煙草男「焦燥――そして閃き」(作:鈴木りん)
――ここは、駅前広場の禁煙の場所。そこでスパスパ、煙草を吸っている。服装も、だらしない。だから、絶対に目立つはず。『約束の女』が、俺を見間違うはずはない――
さっきから、何度も何度も脳内で繰り返している。……リフレイン。自分に対する、「いい聞かせ」と云ってもいいのだが。
俺は、『焦り』が顔に出ないよう必死に気持ちを抑えながら、もう二年も前に止めて、今では不味さしか感じない煙草を、足元で踏み消した。そう――アイツのために止めた煙草を……
なるほど……『焦り』って『何かが焦げた』ってことなんだな――
そう思ってしまうくらい、俺の気持ちの中の何かが小さな炎で燻されているかのような、そんな嫌悪感のある焦げ臭さが、俺の鼻の奥に残っている。
もうすぐ約束の時間になろうとしているのに、この駅前の人通りは一向に増える様子がない。俺のほかには、駅前広場に佇むのは二人の女だけ。
もしかして、この女たちのどちらかが渡瀬鏡子なのか?
そう。やっぱり俺は、焦っているに違いない。
確かに、向こうから声を掛けてくるという約束だった。けれど、それを無視するように、俺は高校生らしき女と、四十絡みの女、どちらにも声を掛けてしまえとばかり、勝手に体が動いてしまったのだ。
待ちに待った、千載一隅のチャンス。仕方がないだろ? と、もう一度、自分にいい聞かせてみる。
「あんた、渡瀬鏡子か?」
「渡瀬鏡子を知っているの?」答えたのは、四十女。
「みなさん、渡瀬鏡子を待っているんですか?」とは、女子高生。
彼女たちから返って来た返事は、どちらも俺の期待していたものではなかった。
どうやら、二人ともに、俺の『お目当ての女性』ではないらしい。
「どういうことだよ。俺たちみんな同じ奴と待ち合わせしているのか?」
「いえ、私は待ち合わせというか、勝手に待っているというか……」制服姿の方が、もじもじしながら、いい難そうに云った。
――駅前に集まった、互いに見知らぬ、関係者らしき三人の俺たち。
全く、訳が分からない。
渡瀬鏡子という女が、今日、この時間にここに来るということ以外は、そのメールには書かれていなかったのだ。歳や背格好くらい確認しとけばよかったのだろうか? でも、他に二人も関係者がいるなんて、聞いてねぇし――
それとも、これは何かの罠?
思わず、周りをきょきょろと見回した。しかし、別段、怪しい奴は見あたらなかった。
――だが。それにしても、だ。
先ほどから、辺りをうろつく、あの中年男性のタクシードライバー。本当に、鬱陶しい奴だ。ストレッチなどして何気なさを装っているが、こちらの話が興味津々で近くにいるのが、バレバレだ。
だが、一応、知らぬ振りをしておく。何か騒がれでもしたら、面倒だし……
最近は、景気良くなったんだろ? この国の首相も、この前そう云ってた……まあ、今となっては俺には全く関係のない話ではあるがな――こんなところでちょろちょろしてないで、さっさと仕事しろ――
そんなことを、俺が考えていたとき。
もう一人、別の女が改札口を抜けようとしているのを、初対面の俺たち三人が、同時に認めた。
今度こそ、渡瀬鏡子?
俺たちの視線が、ぐいっと彼女に集まっていく。
ごく普通の女――というより、地味で影の薄い女――そんな印象。
ともに視線を戻し、顔を見合わせた俺たち三人は、お互いが焦る気持ちを無理矢理抑えるように、ゆっくりと改札口へと向かった。
その行く手を遮るように、俺たちは彼女に近づいていく。
俺たち、二人の女と男が圧力的に目の前に迫るのを感じたのか、その女は、一瞬、引きつった目をした。
よく見ると、目鼻立ちは悪くない。寧ろ、美人の部類であろう。けれど、服装と化粧、体全体から伝わるのは、地味な印象ばかり……もしかして、故意とやっているのか? そんな気もしてくる。イマイチ、年齢もわからない。全く、謎な女だ。
一方、先ほどから一緒にいた二人の女たちは、黙ってしまった。二人とも、その目を見開くようにして、じっと彼女の顔を見つめている。
こいつら、渡瀬鏡子の顔を知っているのだろうか?
そんな疑問はあるが、声を出そうとしない二人に代わり、仕方なく俺が質問する。
「あんたが、渡瀬鏡子か?」
年齢不詳の女は、怯えたように、小さく頷いて見せた。
当たり前でしょう? という顔をして、高校生と四十女が俺を睨む。こいつらは、俺と違って、彼女の顔を知っていたようだ。だったら、お前らが先に声をかけてくれよ。
――益々、この状況がわからなくなる。
「……これは、予想外の展開ね。とにかく、外に出ましょう」
喉の奥にある小さな花園から出しているかのような、周波数の高い美声。
やっと口を開いた渡瀬鏡子は、そのほっそりと長い指を、バスターミナルへの出口へと向けた。
「まあ、仕方がないわね」厳しい顔つきで四十女が云う。
「は、はい! お願いします!」女子高生は顔をパッと明るくする。
俺は故意と低い声で、わかった、とだけ呟いた。
四人でぞろぞろ、バスターミナルへと抜けていく。
それぞれが、それぞれ胸に思惑を秘めている……そんな感じ。
だが、やっぱりここは、中途半端な街だ。日曜の朝とはいえ、駅前だというのに相も変わらず、人の姿が見当たらない――あの、タクシーのおっさんを除いては、だが。
渡瀬が座った、ターミナルのバス待ち席。その両隣に、女子高生と四十女が陣取る。俺は渡瀬の目前に立ち塞がるようにして、彼女を見下ろした。
「これは、一体どういうことなんだ? 俺は、他の人間が来るとは聞いて……」
そう話しかけた俺の言葉を遮って、両端の女どもが、けたたましい声で騒ぎ出した。
「ぜひ一度、お会いしたかったんです! あの有名な占い師、渡瀬鏡子さんに!」
「お願い、借金はもう少しだけ待って! 必ず、必ず、返すから! お願い!」
女子高生は憧れの眼差しで、四十女は哀願の眼差しで、渡瀬にそれぞれ必死に話しかけている。俺は、やっと、この状況が飲み込めた気がした。
――熱烈なファンに、借金の相手……こいつら、俺とは全く違う目的で、渡瀬鏡子を待ち伏せしてたわけか――
二人の金切り声を察知したのか、あのタクシドライバーが、また、ふらふらと近づいてきた。俺の左斜め後ろあたり。何気なく近づいたつもりだろうが、俺には簡単に、その気配が分かる。何せ、最近は俺にとっての『来たるべき瞬間』のために、神経を研ぎ澄ましてきたのだから……
と、そのとき、渡瀬の様子に変化が見えた。
両側のえらい剣幕の女たちには適当に受け答えしながら、じっと俺の目を見つめだしたのだ。そして、頻りと俺の左脇のあたりを顎を突き出すように顔を動かして、そちらの方向を指し示している。
!!!
まさに、紫電一閃。俺は、その瞬間にすべてを理解した。俺の焦燥の中に現れた、一筋の光とでもいうべきか。
「そうなのか?」
少し上擦った俺の声に、渡瀬鏡子がその細い喉をゴクリとやって、頷いた。
「……わかった。ありがとうよ」
まだ、ぎゃあぎゃあと喚き続ける二人の女と、神妙な表情をした一人の女を残し、俺は一人、くるり反転、振り向いた。
「お前か……お前なのか? 俺の美里を殺したのは!」
ストレッチを繰り返していた中年男の目に、恐怖の色が現れる。
「もう一度、訊く。お前か? お前なのか? 俺の美里を殺したのは!」
朝の街中に、ビルを反射するようにして、俺の声が鳴り響いた。
「そうよ、アイツ! そこの五十嵐が、あんたの恋人だった小林美里さんを、一年前にひき逃げした張本人なの!」
俺の背後でそう叫んだのは、渡瀬鏡子に違いなかった。何せ、彼女はプロの情報屋なのだから。そのプロの情報屋が、占い師と金貸しの副業までしているとは、全く知らなかったが……
「ひいっ! 私は何も知らない!」
自分の車へと走り、逃げこもうとする五十嵐を、俺は、左手一本でひっ捕まえた。余程びっくりしたのだろう。奴の足は、もつれにもつれて、まともに走ることもできなかった。その点、俺はこの日のために心の準備、心の訓練を怠らなかったから、冷静に対処できた。
「お前だな、五十嵐! 一年前、一人の女性を車でひいた上に、そのまま放置して死なせたのは!」
「は、放せ! ……あ、あれはあの女が悪かったんだ! 一晩中、街を車で走り回って疲れきっていた私の目の前に、突然飛び出してきたあの女が! 車にひかれたって仕方がなかったんだよ!」
泣き崩れる、五十嵐。
俺は、俺の膝元で小さくうずくまる、一人の中年男を深呼吸しながらゆっくりと見下ろした。
「それでも、そのとき救急車を呼んでいれば、彼女は助かったはずだ……では、認めるな。お前が彼女をひいたということを……」
「私にも、家族がいる……だから云えなかった……許してくれ……頼む、許して……」
その瞬間、俺は懐から拳銃を取り出し、五十嵐に向けて、三発、放った。
パン、パン、パンッ
乾いた音が、中途半端な街角にこだまする。
その数秒後、もう二度と動くことはないであろう五十嵐の体が、俺の足元にあった。
俺は美里に説得され、一度はやめた煙草を包みから一本取り出すと、口にくわえた。
昔、愛用していたジッポのライター。
シュッ……
親指を擦るように下へ降ろし、煙草に火を点ける。
死体がくすぶったような、焦げた腐臭のようなものが、辺りに漂った。
げほっ……
久しぶりに吸う煙草は、「喉がいがらっぽくて、苦しいだけ」なのを、再確認。
背後では、女三人がこの場から去ろうと、必死に、そしてなるべく音をたてないように逃げていく足音が、聞こえる
――あんたたちを撃つなんてこと、するわけないのに――だって、俺がこの世でやり残したことなんて、もうないのだから――
胸ポケットの残りの煙草を、ばら撒くようにして、箱ごと捨てた。薄紫色の煙が、もうほとんど死体になりかけた俺の体をあぶるように一度取り巻いたあと、何処かへと消え去っていく。
――やっぱり不味いな、美里。……煙草なんて、やめて正解だったよ。
俺は、煙草をくわえたまま、まだ一発だけ弾丸の残っている拳銃を自分の右こめかみにあて、一つだけ、大きな息を鼻から吐いた。そして、拳銃にかけた一本の指に、人生最後の渾身の力を、ぎゅっと込めた。
【END】
渋くてカッコイいい男の背中。
ほのぼのや楽しい作品が多い鈴木さんの幅の広さを感じ、新しい一面を見たような気がします。
止めた煙草を吸っている描写など本当にハードボイルド!間違いなく、夏号をオードブルにしてくれた良作のひとつですね!!