくといつもその言葉が口から零れて、その度にまた申し訳ない気持ちになった。
だから時々、わたしは間違ったのかもしれないって思う。
本当にクシェルのことが大切なら、やっぱりあのとき彼とお別れするべきだったんじゃないかって。
こうして一緒にいられるのは嬉しいけれど、そのためにクシェルにつらい思いをさせるのは嫌だ。わたしはクシェルにそんな苦しい思いをさせたくて一緒にいるわけじゃないから。
それにこんな暮らしがいつまでも続いたら、クシェルだって嫌になってしまうんじゃないだろうか。
本当は心のどこかで、わたしなんかについてこなければ良かったって思ってるんじゃないだろうか。
クシェルは優しい人だから、たとえそう思っていても絶対口には出さないけれど。
わたしはそれが怖くて、今もクシェルの本当の気持ちを聞けずにいる。
「タピア」
「……」
「タピア」
「……」
「ねえ、タピアったら」
その日、わたしたちは滞在を始めて二日目になる町にいた。
今は新しい仕事を探している真っ最中。一つの町に留まるのはいつも二ヶ月から三ヶ月くらいだから、今回もそれくらいの間住み込みで働ける場所を探している。
煉瓦造りの家々が並ぶその町は、クシェルが住んでいた森よりもずっとずっと東の方にある町だった。
白い石畳が敷かれた町並みは穏やかな活気に包まれていて、都会のような賑やかさはない。でも、道行く人たちはみんな優しそうな顔をしていて、とても暮らしやすい町なんだろうなと想像できる。
町の南の方には大きな時計塔があって、お昼になるとゴーン、ゴーンと鐘が鳴るのが聞こえてきた。
静かで暖かくていい町だな、と思う。いつかどこか一つの場所に住むことが許されるなら、わたしはこんな町がいい。
「タピア、聞いてる?」
「……え?」
と、そこで名を呼ばれ、わたしはようやく我に返った。
気づけば目の前には、隣から心配そうにこちらを覗き込んだクシェルの顔。どうやらわたしは町の大通りに突っ立って、しばらくぼうっとしていたらしい。
「あ、あ、ごめん、クシェル! 何?」
「だから、昨日宿で聞いた大店の話。さっきあそこの露店で果物を買ったときに聞いたら、住み込みで働いてる人もいるみたいだよ。……それよりどうしたの? ずいぶんぼーっとしてたみたいだけど」
クシェルはわたしが元に戻ったと知ると、それまでわたしがじっと視線を落としていた先に目を向けた。
そこには青色の頭巾をかぶったおばあさんがやっている、小さな装飾品の露店がある。この町の大通りにはぽつぽつと色んな種類の露店があって、食べ物から雑貨まで様々なものを売っていた。
わたしはクシェルが買い物をしている間、何となくその露店を眺めていたのだけれど。
目についたのは、大きな花の飾りがついた首飾りだ。花は木を削って作ったものに色が塗ってあって、おばあさんがかぶっている頭巾と同じ青色をしている。その上に白く細い線で不思議な模様が描かれていて、首飾りと言うよりは何かのお守りみたいに見えた。
だけどかなり細かく描き込まれた模様はとてもきれいで、見ているとついうっとりしてしまう。おばあさんに話を聞いたら、これはここよりずうっと南の国に伝わる模様なんだよと教えてくれた。
わたしはもうずいぶん長く旅をしているけれど、そんな遠い国までは行ったことがないからちょっぴり憧れる。いつかクシェルと一緒に行ってみたいな。
もちろん、クシェルがこれからもわたしと一緒にいてくれるなら、だけど……。
「その首飾りが気になるの?」
「うん。この模様、とってもきれいだなと思って。この模様はね、南の国で願いごとをするときに使われる模様なんだって。これは〝たくさん幸せがやってきますように〟って神さまにお願いするときの模様らしいよ」
「へえ。不思議な模様だね」
クシェルは興味深げにそう言うと、わたしが見ていた首飾りを手に取ってしばらくしげしげと眺めていた。
でも、その首飾りの紐の部分についた値札を見るなり、クシェルの眉がちょっぴり曇る。それもそのはずだ。何しろその首飾りと同じ値段で、クシェルは半月分の食料が買える。
「いつか南の国に行って、他にも色んな模様を見てみたいね」
「うん、そうだね……」
「でも、そのためにはたくさん働いてお金を貯めなくっちゃ。さっきクシェルが言ってたお店、行ってみよう?」
わたしはそう言ってクシェルを促すと、彼の手からさりげなく首飾りを受け取って、それを元の場所に戻した。
それからおばあさんにお礼を言って、二人で仕事探しに戻る。
けれどその日訪ねたお店では、もう人は足りているからと働くのを断られた。
仕方がない。ずっと仕事を探していれば、こんなことは何度もある。
だからその日は大人しく宿へ戻って、明日また別の仕事を探してみようと話し合った。
だけど問題は他にもあって――
「グゥゥゥ……」
――ああ、もう。また鳴った。
わたしは恥ずかしさのあまり、おなかを押さえて宿の部屋でうずくまった。
小さな寝台が二つ並んでいるだけの、とても狭くて古い部屋。
その部屋には先程から、ぐうぐうとわたしのおなかの音ばかり響いている。まったくわたしの腹の虫は、本当に遠慮というものを知らない。
「タピア、やっぱりおなか空いてるんじゃないか。遠慮なんてしなくていいから、また僕の記憶をお食べよ」
「だ、だめ! だって、クシェルの悪い記憶はもう全部食べちゃったし……これ以上食べたら、クシェルがどんな風になるか分からないもの」
「ちょっとだけなら大丈夫だよ。別に悪い記憶じゃなくても、君の好きなものを食べていいから」
「いいの。次に働く場所が見つかったら、またそこで誰かの記憶をもらうから。だからクシェルは心配しないで」
そう言ってクシェルを安心させたいのに、その間にもわたしのおなかはギュウギュウと鳴る。わたしはそれが何だか腹立たしくて、ばしっ!と一度おなかの虫を叩いた。
でも、本当はもうそろそろ限界だ。旅を始めて半年くらいは、ちょっとずつクシェルの悪い記憶をもらっていれば大丈夫だったけど、今のクシェルにはもうわたしが食べてもいい記憶は一つもない。
クシェルはどんな記憶だって食べていいと言うものの、彼が大事にしている記憶まで食べるなんて絶対に嫌だった。たとえばクシェルのお母さんの記憶とか、森にいた友人たちの記憶とか――クシェルの中に残っているのはそんな記憶ばかりで、それまで食べてしまったら、わたしは今度こそクシェルを抜け殻にしてしまう。
だからその晩、わたしは遅くまで彫りものをしていたクシェルが眠った頃を見計らい、こっそりと宿を出た。
古くてボロボロの宿を出て、夜の町をふらふらと歩く。月明かりに照らされた町は静かで、わたしの足音だけがやけに響いた。
時刻は深夜。月はもうかなり高い位置にあって、町はどこも寝静まっている。
けれどそんな時間だからこそ、ごちそうを食べられそうな場所が一つだけ――。
「……!」
――いた。
わたしはその人影を見つけた瞬間立ち止まり、久しぶりに心が弾むのを感じた。
そこは町の酒場が集まる区画、その外れ。
酒場の明かりも届かない裏路地で、その人は座り込むようにして眠っている。
そろり、そろりと近づけば、小さく鼾をかいているのが聞こえた。目を凝らしてよく見ると、眠っているのはクシェルよりずうっと年上のおじさんだ。煉瓦の壁に背中を預けて眠った顔は日に焼けたみたいに赤く、お酒のにおいがぷんぷんしている。
たぶんお酒を飲みすぎて、酔っ払ったまま眠ってしまったのだろう。こういう町のこういう場所には、時々こういう人がいることをわたしは経験から知っていた。
わたしはそのおじさんの傍にそっとしゃがみ込み、心の中で「ごめんなさい」をする。それから慎重に手を伸ばし、おじさんのそれに重ねた。
あとはいつもの要領だ。
おじさんが目を覚ます前に、こっそり嫌な記憶だけをもらって――
「――んあ……? 誰だ、おめえ?」
「!」
瞬間、おじさんの記憶に潜ろうとしていたわたしの肩がびくりと跳ねた。
慌てて目を開けてみれば、わたしの気配に気づいたおじさんが寝ぼけ眼をこちらへ向けている。しまった。思ったより眠りが浅かったみたいだ。
「あ、ご、ごめんなさい――」
――人違いでした。
とっさにそう言って、その場を離れようとした。
けれど次の瞬間、急いで立ち上がろうとしたわたしの体ががくんと揺れる。その衝撃に驚いて、わたしは「わっ」と膝をついた。
見れば目の前のおじさんが、わたしの腕をしっかと掴んでいる。顔はまだ半分眠ってるのに、その手は多少暴れたくらいではびくともしない。
「あ、あの、すみません。手を――」
「おめえさん、どこの店の娘だい」
「え? ……お店?」
「そうだよ。さては今夜の客を探してたんだろ。若いのに熱心じゃねえか」
おじさんは真っ赤な顔でそう言って笑ったけれど、わたしには何のことだかさっぱりだった。
でも今の話を聞く限り、このおじさんはわたしをどこかのお店の人と勘違いしてるみたいだ。ちゃんと呂律も回っていないし、どうもわたしが思った以上に酔っ払っているらしい。
「あ、あの……何のことだか分かりませんけど、わたしはどこのお店の人でもありません。放して下さい」
「またまたぁ。そんなこと言って、さっきまでおれの手をあんなにぎゅっと握ってたじゃねえか。ちょうどいいや、おれも今夜は気分がいいんだ。買ってやるよ、いくらだい?」
「か、買うって、何をですか……?」
「何だい。嬢ちゃん、そういう感じのが好きなのかい。しょうがねえなぁ、そういうことなら乗ってやるよ。――ほら、こっちに来な」
「えっ……あっ、あの……!」
まったく話が分からない。
分からないまま、わたしは急に立ち上がったおじさんに手を引かれ、そのまま細い路地の奥へと連れ込まれた。
わたしは何とかその場に踏み留まろうとしたけれど、ぐいぐいとわたしを引っ張るおじさんの力は怖いくらいに強くて――振り払えない。
「や、やだ……! 放して下さ――わっ!?」
「安心しな、嬢ちゃん。こう見えておれぁ紳士だからよぉ」
本当の〝紳士〟ならこんな風に、力任せに女の子を引き倒したりしない。仰向けに倒されたわたしがそう思った矢先、おじさんはにやにやしながらそう言ってわたしに覆い被さってきた。
そうしてぐいっと赤ら顔を近づけられ、わたしはくらくらするようなお酒のにおいと恐怖でぞっと息を飲む。
どうしよう。全然話が通じない。
怖い。
わたしは本能的な危機感を覚え、すぐにおじさんの体の下から這い出そうとした。
けれどおじさんは毛むくじゃらの腕でそんなわたしを抱えるように捕まえて、「おっとっと」と楽しそうに笑っている。
「おいおい、ここまで来て嫌なんて言わせねえぜ。おれぁもうすっかりその気なんだ。心配しなくても、金ならあとでちゃあんと払ってやるからよぉ」
「い、嫌です、放して! 放して……!」
わたしはおじさんの腕の中から何とか逃げ出そうと、足をばたつかせてもがいた。けれどわたしの細い腕では抗いようもなくて、どんなに力を込めても抜け出せない。
そうこうしているうちに、おじさんの手が嫌らしくわたしの体をまさぐり始めた。
嫌だ。怖い。気持ち悪い。
誰か助けて。
誰か。
誰か――!
「――タピアを放せ!」
怖くて怖くて、ぎゅっと瞑った目に涙が滲んだその瞬間。
突然バリィン!とガラスが割れる音がして、おじさんの悲鳴が上がった。
かと思えばおじさんの大きな体がどさりとわたしの上に落ちてくる。
お、重い……。どうやら気を失っているみたいだ。
何が何だか分からないけれど、とにかく今のうちに逃げなくちゃ。
わたしは必死でおじさんの体を横に除けて、何とかその下から這い出そうとした。
すると急に横から伸びてきた手がわたしを掴み、そのままおじさんの下から引っ張り出してくれる。
クシェルだ。
「く、クシェル……!」
「タピア、無事かい? 怪我はない?」
どうしてここにクシェルがいるんだろう。そう思って呆然としているわたしを余所に、クシェルは落ち着かない様子でわたしをその場に立ち上がらせた。
そうして服についた汚れを払い、わたしに怪我がないことを確かめている。クシェルの手がぱんぱんと忙しなくわたしの背中を叩くので、そこでようやく我に返った。
ふと足元を見れば、そこには割れた瓶の破片。
その隣におじさんが倒れているところを見ると、クシェルがわたしを助けるためにその瓶でおじさんを殴ったみたいだ。おじさんは頭から血を流し、完全に伸びている。
「く、クシェル、どうして……」
「君が一人で部屋を出て行く音がしたから、急いで追ってきたんだよ。こんな時間にこんなところに来るなんて、危ないじゃないか」
「ご、ごめんなさい……」
目の前のクシェルがいつになく険しい顔で言うものだから、わたしはしどろもどろになって謝った。
こんな顔のクシェルを見たのは初めてだ。そのときになってわたしはようやく、クシェルにとても心配をかけてしまったのだと気づく。
「どうしてこんなところへ来たんだい? もしかして、この人の記憶を食べようとしたの?」
「う、うん……前にもこんな風に、酔っ払って道端で寝てる人から記憶をもらったことがあったから……」
「だからって、どうして一人で行ったりするんだ。ちゃんと相談してくれれば、少なくともこんな目には遭わなくて済んだのに」
「そ、それは……だって……クシェルに心配、かけたくなかったから――」
――これ以上迷惑ばかりかけて、クシェルに見放されるのが怖かったから。
本当は正直にそう言いたかったけれど、それを口にするのはやっぱり怖くて、わたしは震えながらうつむいた。
でも、なるべくクシェルに心配をかけないようにと選んだことが、結局クシェルに迷惑をかけてしまった。わたしはそれが情けなくて情けなくて、クシェルを直視することができなかった。
これで今度こそ、クシェルはわたしに呆れただろうか。幻滅しただろうか。
やっぱりわたしと一緒になんか来なければ良かった、って。
わたしはクシェルの口からそう言われるのが恐ろしくて、それ以上何も言えなかった。
そのときクシェルが、はあ、と大きなため息をつく。
途端にわたしの肩が跳ねた。
ああ、やっぱり。
やっぱり、嫌われてしまった――。
「あのね、タピア。僕は……」
クシェルがおもむろに口を開き、わたしは覚悟を決めて目を閉じた。
けれど次の瞬間、突然体に衝撃が走って、わたしは蹴られた石ころみたいに飛ばされる。
再び石畳の上に倒れ込み、痛みを自覚する暇もないまま転がった。
一体自分の身に何が起きたのか、さっぱり分からない。わたしはしばらく呆然としてから我に返り、はっとその場に飛び起きる。
「クシェル!!」
そうして振り向いたわたしの目に飛び込んできたのは、同じく地面に倒されたクシェルと、その上に馬乗りになったあのおじさんの姿だった。
おじさんは額からぽたぽたと血を流しながら、まるで人が変わったような形相でクシェルにのしかかっている。その手が力の限りクシェルの首を締め上げ、喉を押さえつけられたクシェルが声も出せずにもがいているのが見えた。
おじさんは怒り狂った様子で何か怒鳴っているけれど、呂律が回っていないせいかもはや言葉を成していない。
ただただ獣のように吼え、自分を殴ったクシェルに報復しようとしている。
だめだ。
このままじゃクシェルが――!
「や……やめて! クシェルを放して!」
わたしは全身から血の気が引くのを感じながら、なけなしの勇気を振り絞っておじさんの背中に取りついた。
けれど押しても引いても、わたしの力じゃおじさんの体はびくともしない。叩いても髪を引っ張っても、おじさんはわたしに見向きもしない。
その間にもクシェルは苦しそうに顔を歪め、何とか息をしようともがいていた。
けれどそのクシェルの体から、徐々に力が抜けていっているのが分かる。
どうしよう。
どうすればいい?
クシェルを、クシェルを助けなきゃ――!
「お願い、やめて――!!」
叫びながら、わたしは無我夢中で潜った。
おじさんの記憶の海に。
そこにある数十年分のおじさんの記憶を、思いきり吸い込む。
いい記憶も悪い記憶も、全部まとめて吸い込んでいく。
味なんて、もう分からなかった。
わたしにはこうすることしかできなかったから。
クシェルはこの一年、どんなときもわたしを守ってくれた。支えてくれた。
だから、今度はわたしが。
わたしがクシェルを――。
「た……タピ、ア……」
次にわたしが気がついたとき。
そこには首を押さえて苦しげに咳き込むクシェルと、放心して座り込むおじさんの姿があった。
その抜け殻のような横顔に、わたしは見覚えがある。
魂も生気も失って、口を開けたままぼんやりと虚空を見つめる姿。
わたしはそれを前にして、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
あんなにうるさかった腹の虫はもういない。
きっと当分、戻ってこない。
「タピア……どう、して……」
息も絶え絶えにクシェルが言う。けれどわたしは、そんなクシェルに言葉を返すことさえできなかった。
ああ、やっぱり。
やっぱりわたしは〝悪魔〟だ。
クシェルを守るために――彼を失いたくないという自分のわがままのために、人一人殺してしまった。
そう、わたしが殺したんだ。
この人はもう二度と、自分を取り戻すことはない。
それは人にとって死んだのと同じことだ。
もうあんなことは繰り返したくない。
そう思っていたはずなのに――。
「タピア、聞いて。君は――」
クシェルが何か言っている。
わたしの肩を掴んで、真剣な眼差しで。
でもね、クシェル。
もういいんだよ。
もう、わたしのために無理しなくていいの――。
「――おい、お前たち! そこで何をしている!」
そのとき不意に、夜の闇と静寂を切り裂く声がした。
その声に打たれ、クシェルが驚いたように振り向いている。そこにいたのは数人の、銀色の鎧をまとった人たち。
わたしはその姿に、何となく見覚えがあるような気がした。
どこだろう。
どこで見たんだっけ?
人一人分の記憶を一気に取り込んだせいで、頭が上手く働かない。
だけど、そうだ。
あの人は。
あの人たちは――。
「何の騒ぎだ?」
一際冷たい声が響いた。
ちょっと耳に触れただけで、背筋がぞくりとするような声。
その声を聞いてようやく、わたしの意識は覚醒した。
淡く月明かりを弾く金の髪。
まるで刃物を宿したみたいに、鋭く冷たい銀の瞳。
夜風に颯爽と翻る、神聖な白い衣――。
「……! お前は……」
一瞬見開かれた銀の瞳が、わたしを映して細められた。
見間違えるはずもない。
悪魔祓いのエイス――。
その姿を見た途端、わたしの体からぞっと力が抜けていく。
「ようやく見つけたぞ、悪魔」
一年前にあの森で聞いたのと変わらない低い声。
その声にわたしは一瞬、心臓を貫かれたような痛みを覚えた。
だめだ。
この人の声も、眼差しも。そのすべてをわたしの本能が拒絶する。
怖い。
この人とだけは、正面から相対してはいけない。
「そこの男……自我を失っているな。さてはまたお前がやったのか」
ぼんやりと口を開けたまま座り込んでいるおじさんを一瞥して、エイスが言った。その言葉と鋭い視線に、びくりと体が悲鳴を上げる。
――〝また〟。
そう、〝また〟だ。
わたしが最初に記憶を奪ったあの人は、孤児だった自分を育ててくれた人だと前にエイスが言っていた。だからエイスはわたしを祓うことに人生を捧げることにしたのだと。
そしてわたしはよりにもよって、そのエイスの前で二人目の犠牲者を出してしまった。
これ以上は言い逃れできない。
あれは事故だったと説明しても、もう信じてもらえない。
「今日という今日こそは逃がさない。観念して神の名の下にひれ伏せ!」
研ぎ澄まされた刃のような声を上げて、エイスが金の杖を振り翳した。途端にその杖の先に光が宿り、わたしの全身を鳥肌が駆け抜ける。
光。
あの光は、悪魔を滅する神の光だ。
どうしよう。
逃げなきゃ。
でも。
足が竦んで、動かない――
「――タピア、こっちだ!」
立ち竦んでいたわたしの体が、またしてもがくんと揺れた。
一瞬腕が抜けそうなくらいびっくりして、わたしはまろぶように走り出す。
クシェルだった。気づけば彼がわたしの手を取り、路地の奥へと駆け出していた。
わたしの足はそのクシェルに引っ張られて、何とか地を蹴っている。だけど気を抜いたら転んでしまいそうだ。逃げ込んだ路地は奥へ行けば行くほど真っ暗で、街灯の灯も月明かりも届かなくなっていく。
「くそっ、待て! 逃がすか――」
そのとき背後でそう叫んだのは誰だったのか。
わたしはとっさにその声を振り向こうとしたけれど、前を走るクシェルが急に転びそうになったので、つられてわたしまで躓いた。
そのまま二人揃って倒れそうになったけど、何とかクシェルが踏ん張って立ち止まる。一瞬よろりとしながらも、クシェルはすぐに体勢を立て直して走り出す。
「く、クシェル、大丈夫!?」
「ああ、平気だよ。とにかく今は、やつらの目につかないところへ……!」
後ろからは、わたしたちを追ってくる兵士たちの足音が聞こえた。けれど彼らは重たい鎧を身に着けている分少しのろまで、身軽なわたしたちの方が速く駆けられる。
わたしもクシェルもこの町に土地勘なんてなかったけれど、とにかく必死で走り続けた。
息を切らしながら入り組んだ路地をでたらめに走り、少しでもあの現場から遠ざかろうとする。
もっと速く。
もっと遠くへ。
もっと、もっと、もっと――
「――!?」
けれど、そのとき。
あまりにも必死で駆けていたわたしは、自分がいつの間にか前を走っていたはずのクシェルを追い抜いていたことにようやく気づいた。
それも握ったクシェルの手が、突然わたしを引き止めるようにぐいっと引かれたから。
いや、正確には、それは引かれたんじゃない。
振り向いた先のクシェルが、ふっと力が抜けたように倒れ込んで――
「クシェル!」
そのまま顔から地面に倒れそうになったクシェルを、わたしはすんでのところで抱き留めた。
気づけばわたしたちは、寝静まった町の大通りまでやってきていて。ここから北へまっすぐ行けば、この町を離れられる。
だけどクシェルは地面に膝をついて、これ以上はとても走れそうになかった。
どうしよう。
疲れちゃったのかな?
いつものクシェルなら、もっと――
「……クシェル?」
そこまで考えたところで、わたしはようやく異変に気づいた。
脱力したクシェルの体を支えようとした手に、ぬるりと嫌な感触が走る。
何だろうと思ってその手を見たところで、わたしの思考は停止した。
それは、血。
わたしの掌を余すことなく真っ赤に染めるほどの、血――。
「く……クシェ、ル……?」
茫然としたわたしまで、体から力が抜けてしまった。
そのまま二人、支えるものを失って崩れ、石畳に膝をつく。
そうして地面に倒れ込んだクシェルの背中に、わたしは見た。
左の脇腹の、後ろあたり。
そこに鈍く光るガラスの破片が刺さっている。
その色は、先程クシェルがおじさんを殴った瓶のもの――。
「ま……まさか……」
ついさっき――わたしたちがエイスから逃げ出した直後。
そう言えばわたしの手を取って駆け出したクシェルが、一瞬よろけて転びそうになっていたことを思い出した。
もしかしたら、あのとき。
暗くてよく見えなかったけど、後ろから聞こえたあの声の主が、この破片を――
「く、クシェル……クシェル! やだ、しっかりして……!」
大通りに出たおかげで、ここなら街灯の明かりがよく届く。
だから今度はわたしにも見えた。白い石畳の上にゆっくりと広がっていく血溜まり。荒く上下するクシェルの胸の動き。少しずつ青ざめていく、クシェルの顔色。
だけどわたしはそんなの信じたくなくて、悲鳴みたいな声を上げながらクシェルを抱き上げた。
どうしよう。
冷たい。
あんなに必死に走ってきたあとなのに、クシェルの体がとても冷たい。
「た……タピア……」
――早くクシェルを助けなきゃ。
そう思うのに、こんなときどうすればいいのか分からなくて、わたしはクシェルの名前を呼びながら泣きじゃくることしかできなかった。
けれどそのとき、そんなわたしの耳に届いたのは、弱々しく掠れたクシェルの声。
見ればわたしの膝の上で、真っ青な顔をしたクシェルがこちらを見上げている。
「クシェル……! ねえ、クシェル、しっかりして……! 今すぐ……そう、お医者さん……! お医者さんを呼んでくるから……!」
「……タピア……聞いて……僕のことは、いいから……君は、早く……逃げるんだ……」
「いやだ! クシェルを置いてわたしだけ逃げるなんて、そんなのできるわけない! こんなことになったのだって、わたしが……!」
「それは……違うよ、タピア……君に……ついてきたのは……僕が、自分で……選んだことだ……だから……君は……何も、悪くない……」
――だから自分を責めないで。
そう言って、クシェルは笑った。
こんな状況なのに。
このままじゃ、自分が死んでしまうかもしれないのに。
それでもクシェルは、わたしを見つめて優しく笑った。
まるでお別れの合図みたいに。
「ねえ、タピア……僕は、弱くて……君を……困らせてばっかり……だったけど……最後、くらいは……男らしい、ところ……見せられたかな……?」
「クシェル……!」
「でも、本当は……君に……渡したいものが……あったのに……一日じゃ……さすがに、間に合わなかった……やっぱり……最後まで、かっこ、つかないなぁ……」
クシェルはそう言って、困ったように笑っていたけれど。
そんなことない。
クシェルはいつだってわたしを大事にしてくれた。どんなときもわたしの傍にいてくれた。
そんなクシェルを困らせてばかりだったのは、むしろわたしの方だ。
わたしが弱くて意気地なしだったから、クシェルをこんな目に遭わせてしまった。何度も何度も、つらい思いをさせてしまった。
やっぱりあのとき、わたしは間違ったんだ。
クシェルのためを思うなら何も言わずに、振り返らずに彼のもとを去るべきだった。
それができなかったせいで、わたしはクシェルの人生を歪めてしまった。
そう、わたしがクシェルの前に現れたから。
それなら。
それなら、これからは――
「……タピア?」
涙で滲んだ視界に、刻み込むようにクシェルを見つめて。
それからわたしは目を閉じた。
腕にクシェルを抱いたまま。
そうして記憶の海に潜る。
目の前をすごい勢いで流れていく、クシェルの記憶の海に。
その中に溢れている、わたしの記憶に手を伸ばす。
わたしが映り込んだクシェルの記憶を、全部全部腕の中に集めていく。
「――ダメだ、タピア……!」
海の向こうから、わたしを呼ぶクシェルの声が聞こえた。
だけどわたしは手を止めない。クシェルの中にあるわたしの記憶は、全部わたしが持っていく。
もうすぐここには、あの悪魔祓いの人たちがやってくるだろう。
そうすればクシェルは助かるかもしれない。あの人たちはきっと、わたしがどこへ行ったかつきとめるために、クシェルを生かそうとするはずだから。
だけどそのとき、クシェルがわたしのことを全部きれいに忘れていれば。
あの人たちは諦めて、クシェルを解放するはずだ。
たったひとりの神さまの名に懸けて、あの人たちは人を簡単に殺したりはしない。
そうすればクシェルは自由だ。
子供の頃の嫌な記憶も、わたしのことも全部忘れて。
そこから先は、幸せに生きてほしい。
今度こそ、本当の幸せを掴んでほしい。
「タピア……!」
抱えきれないほどの記憶を腕に抱えて、わたしは最後に目を開けた。
わたしに手を伸ばしたクシェルが、縋るような目でわたしを見ている。そうして必死に首を振っている。
けれどわたしは、微笑んだ。
これ以上わたしのせいで、クシェルを苦しめたくなかったから。
「ねえ、クシェル。わたし、楽しかったよ。クシェルと一緒にいられて幸せだった」
――だから、ありがとう。
大好き。
最後に笑ってそう告げて、わたしは一思いに吸い込んだ。
クシェルの記憶。
わたしとクシェルが、今日まで一緒に過ごした記憶。
「タピア――」
そうわたしを呼んだのは、現実のクシェルだったのか、記憶の中の彼だったのか。
それを確かめる方法はもうどこにもない。
けれどわたしはその瞬間、驚いて目を見開いた。
見下ろした先には、月明かりに照らされて眠るクシェルの横顔。
次に目を覚ましたとき、彼はもうわたしを覚えていないだろう。
だけど、おいしい。
クシェルからもらったわたしの記憶は、今まで食べたことがないくらい甘くて優しくて、おいしい。
本当に、おいしい――。
「ごめんね、クシェル……」
身を屈めて、わたしは泣いた。
クシェルの記憶がおいしくておいしくて、泣き続けた。
クシェルがわたしの名前を呼んでくれることは、もう二度とない。
そしてたぶん、再び彼と会うことも。
だけど、これでいい。
これでいいんだ。
二人で紡いだこの記憶は、わたしが大事に持っていく。
◇ ◆ ◇
「グゥゥゥ……」
と、再び鳴いた腹の虫を、ばしっ!と叩く気力ももうなかった。
人気のない森の中の道をふらふらと歩く。枝葉の向こうにある空は今日もよく晴れているけれど、わたしの心は曇り空。一緒にいるのは相変わらず厚かましいおなかの虫だけ。ここまでずっと一緒に旅してきたのに、この虫は今もわたしに優しくしてくれる気配はない。
おなかが空いた。
もうどのくらいまともに食べていないだろう?
歩いていると目の前がチカチカして、何だか体が宙に浮いているような感じがする。地に足をついている感覚がどんどん薄れていって、わたしの足取りはよろよろとおぼつかない。
それでも今は、歩みを止めるわけにはいかなかった。
逃げなくちゃ。もっと遠くへ。
だって、わたしは〝化け物〟なんだから――。
そう、思ったはずなのに。
「あれ……?」
どうしたんだろう。急に世界がぐにゃりと歪む。
まるで絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜただけの下手くそな絵みたいに、森の緑と、空の青と、土の茶色が混ざって何だかよく分からなくなる。
気づけばわたしはそのまぜこぜの色の中に倒れ込んで、ぼんやりと遠くを見ていた。
おなか減ったな。
それ以上に、何だか眠いな。
だったらこのまま寝てしまおう。
そしてもう二度と、目が覚めなければいいのに――。
◇ ◆ ◇
ふと意識が戻ってくると、何だかいいにおいがした。
うっすらと開けた瞼の向こうに、規則正しく並ぶ木の天井が見える。
体が雲の中に沈んでいるみたいだった。と言っても、本当に雲の中に沈んだことなんて一度もないのだけれど。
とってもふかふかで、ほのかに太陽のにおいがする。気持ちいい。
もうずっとこのまま、この心地良さに埋もれていたい。
「――君」
そのぬくもりを手放したくなくて、わたしはもう一度まどろんでしまおうと目を閉じた。
けれどその直後、突然頭の上から人の声がして。わたしは驚きのあまり目を見開くと、カニに前脚を挟まれたネコみたいに跳び上がる。
「うわっ!?」
次いで聞こえたのは短い悲鳴。わたしが目を白黒させながらそちらを見ると、そこには真っ白な布を被ったおばけみたいなのが立っていた。
途端にわたしは恐ろしくなって、体を震わせながらひたと壁際へ身を寄せる。逃げなくちゃ、と脳が警告を発しているけれど、気づけばわたしは小さな寝台の上にいて、行く手は例のおばけに塞がれている。
だけど――あれ?
確かこんなことが、前にもあったような……?
わたしは何だかそんな気がして、目の前のおばけに目を凝らす。するとそのおばけが――正確には白い布を被った何かが――わたわたと動き出し、その動きに合わせて布が内側から突き出したり引っ込んだりするものだから、わたしはまたしてもびくりと跳び上がった。
けれどほどなく、その布がするりと床に落ちて。
「ぷはっ」と息を吐きながら姿を現したのは、
「ひどいな、いきなり布を被せるなんて……」
わたしは、息が止まるかと思った。
だってそこにいたのは、枯草色をした猫っ毛の、
「君、大丈夫? ここがどこだか分かる?」
そう尋ねられたけど、わたしは何も答えることができなかった。
壁際に小さく縮こまった体が震える。鼓動が急に激しくなって、呼吸が浅く、速くなる。
クシェル――。
こんなのは、嘘だと思った。
きっと空腹のあまりに倒れたわたしが、都合のいい夢を見ているだけだと。
だけど、あれからもう一年が経った。今ではクシェルと共に過ごしたあの頃を懐かしむことはあっても、もう一度彼に会いたいと暴れる気持ちはどうにか宥めすかすことができるようになっていた。
それに、たった今目の前にいるその人は、わたしの記憶の中にいるクシェルよりもずっと背が伸びている。同じ年頃の男の子にしてはまだちょっと低い方かもしれないけれど、体つきも何だか少し男らしくなって、一年前に別れたときより体格もしっかりしているような……。
そんなわたしの記憶の中にないクシェルの姿を、こんな風に夢に見たりするだろうか。
それとも心の奥底に封印したはずの会いたい気持ちが爆発して、ついに収拾がつかなくなってしまったんだろうか。
わたしがそんな風に混乱して黙り込んでいると、ときに目の前の彼はちょっと困ったように首を傾げて、懐かしい空色の目でわたしを覗き込んでくる。
「まあ、分かるわけないよね。ここは村外れにある僕の家。君はこの家の近くの森で倒れてたんだ。覚えてる?」
「……」
「そんなに怯えなくてもいいよ。この家にはクマもオオカミもいないから。つまり、住んでるのは僕だけってことだけど」
「……」
「もしかして君、喋れないのかな?」
「しゃ……しゃべれ、る」
――しまった。
そう言えば二年前に初めてクシェルと出会ったときも、こんな答え方をしてとても後悔したんだった。
案の定、わたしの声を聞いたその人は嬉しそうに目を輝かせて。
まるで子供みたいに無邪気な笑顔で、こちらへ身を乗り出してくる。
「良かった! もし喋れないならどうしようかと思った。筆談しようにも、僕、学がないからほんの少ししか字が書けないんだ」
「……字、書けるの?」
「え?」
「字が、書けるの……?」
「ああ、うん、ちょっとだけ。子供の頃は全然書けなかったんだけど、どこか遠い町にいたときに、親切な人に教えてもらったんだ。それがどこの町だったのか、教えてくれたのが誰だったのか、何故か覚えてないんだけど……」
その瞬間、わたしは全身から汗が噴き出してくるのを感じた。
〝覚えてない〟……。
それもそのはずだ。
彼に字の読み書きを教えたのは、わたしだ。
まだ二人で森を出たばかりの頃、わたしは自分も字を覚えたいと言い出した彼にせがまれて、簡単なものからちょっとずつ教えながら旅をしていた。
つまり、彼は。
やっぱり今、目の前にいるこの人は――
「あ……あなたは……あなたは、だれ?」
「僕? ああ、そうか、自己紹介がまだだったね。僕の名前は――クシェル。さっきも言ったけど、この家で一人暮らしをしてるんだ」
そう言って、彼は笑った。
あの頃わたしが大好きだった、きらきら輝くとびっきりの笑顔で。
瞬間、自然と涙が溢れそうになったのを、わたしは口を押さえてこらえた。
クシェル。
生きていた。
生きて、また会えた――
「ねえ、ところで君の名前は?」
尋ねながら、クシェルは再び首を傾げてこちらを見つめてきた。
けれどその瞬間、わたしはその問いが喉に突き刺さったみたいに、口を開くことができなくなる。
それはこの世界の誰よりも、わたしが一番よく分かっていたことだけど。
本当に、覚えてないんだ。
わたしの顔も、声も名前も。
でも、そんなの当たり前だ。だってそうなるように仕向けたのは、他でもないこのわたしなんだから。
それを悲しいと思うなんて、あまりにも自分勝手だ。
わたしは自分にそう言い聞かせて、張り裂けそうな胸に手を当てる。
「ねえ、君? ……どうしたの? 胸が痛むの?」
そのまま答えられずにうなだれたわたしに、クシェルは気遣わしげな声をかけてきた。
ああ、変わってない。そうやっていつも優しく心配してくれるところ。どんなときも気にかけてくれるところ。
だけどだからこそ、クシェルの中からぽっかりとわたしが消えていることが悲しくて、悲しくて悲しくて、わたしは全身を震わせた。
……このままじゃ、だめだ。
泣いている場合じゃない。
こんな風にずっと黙っていたら、クシェルに余計な心配をかけてしまう。
そんなことより今は上手くやりすごして、早くここを出ていかなくちゃ。
あの日、せっかくクシェルを解放することができたのに、このままじゃまた同じことを繰り返してしまう――。
「――タピア……」
「え?」
「わたしの名前は、タピア……」
震える声を何とか絞り出して、わたしはそれだけを告げた。
すると途端に、何故だかクシェルが黙り込む。
どうしたのだろうと思って顔を上げると、彼はわたしを見つめたまま、驚いたように固まっていた。
……?
どうして?
どうしてクシェルが驚くんだろう?
彼はわたしの名前なんて、とうに忘れてしまったはずなのに――
「タピア……? それじゃあ、君が……」
「え……?」
譫言のようにそう呟いたきり、クシェルは放心してしまったように見えた。わたしはそんなクシェルの様子が心配になり、直前まで泣いていたのも忘れてついおろおろとしてしまう。
「く、クシェル……?」
久しぶりにその名前を呼んだ。
すると次の瞬間、クシェルが弾かれたように体を起こした。
わたしはその動きに驚いて、ついびくりと跳び上がる。どうしたのかとあわあわしていると、クシェルは怖いくらい真剣な顔つきになって、言った。
「ちょっと待ってて」
そう告げるが早いか、クシェルは突然身を翻して駆けていく。残されたわたしは呆気に取られて、ただただ茫然と寝台に座り込んでいることしかできなかった。
本当ならその間に、その場から逃げてしまえば良かったのだけど。
なのに、わたしがそうできなかったのは――
「――タピア!」
懐かしい声に名前を呼ばれて、体が震える。
揺れる眼差しを上げて見やれば、そこには息を弾ませて屋根裏から下りてくるクシェルがいた。
彼はとても慌てた様子でわたしの傍までやってくると、緊張したように瞬きをする。
それからほんの少しぎこちなく笑って、
「これを君に」
そう言って、わたしの首に何かをかけた。
ぽすり、と軽い感触が胸に当たって、わたしはそちらに目を落とす。
そこにあったのは、木でできた小さな花の飾り。
瞬間、わたしの脳裏を駆け抜けた記憶があった。
あれは、そう――クシェルとお別れすることになった町。
その町で、わたしが見ていた――
「その首飾りの持ち主を、ずっとずっと探してた」
「え……?」
「どうして自分がそんな首飾りを作ったのか、いつ、何を思って作り始めたのか、何一つ覚えてない。だけど、その首飾りをどうしても渡したい人がいたことだけは覚えてたんだ。その人の顔も声も分からなかったけど、手がかりが一つだけ――それが、〝タピア〟」
クシェルはそう言うと、すっと静かに手を伸ばして、わたしの胸元にある花の飾りを裏返した。
それにはあの日わたしが見ていたような模様はなく、色さえ塗られてなかったけれど。
その素朴な花の飾りの裏側には、拙い字でこう刻まれている。
〝タピアへ〟
その文字を見たとき、わたしはどんな顔をするのが正解だったのだろう?
「タピア。僕は、君を待ってた」
いつかと同じまっすぐな声で、クシェルは言った。
確証なんて何にもないのに、確信に満ちた声だった。
だけどわたしは、答えられない。
次から次へ涙が溢れて、震えた喉から、声が出ない。
「今から一年くらい前のことだ。僕はここよりずっと東の町で、何故か聖教会の人たちに捕まった。そこでエイスって人に訊かれたんだ。〝タピアという悪魔をどこへやった〟って」
「……っ」
「だけど、僕は何も答えられなかった。そんな悪魔のことなんて全然知らなかったから。だから正直にそう答えたら、そのエイスって人はこう言った。〝お前も記憶を喰われたのか〟って」
そう言ってクシェルを見下ろすエイスの苦々しい顔が、目に浮かぶみたいだった。
それがわたしの目論みどおりで、ほんの少しおかしかったけれど、クシェルの話には続きがある。
「その人が言うには、僕はタピアって名前の悪魔とずっと一緒にいたんだって。その悪魔は人の記憶を勝手に食べる悪いやつで、大方僕もそいつに利用されて、邪魔になったから捨てられたんだろうってその人は言った。おかげで僕は、怪我が治ったらそのまま教会から解放されて――でも何かが違うって、そう思った」
「何かが、違う……?」
思わずそう聞き返すと、クシェルは笑って頷いた。
その手が再び伸びてきて、花の首飾りに触れる。そうしてそこに刻まれたわたしの名前を見つめ、クシェルは言う。
「この首飾りを見たとき、思ったんだ。僕にはどうしてもこれを渡したい人がいたって。それが〝タピア〟だったんだって。その悪魔は、僕を利用なんかしてない――ずっと一緒にいるって、約束した。記憶はないけど、そう思った。僕にとって〝タピア〟は、かけがえのない存在だったはずだって」
やがてそのまっすぐな眼差しは、もう一度わたしを捉えた。
涙で滲んだ視界で、クシェルが笑う。
やっぱりあの頃と少しも変わらない笑顔で。
「ねえ、タピア。僕が探していた〝タピア〟は、君のことだよね?」
「……!」
「だって、この首飾りを見て君は泣いた。名前も同じだ。僕は、ずっと君のことを――」
「――触らないで!」
そのとき、わたしに向かって伸ばされた手を。
わたしはほとんど無意識のうちに、けれど夢中で弾き飛ばした。
驚いたクシェルの顔が、ますます滲んで見えなくなる。
だけど、だめだ。
ここで頷いたら、またあの日を繰り返してしまう。
「タピア、どうして――」
「もういいの」
「え?」
「もう、いいの……わたしはクシェルに大事なもの、いっぱいいっぱいもらったから。だからもう、わたしのことは、忘れていいの……」
「タピア」
「それに、わたし……あなたのこと、たくさん苦しめた。わたしと出会ったせいで、とってもつらくて大変な思いばかりさせた。だから、また同じことを繰り返したくない――さよなら」
良かった。
今度は、ちゃんと言えた。
お別れの言葉。
これでいいんだ。
クシェルはただ、忘れているだけ。
わたしと一緒にいる間、どんなに大変な思いをしたか。
だけどそんなのは忘れたままでいい。
もう同じ思いをしなくていい。
わたしはクシェルの横を擦り抜け、そのまま寝台を下りて走り出そうとした。
けれど、
「――待って、タピア!」
突然後ろから手を引かれて。
振り向いたわたしの目に、クシェルのまっすぐな眼差しが刺さった。
今はただ、その目が怖い。
これ以上見つめられたら、わたしはまたクシェルに縋ってしまう。
だめだ。
行かなきゃ。
この手を振りほどいて、わたしは行かなきゃ――。
「それなら一つだけ答えてほしい」
力いっぱい手を引いて、そのまま逃げようとするわたしに。
そのときクシェルが、叫ぶような口調で言った。
だからわたしは顔を上げ、思わずクシェルを待ってしまう。
クシェルはそんなわたしの手を強く握って、
「君が食べたんだろう?」
「え……?」
「僕の中にあった君の記憶は、君が自分で食べたんだろう? だったら教えて――君が食べたその記憶は、そんなにまずかった?」
ぽろぽろと頬を伝って落ちた涙が、木の床にシミを作った。
一つ、二つ――五つ、六つ。
小さなシミはどんどん増える。
それでもわたしの瞳からは次から次へ、絶えず涙が溢れてくる。
もう、答えなんていらなかった。
何も言えずに泣きじゃくるわたしを、クシェルは笑って抱きしめてくれた。
温かい。
あの頃と何も変わってない。
服に染みついた森のにおいも、優しく撫でてくれる手つきも、泣き虫なわたしをあやしてくれるぬくもりも。
「ねえ、タピア。僕は君を忘れてしまったけれど、記憶を失う前の僕ならきっとこう言ったと思うんだ。どんなに苦い記憶だろうと、悲しい記憶だろうと、それはすべて君が僕にくれた宝物だよって」
そう言って、クシェルは笑った。
まるで本当はわたしのことを覚えているみたいに。
だからそのとき、わたしは思った。
神さまは本当にいるのかもしれないって。
そしてわたしとクシェルの運命の書に、こう綴ったんだ。
「だからさ、タピア。もう一度、僕と思い出を作ってくれますか?」
(了)
タピアがどこまでもピュアでかわいらしく、クシュルと心を通わせていく過程の切なさ、そしてあたたかく幸せなラスト……その、どれも純粋で、心からよかったねと祝福したくなるステキなお話でした!
幸せな読後感、大切に心にしまっておきます。