味蕾が求めるその味は(作:葵生りん)
悲しい記憶はしょっぱくて、辛い記憶は辛い。
憤怒の記憶はツンと舌を刺すよう、痛い記憶は舌がピリピリ痺れるよう。
恐怖の記憶はまとわりつくような独特の臭気があるの。
楽しい記憶はピチピチと跳ね踊る若魚のような喉越しで。
嬉しい記憶はあたたかいスープのようにほわりと心が温かくなる。
そして幸せな記憶はね、果実のように瑞々しかったり、蜂蜜のような濃密な甘さだったり、肉汁溢れるステーキだったりいろんな味があるけれど、共通して言えることは超絶おいしいっ!てことなのよ。
どうせ食べるなら、おいしいものがいいわ。
それは人間も同じでしょ?
でもね、どんなにおいしくっても注意しなくちゃいけないの。
おいしいモノは、物足りないくらいちょっとずつだから、おいしいのよ?
……・○◎●◎○・……
(あぁ………お腹空いた…………)
力なく膝を突いてお腹を押さえ、くきゅるるるぅ……と情けなく鳴く虫を黙らせようとしてみるけれど、腹の虫達は勝手に主張し続ける。
(もうちょっと……もうちょっとだから……)
うなだれてしまうと、毛先が黒い白髪の二房の三つ編みが肩から滑り落ちて、ポトンと草むらを叩いた。
私達タピアに出会った記憶は必ず食べてしまうから人間には知られていないはずだけれど、この髪の色と紅玉のように赤い瞳が私達の特徴だ。それ以外に人間と私達を見分ける方法はない。
私達は人間の間に紛れて、人の記憶を糧に生きている。
(もう少しで、あの家につくはず……)
顔を上げると、森の小道の奥、風に揺れる木の葉の間に、小さな家の赤い屋根が見え隠れしていた。
お気に入りの味の記憶を溜めていた人間は、しばらく時間をおいてもう一度行くと、同じような記憶をまた溜めていたりする。
私はそれと知られないようにこっそりと少しずつそれを食べるのが好きだった。
そしてあの赤い屋根の家に住んでいる木こりの親子は、私の縄張りでも一番お気に入りの記憶を溜めていてくれる。
もう少しで甘露にありつける目算が立つと現金なもので俄然気力が湧いてきて、ゆっくりと立ち上がって歩き始める。
あの小さくて祖末な赤い屋根の家には、空腹で倒れていた私を拾った少年と、少年の両親が暮らしている。
(人間って不思議。大きな家でおいしいものをお腹いっぱい食べて寝ている人より、こんなボロの小屋で命を繋ぐのがやっとくらいしか食べていない家族の記憶のほうがおいしいなんてさ)
そんなことを思いながら、以前食べた記憶の味を思い出すと、ついつい口元が緩んでしまう。
今回も「空腹で倒れそうなんです」って言って一晩泊めてもらって、寝静まっている間に少しばかり記憶をご馳走になるつもりなのだから、ヘラヘラしていてはいけない。実際に死にそうなくらい空腹なのだから、それを全面に押しだし、哀れを誘わなければならない。
そう思うのに、もうお腹の虫はうるさいし、涎が出そう。
今回でもう6回目になる道を、急く気持ちを抑えて一歩一歩、歩いていく。
けれど、近づくにつれて、なにか違和感を感じた。
(……おかしいわ……)
いつもなら、このあたりまでくるとまず洗濯物を取り込む母親が私に気づくのに。今日はこんなにいいお天気の昼下がりなのに、洗濯物が干されていない。
いい天気で乾きがいいから早く取り込んでしまったのかもしれないけれど。
玄関にたどり着き、コンコンとノックしてみるけれど返事がない。
(お出かけしてるのかしら?)
ここで食いっぱぐれたら、飢え死にしちゃいそう――と絶望的な気持ちであたりを見回すと、全開の窓から入り込んだ風がふわりとカーテンを翻しているのが見えた。
「不用心ねぇ」
なにげない気持ちで、その窓に足を向ける。
歩いていく間に、おいしそうなオニオンスープの香りとかすかにパンの香りが流れ出てくる。
そう、これはあの母親がよく作る豆とジャガイモが入ったスープの香りだ。手作りのソーセージは少年のと私のに1本ずつだけの、あのスープ。
タマネギは溶けてなくなるほどによく煮込まれたスープがよく染みたジャガイモがほろりと口の中で崩れる、あのスープ。
母親が毎朝一生懸命に練り込んで、父親が焼き上げるパンは、堅いけれど小麦の香りが口いっぱいに広がって、中はしっとりしている――。
ぐきゅるるるる………。
一宿一飯の礼にと何度も一緒に作る手伝いをしたスープとパンの味を思い出すと、腹の虫が盛大に自己主張を繰り返した。
記憶以外のものを食べてもお腹は膨れないけれど、この家族のご馳走は、こんな味だったりするんだもの。
(食事の用意ができているなら、すぐに帰ってくるのよね。あぁ、でもちょっとお昼の時間には遅―――)
窓から覗き込んだダイニングの食卓の上には、想像通りのジャガイモと豆のスープとロールパンが3つ行儀良く並んでいた。
そしてその食卓に、父親と母親がうつ伏せている。
(ご飯の前に、お昼寝?)
そんなわけがないと思いながら、ザワザワする予感に急かされて窓から勝手に小屋の中に入って、ふたりの側に近寄る。
ふたりとも、目が開いていた。
けれど、息をしていなかった。
外傷はない。
ただ、忘れてしまったのだ。
息をしなければ、死んでしまうのだということまで。
私達が一片残らず記憶を食い尽くした人間は、こんなふうに息をすること、心臓を動かすこと、そんな生命を維持する機能までを忘れてしまうのだ。
そして、私達が食べた記憶が元の人間に戻ることは決してない。人間が一度食べたものを元に戻せないのと同様に。
(ひどい、私のご馳走を――……)
強欲で貪欲で大食らいのタピアがこのふたりの記憶をそんな領域まで全部食い荒らしていったのだ。
そういう奴もいるし、それが悪いわけではないけれど。だけど、私はそういう奴が嫌いだった。私は少しずつでもお気に入りの味を何度も味わいたい。
縄張りを荒らされた怒りを凌駕するほどのご馳走を奪われた喪失感。そして空腹で力が入らずに、へたりと座りこんでしまった。
カタン……ッ。
うなだれていると、キッチンの奥から物音がした。
私の縄張りを荒らしたタピアだろうか、それとも――。
急く気持ちと空腹で足がもつれそうになりながらも、キッチンの奥を覗く。
するとそこには少年がうずくまっていて、私を見ると「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。
「い……いやだ、嫌だ嫌だっ、こっちにくるなぁっ!!!」
手当たり次第に投げつけられるオタマやお皿やスプーンが、一個だけ私の足に当たってあとは全部見当違いの場所に落ちていった。
「その、紅い目っ……、さっきの男の、仲間なんだろうっ!?」
ガチガチと歯の鳴る音に混ざって、少年が問う。
ずん、と鉛を飲み込んだような気持ちがした。
どこのどいつだか知らないけれど、こんなテーブルマナーが悪くて、私達の記憶は必ず食べなければならないという掟も破っている奴を、仲間だなんて呼びたくない。
呼びたくないけれど、同族には違いない。
「同じ種族という意味ならば、仲間だけど?」
腹の底にある鉛を押し出すようにその言葉を押し出すと、少年の表情に滲む恐怖が濃く強くなっていく。その恐怖と諦めだけを秘めた目で私を見上げている少年を見ていると、なぜだか胸が軋んだ。
空腹で倒れていた私を見つけて、拾ってくれた少年。
はじめて会った2年前も前回も変わらずに、無垢な瞳でとても心配してくれて何回も「お水いる?」「おいしい?」「おかわりいる?」とか聞いてくれる少年。
私がこの家にいる間は私のことを“おねえちゃん”と呼び慕い、屈託のない笑顔を向けてくれた少年。
泊まる時は一緒のベッドで私にしがみついて、たくさんのお伽話をしてくれた少年。
その少年が、今、私にこんな目を向けている。
それだけのことが、なぜだかひどく胸を軋ませた。
近くに膝をつくと、少年は気が狂わんばかりの悲鳴を上げた。半分押さえつけるようにして、少年の顔を両手で固定する。
「………大丈夫だよ。あんたが死ぬほどに食べたりしないから」
そっと少年の額に唇を押し当てて、息を吸い込むようにして、記憶を吸い出す。
恐怖の記憶独特の臭いが鼻につく。
悲しみの記憶に舌がビリビリと痺れる。
(……あぁ、マッズい……)
だけど、飢え死ぬよりはマシよね。
少年の中にあるタピアの記憶を全部食べ終わり、暖かい風のような記憶に触れ、一呼吸の休憩を入れる。
見開かれていた少年の瞼はいつの間にか閉じていて、一緒に眠った時のような寝顔をしている。
もう一度額に口を付けようとして、なぜか躊躇してしまう。
「…………」
今この少年の中に残っている記憶は、おいしいはずなのに。
なぜだろう、この寝顔を見ていると、それができない。
「…………………もう、お腹一杯なのかしらね」
あんなマズイ記憶を食べたあとだから、食欲が落ちているのかもしれない。少し違うような違和感もあるけれど、それ以外に理由が思い当たらない。でも、そんなことは大した問題じゃないわと気持ちを振り切ると、少年をそっとその場に寝かせて私は立ち上がる。
「今度来る時までに、またおいしい記憶を溜めておいてよね」
意識のない少年に言い残し、私はダイニングへと足を向ける。
一歩足を踏み出す度に、私が今まで食べた中でいっちばん最悪の、ドブみたいな記憶の味が脳裏に蘇って吐き気がしそうになる。
口元を覆ったとき、ふわりとスープの香りが鼻をくすぐった。
「口直しに、ちょっとだけもらうからね」
意識のない少年に一応断りを入れてから、ジャガイモと豆だけのスープをひとりぶん、それから、堅いけれど香りのいいパンを一個もらって食べると、私はその家をあとにした。
……○◎●◎○……
「ご飯、できたわよ~」
「はーいっ、今あがる~」
薄暗くなってきた家の外に声をかけると、跳ねるような元気のいい返事がかえってくる。
明かりを付け、寸胴鍋から豆とジャガイモ、それからソーセージが一本だけのオニオンスープをお皿に盛りつけて食卓に置く。それから今朝ふたりで焼いた、形が悪い上に奥歯で噛み切らないといけないような堅いパサパサしたパンも。
粗食だけれど、パンは焦げてないし、このスープから漂う湯気の香りは、なかなか満足のいく出来だ。
「いっただっきまーす。うん、今日のスープ、とってもおいしいよ!」
「ちょっと、そんな格好で食べないの!」
肩にかけたタオルで滴る汗を拭いただけで、土と埃にまみれたままスープをすすった少年を叱りつける。だけど少年は風の音でも聞いたみたいに素知らぬ顔でそのままパンにかじりついている。
「ふぁって、おなふぁふいてふぁんらもん」
「口いっぱいにパンを詰め込みながらしゃべらないの! あんた、いくつなのよ!」
へらりと笑った少年は「14だよ」とあっけらかんと言う。
「だってさ、薪割りってすごく大変ですっごくすっごくお腹空くんだよ! おねえちゃんもやってみるとわかるって」
何度かお手伝いで作ったスープもパンも、おんなじようにおいしくはできないけれど、それでも彼はいつも満足そうに食べてくれる。
少年も今は父親の手伝いをして培っていた知識と経験を生かして駆け出しの木こりとして働いているから、いつも何を食べてもおいしいと思うくらいにお腹が空いてるらしい。
「ねぇ、今日のスープ、ソーセージ入っているけどなんかの日だっけ?」
「……………ヒミツよ」
少年はうぅんとしばらく考え込んでいたけれど、私が額に軽く唇をあててから「ほら、今はご飯の時間よ」と言うと、「うん」と朗らかに返事をして堅いパンを噛むことに意識を向けた。
夕餉が終わって汗を流してさっぱりした少年は、くたくたの体をベッドに投げ出すと同時に眠ってしまう。
「………おやすみなさい」
体が大きくなって、もう一緒に寝ることはないけれど、それでも昔と同じ寝顔の少年の前髪に触れる。
額に唇をあて、記憶を吸い出す。
気になって様子を見に行ったら、この子ったら泣いてばかりでさ。
これじゃあもう二度とあのご馳走が食べられないじゃない?
だから慰めて、身の回りの世話を焼いてあげてるのよ。その代わりに、少しだけ一日の記憶をこっそりわけてもらうの。
要するに、ニワトリの世話して卵をもらうようなものかしらね。
そんな生活をはじめて、今日でもう2年になる。
(あぁ、おいしい……)
あ、これは夕餉のスープに入っていたソーセージの味ね。パリッと皮が弾けて、スープの味も染みた肉汁が溢れてくる。
あら、木こりの親方が「ちったぁコツが掴めてきたんか?」と頭をワシワシなで回してくれたの? よかったわねぇ。
それからこっちは今朝パンを焼いた時、どういう具合か一個だけ上手にふんわり膨らんで、ふたりで分けて食べたパンの味とおんなじ。
この子って不思議。
一個のパンをわけて食べることが、こんなに幸せなのかしら。
あぁでも、あの時私もなんだかお腹いっぱいになった時みたいな気持ちで、一緒に笑ってたっけ。
これは私が笑う顔――あ。やだいけない。うっかり食べ過ぎちゃうところだったわ。
蜂蜜より濃密な、極上の甘い記憶。
これは、ほんの一舐めだけにしておかなければね。
だって毎日少しずつ、さらに甘みと深みを増していくんだもの。どこまでおいしくなるのか、期待しちゃう。
急いで唇を離し、前髪を元に戻す。
「明日もあなたにたくさんの幸福が訪れますように」
じっくりと味蕾に残る余韻を最後まで味わうと、もう一度額に口づける。今度はただ祈るために。
それから少年から離れ、灯りを消して窓を閉め、自分のベッドに潜り込んだ。
暖かいベッドの中であの甘い記憶の味を思いだすと、胸がほっこりと暖かくなる。
私って幸せね。
毎日こんなにおいしいものを食べられるんだもの。
でもくれぐれも食べ過ぎには注意しないとね。
おいしいモノは、物足りないくらいちょっとずつだから、おいしいのよ。